12月 15
来年2023年1月以降の中井ゼミの日程が決まりました。
いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。
月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会+「現実と闘う時間」を行う予定です。
「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。
参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。
ただし、参加には条件があります。
参加費は1回2000円です。
1月
8日
22日
2月
5日
19日
3月
5日
19日
11月 10
11月20日の読書会テキストが決まりました。参加希望者はすぐに連絡をください。
11月20日はヘーゲル『法の哲学』の序文を読みます。
テキストは、中公クラシックス版を使用します。または「世界の名著」の『ヘーゲル』(中央公論社)を用意してください。
岩波文庫版ではありません。
世界の名著版を中古で購入すると安く入手できます。
超有名な序文ですが、
私が考えたいのは、個人や思想が「時代を超える」とはどういうことか、です。
以下を参照してください。
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『法の哲学』の序文で、私が一番心惹かれるのは、プラトンの『国家』についての叙述部分(中公クラシックス『法の哲学 ? 』24ページ)である。
「私は以下の本論考中(§一八五注解)に述べておいたが、空虚な理想のことわざと見なされているプラトンの『国家』ですら、本質的にはギリシア的倫理の本性よりほかのなにものをも把握しなかったのである。だからプラトンは、ギリシア的倫理のなかへ闖入してくるさらに深い原理〔主体的自由の原理〕を意識したとき、この原理はギリシア的倫理に直接的には、あるまだ満たされていない渇望として、したがってただ滅びとしてしか現われえなかったので、彼はまさに渇望からこの滅びにたいする救いをさがし求めざるをえなかった。しかも、いと高きところから来るのでなくてはならなかったその救いを、プラトンはさしあたりただ、あのギリシア的倫理の外面的な特殊な一形式のうちにしか求めることができなかったのである。この形式によってプラトンはあの滅びを圧伏することを考えたのであるが、それによって彼はギリシア的倫理のさらに深い衝動、自由な無限の人格性を、まさしく最も深く傷つけた。
だが彼の理念のきわだった特徴の中心をなす原理が、まさしくその当時、世界の切迫している変革〔キリスト教の成立〕の中心となった軸であるということによって、プラトンは偉大な精神たるの実を示したのである」。
ここはわかりにくい表現である。ヘーゲルは、プラトンを高く評価しているのか、低く評価しているのか。どちらなのか、それがわかりにくい。
私はここを読みながら、時代を超えるとはどういうことか、自分が生きるのが終わりの時代、始まりの時代だった時に、どう生きたらよいのかを考えた。
ヘーゲルの主張をまとめれば次のようになる。
(1)プラトンの『国家』には、リアルな社会認識がなく、プラトンの理想の世界があるだけで、空虚な理屈でしかない。これが一般的な理解だが、ヘーゲルはこうした見解に反対している。
(2)当時のギリシャ世界に、個人主義という欲求、衝動が生まれていた。これが、当時の新たな当為だったのだが、プラトンにはそれがギリシャ世界を破壊するものとしか理解できなかった。
(3)本来は、その欲求の中に、問題の解決があるのだが、その欲求を真に普遍的にとらえたのはイエスであり、キリスト教である。そのはるか以前のプラトンにそれを求めるのは無理である。これが時代の限界。
(4)プラトンは、この欲求と闘おうとしたが、その欲求の内ではなく、その外側にあるギリシャ世界の倫理に頼るしかなかった。ギリシャ世界の内部から生まれた個人主義の要求を、ギリシャ世界の倫理をより根源的に深めることで抑え込もうとしたのだ。しかしこれは普遍性に対して、外的な特殊性で戦おうとするもので、敗北は見えていた。
(5)しかし、プラトンは偉大である。彼がギリシャ世界の倫理を深めた原理が、新たな世界と古代世界との転換点を明らかに示したからだ。
当時のアテネの状況を思い浮かべてみる。若者たちがアテネのためではなく、自分自身のためにだけ生きようとし始めた。これにどう向き合うかが、問われた。多くの市民たちは、これはアテネの危機である、ギリシャ精神の危機であると感じ、若者たちに反対し、可能ならその傾向を抑えようとした。
