3月 25

本論文について 中井浩一

中井ゼミでは、マルクスについては何度も取り上げて検討してきました。資本論の第一巻の通読をしました。その中では第1章の商品論を丁寧に検討し、第5章の労働過程論はドイツ語で詳しく検討しました。第7編の資本の蓄積過程は何度も繰り返し読みました。またマルクスの『経済学批判』の「序説」(特に「経済学の方法」)は繰り返し読んで、ドイツ語でも検討してきました。これらの到達点の一部は、昨年2月に『現代に生きるマルクス』として刊行しています。

安藤雷さんはそれらを踏まえた上で、初版『資本論』第1章への付録、いわゆる「価値形態論」(信山社版、ドイツ語原文と牧野紀之の訳注を収録)を自分で丁寧に読んで検討し、それを大部のメモノートにまとめました。それについて私と安藤さんとで意見交換をしましたが、それを踏まえたうえで、安藤さんが自分の考えをまとめました。それが今回このブログに掲載する論考「交換も人間労働である」安藤雷著です。

マルクスは「価値形態論」で、商品と商品との交換が事実成立することから、その根拠としての商品の価値、またその価値を表現する貨幣の成立をとらえていきます。
安藤さんは、その考察の進め方に、その交換活動そのものもまた労働である(商品である)という側面が抜けていることを指摘します。これはあまりにもシンプルで、根本的な、大きな問題です。それなのに、この問題はこれまで誰からも指摘されてこなかったのではないでしょうか。

どうして、この簡単な欠陥が見逃されてきたのでしょうか。研究者はみな、マルクスが設定した枠組みの中でしか考えられず、その枠組自体を検討することができないからだと思います。
安藤さんは、マルクスの設定した枠組み自体を批判したのです。これは大きな成果であると思います。

この価値形態論についての中井自身の考えは、追って、このブログに掲載したいと思っています。

■ 目次 ■

交換も人間労働である
──マルクスの資本論「価値形態論」における大きな欠陥──  安藤雷

1.はじめに
1?1.附録について
1?2.価値形態論について
1?3.価値形態論の方法・前提の確認
2.価値形態論の欠陥
2?1.形式面:必然性の欠如
2?2.内容面:交換の軽視ないし無視

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◇◆  交換も人間労働である
──マルクスの資本論「価値形態論」における大きな欠陥──  安藤雷  ◆◇

1.はじめに
本稿は、マルクスの資本論初版第一章への附録「価値形態論」を主たる検討対象にして、まとめたものである。

1?1.附録について
マルクスの資本論は「商品論」から始まる。第一編が「商品と貨幣」で、その第一章が「商品」となっている。商品から貨幣を導出し、貨幣から資本を導出し、資本の中に剰余価値のを見るのが資本論である。「商品論」において商品から貨幣を導出する部分が「価値形態論」(Wertform)である。
これは初版では本文だけではなく附録(Anhang zu Kapitel?, 1.)の形でもまとめられている。本文の価値形態論は分かりにくいから補遺が必要だという友人クーゲルマンのアドバイスに従ったものである。価値形態論と附録について、初版の序文では「それまでの叙述よりも弁証法がはるかに鋭くなっているので、それは難解である。・・・(中略)・・・そこでは、事柄を、その科学的な理解が許す限りできるだけ単純に、また学校教師風にさえ叙述するよう努めている。」と書かれている。
他方、エンゲルスは価値形態論を補遺の形でまとめ直す必要はないとしていたが、これに対して、マルクスは1867年6月22日にエンゲルスに宛てた手紙で付録の必要性について次のように書いている。
「相手にするのは俗人ばかりではなく、知識欲のある青年などもいる。その上、事柄はこの本の全体にとってあまりにも決定的だ。経済学者諸君は、これまで次のような極めて単純なことさえも見落としてきた。すなわち、“20エレのリンネル=1着の上着”という形態は“20エレのリンネル=2ポンド・スターリング”の未展開な基礎に他ならないということ、したがって、商品の価値がまだ他のすべての商品に対する関係としてではなく、ただその商品自身の自然形態から区別されたものとして表現されているにすぎない最も単純な商品形態が、貨幣形態の全秘密を、したがってまた、つづめて言えば、労働生産物のすべてのブルジョア的形態の全秘密を含んでいる、ということだ。」(下線は筆者が引いた)
マルクスとしては、どうしても価値形態論を広く理解してもらいたいと考えていたということである。さらに、そのために付録では§とかa) b) c)とかα) β) γ)といった記号を使い、見出しを付け、規定の移行が一目でわかるような工夫もしている。

1?2.価値形態論について
マルクスは価値形態を全部で4つの式から構成している。アルファベットは商品である。なお、ややこしくなるため、ここでは量的規定は抜いてある。
?式 単純な価値形式 商品A=商品B
?式 全体的または展開された価値形式 A=B,C,D,E,・・・
?式 普遍的な価値形式 B,C,D,E,・・・=A
?式 貨幣形式 A,B,C,D,E,・・・=貨幣(〇〇円、〇〇ドル等)
先に引用したエンゲルスへの手紙にあるように、最も単純な商品形態が?式であり、ここにはすべてが含まれていて、資本論全体にとって決定的なものであるとマルクスは考えている。そして、?式から?式まで展開されて、貨幣が導出される。この展開において、マルクスは?式から?式の「逆転」、その際に起こるA以外のすべての商品が?式において「排除」されることを、最も難しいとしている。
「貨幣形式を理解する上での困難は等価物の一般的な形式の理解に絞られ、したがって価値の一般的な形式つまり第?形式の理解に絞られるのである。」(附録の最終節 「商品という在り方の単純な形式は貨幣形式の秘密である」より)

1?3.価値形態論の方法・前提の確認
実際のマルクスの方法としては、大きく言って以下の???の前提に立って展開させており、その結果として?の展開になっている。
? 左辺を価値表現・価値形式における相対的価値形式、右辺を等価物形式と呼び、両者は対極にある。左右が入れ替わると、形式が真反対となり、まったくの別物になる。
? ある商品は相対的価値形式と等価物形式の両方の形式を同時に取ることはできない。
? 相対的価値形式の位置にある商品は、自らの価値を表現するためには、等価物形式を取る商品、自らとは異なる別の商品を必ず必要とする。
? 等価物形式を取る商品は何でも良いのだが、人間の抽象的労働力の支出の結果として生み出された労働生産物でなければならない。
? その理由は、価値の実体は人間の抽象的労働力の支出だから。
? アリストテレスが価値概念を理解できなかったのは、奴隷制社会に生きた影響から価値の実体が人間労働であることを理解できなかったから。
? Verkehr(注1)の内部においてのみ、労働生産物は価値・商品という性質を持つ。
? 等価物形式を取る商品として、?式では任意の1つが選ばれる。?式ではA以外の全商品が選ばれる。?式ではそれが逆転して、逆に、他の全商品から排除されたAだけが選ばれる。?式ではAとして金が社会的慣習や社会的過程(注2)によって選ばれて、貨幣形式に到達する。

2.価値形態論の欠陥
価値形態論はA=Bを展開させたものである。この最も単純なものが貨幣になり、資本になり、全世界を覆い尽くすという発想のスケールはあまりに大きく、一元論の行き着く最大規模のものと言えると思う。実に画期的なものである。この始まりの部分に力を込める点にマルクスのマルクスたる所以があるだろう。
しかし、この始まりの部分に大きな欠陥があることもまた確認することができる。それは、商品Aと商品Bをつなぐ交換行為に焦点が当たっていないということだ。交換行為も労働のはずだが、それが押さえられていないのである。交換行為とは分業と言い換えても良く、社会的分業にまで至った際のその意義の大きさはマルクス自身が認めているものなので、マルクスにとっても決して軽い問題とは言えない。
この欠陥は形式・内容の両面で問題を引き起こす。何より、始まりにおける重大な欠陥である以上、資本論全体に影を落とすことになるだろう。

2?1.形式面:必然性の欠如
三つ目の項目である交換が捨象されることから、二項関係のみで展開されることになる。これが形式面での最大の問題であり、必然的な展開にできなくなってしまう。まず、二項関係だけでは商品から貨幣を必然的な形で導出できず、実際に「逆転」「排除」という方法を使っている(注3)。この導出方法では貨幣・資本が「疎外態」となり、断罪されることになる(注4)。
次に、何かある概念を導出する際にも、必然的展開ではなく、唐突に出すか、定義・前提の形で断定的な出し方をしている。例えば、価値の実体が人間の労働力の支出であることや、使用価値と交換価値と価値の関係のところなどが、重要な部分にも関わらず該当する(注5)。
そして、何より、「止揚」(aufheben)や「全体性」(Totalität)という方法を取ることができていないために必然的展開にならない、とも言い換えられる。「止揚」「全体性」といった捉え方であれば、必ず事物の意義と限界の双方を捉えることになる。しかし、「疎外態」として捉えると一面的な理解になりやすく、特に意義の理解が飛びがちになる。
本来なら、商品Aと商品Bを媒介する交換行為の中にすべてが含まれていると捉え、交換行為の意義と限界を見ながら貨幣を導出・展開するのが必然的な形式だろう。Aを生み出す労働、Bを生み出す労働、交換行為という労働の3つの労働の媒介関係として捉えるべきところ、交換行為を労働として捉える意識が弱く、むしろ悪として断罪する意識が強いために、AとBしか見えなくなっている。何かを無視・全否定する態度から必然性を出すのは難しい。マルクス自身が資本論第二版への後記に「弁証法は、・・・(中略)・・・現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、一切の生成した形態を運動の流れの中で捉え、したがってまたその過ぎ去る面から捉え、何物にも動かされることなく、その本質上批判的であり革命的である」(下線は筆者が引いた)と記しているように。