プラトンも変らなかっただろう。当時の若者たちに共感はできないし、その個人主義を人類のより深い欲求であり、真実であるとはとらえられなかった。むしろ、それをその根から完全に滅ぼすべく闘った。それが『国家』という著作である。
しかし、それは単なる外的な反応ではなく、実はプラトン自身の自己反省によってギリシャ精神の原理の反省、それを深めることで対抗しようとしたのだ。若者たちを生んだのは、まさにギリシャ精神だからである。それはどこでどう間違えたのか。その答えを出すべく、ギリシャ精神の全面的な反省をしたのが『国家』である。
これはギリシャ精神の限界を徹底的に明らかにすることになった。限界を深め、それを制限にまで深めたのではないか。そして、それによってプラトンは時代を大きく超えたと言っても良いのではないか。
ヘーゲルは、この『国家』を残したことで、プラトンが自らの偉大な精神を示したという。なぜか。何をもってそういうのか。
プラトンには、個人主義の意義、それが新たな当為であることを理解することはできなかった。その意味では保守反動である。時代を超える新たな当為を理解できなかったのだから、プラトンは時代を超えられなかった。
しかし、プラトンはそれと闘うために、ギリシャ世界の倫理を徹底的に深めようとした。それはプラトンにとっては、自己反省によって、自分とは何かを徹底的に明らかにしたことになる。それは古い世界の全体を、その原理原則にまで深めてとらえ直そうとした。そしてそれによって逆に、新しい世界とその原理原則を解き明かしているのではないか。それをヘーゲルは最大限に評価しているのだ。私はプラトンは、新たな当為と闘うことで、時代を超えたのだと思う。
ヘーゲルが「プラトンは偉大な精神たるの実を示したのである」と言う時、実はプラトンにヘーゲル自身を重ねていたのではないだろうか。時代が完成する時、哲学が現れると言うのだが、それはすでに古い世界の終わる時であり、その内部に自分を超える新しい世界が生まれようとしている。そして、その新しい世界によって自分の姿をハッキリと見られるようになる。それが限界が制限になるということの意味である。
自己の内部に自分を超えるものを捉える力。それは自分の限界を知ることだが、それはまた自分の全体を捉え直す力である。限界を制限に高め、次の当為を指し示す。それが彼の『法の哲学』ではないか。自己反省が第一である。
プラトンが『国家』でそうしたように、ヘーゲルは『法の哲学』を書くことで、マルクスの唯物史観を生み、それによって時代を超え、さらにはマルクスをも超えるものを残したのではないか。
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10月 20
本日、2022年10月20日の朝日新聞朝刊・教育面「明日へのLesson」に中井の記事「『生徒会規約』もとに入試改革を考える」が掲載されました。
大学入試共通テストの国語の問題を取り上げて、近年の大学入試、国語入試改革の現状を批判、検討する内容です。
以下の、朝日新聞デジタルのURLから読むことができます。
(明日へのLesson)第3週:クエスチョン 「生徒会規約」元に入試改革を考える:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/DA3S15450186.html
10月 05
ヘーゲルゼミも再開しています
テキストはヘーゲル『哲学史講義』で、序論を読み、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの範囲を読みます。
ズールカンプ版全集の18巻、19巻を用意してください。
翻訳では長谷川宏訳が河出文庫で入手できます。
隔週月曜日の晩7時から2時間ほどオンラインで行います。
10月17日、31日
11月14日、28日
10月 04
10月23日の読書会テキストが決まりました。
9月の読書会では藤沢令夫の『プラトンの哲学』(岩波新書)を読みました。
10月はプラトンの『パイドン』を読みます。岩波の全集第1巻で読みます。その訳注は松永雄二の仕事ですが、これにも学ぶことが多かった。
プラトンの思想というと、イデア論、想起説、魂の不死とカタルシスなどがすぐに出てきますが、それが確立したのがこの『パイドン』だったようです。
これを踏まえて、プラトンは『国家』をまとめたとされています。
ぜひご参加ください。