2?2.内容面:交換の軽視ないし無視
以上の形式面の問題は、内容にも影響を与える。それは3つある。
第一に、貨幣が疎外態になってしまう。マルクスの「経済学批判」のうち、「序説」は出版されていないが、その中の「経済学の方法」では、資本にすべてが含まれており(止揚されており)、経済学について叙述する際には資本から始められるべきと結論付けられている。そして、その資本を直接的に生み出すものが貨幣である以上、その貨幣にもすべてが含まれている。だが、マルクスの価値形態論では、貨幣は他のすべての商品から排除・除外されたものに過ぎず、「疎外態」になってしまっている。貨幣は商品を止揚したものとしている以上、そこには分業・交換や労働や価値の在り方も含まれている。本当ならさらに「発展」「展開」させ「止揚」される対象のはずである。マルクス自身も最も単純な商品形態の中に貨幣の秘密があると言っており、本来のマルクスもこの考え方に立つはずである。しかし、疎外態という理解になってしまうと、除去対象にまで引き下げられることになる。
第二に、商業・サービス業・経営といった営みの重さが捉えられず、その結果として剰余価値の導出が軽薄なものになっている。
例えば交換行為に勤しむ商人のことを「寄生虫」として扱っている(資本論第四章[国民文庫288頁])。資本家の経営努力も、恐らく文章としては言及が一切ない。形式面の問題で確認した、「意義」の理解がおざなりになってしまう問題がこのように現れている。
交換行為の重さを捉えられないことで、マルクスにとって決定的なまでに重要な剰余価値の導出がいい加減で軽薄なものになっている。そもそもマルクスは商品→貨幣→商品の交換行為について「この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない」(資本論第四章[国民文庫277頁])と述べており、交換行為を労働と見ていない。このため、形態変換の中で発生する剰余価値を賃労働者からの労働力の搾取としか捉えられない。そして、「我々の資本家はハッとする。生産物の価値は前貸しされた資本の価値に等しい。前貸しされた価値は増殖されておらず、剰余価値を生んでおらず、したがって、貨幣は資本に転化してはいない」(資本論第五章[国民文庫333頁])と書き、「我々の資本家には彼を嬉しがらせるこのような事情は前から分かっていたのである。・・・手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである」(資本論第五章339頁)と進める。
剰余価値の発生は「手品」で済ませるものではないだろう。剰余価値は交換過程において生まれるが、この軽薄な捉え方では、交換過程を真に捉えることは難しいだろう。剰余価値の発生というマルクスの問題提起は大きなものだが、これではその大きさが矮小化されてしまうのではないか。
第三に、論理と歴史の矛盾である。マルクスは商品が価値になるのはVerkehrの内部においてのみだと言う。だが、このVerkehrについては、「価値形態論」ではなく第2章の「交換過程」で言及される。また、等価物形式を取る商品が1つだけに絞られるのは社会的過程の結果とされているが、それも「価値形態論」ではなく「交換過程」で言及される。
マルクスは「経済学批判」の未出版部分の「経済学の方法」において、上向法と下降法、歴史と論理といった方法論の枠組みを出しているが、「価値形態論」が論理に、「交換過程」が歴史に該当するのだろう(注6)。「交換過程」では「経済学の方法」と同じく、共同体の縁・際で交換が始まり、そこから貨幣が生まれていくとしている(注7)。共同体間をつなぐ交換活動は文字通り命懸けの行為だったはずだが、歴史におけるその重さと、貨幣導出の論理がつながっていないように思う。歴史と論理を分けるという方法自体の是非は置いておくにしても、共同体と貨幣の歴史と論理が有機的に結合した議論になっておらず、このように分離・独立した状態では、歴史の豊かさを取り上げきれないのではないか。

【注】
1.牧野紀之によると「ドイツ・イデオロギー」では生産関係という概念の未熟なものして使われていた単語で、社会、関係、交換といったような意味。牧野は「交通」という訳語を当てている。筆者の理解ではA=Bという交換行為が成立している状態を示す言葉。
2.社会的過程の詳細は「価値形態論」では言及されず、第2章「交換過程」で扱われる。
3.その他にも、商品の「完全枚挙・数え上げ」や等式の両極の対立の「度合い」とその「固定化」で、必然性を事実上語るなどしている。
4.中井浩一『現代に生きるマルクス』でフォイエルバッハの「疎外」の立場がいかにマルクスに決定的影響を与えているかが示されている。
5.この点は内容にも大きな影響を与えているはずだが今の段階では明確に指摘できない。
6.中井浩一氏による中井ゼミでの指導による。
7.余談だが、「経済学の方法」における共同体と貨幣の関係(崩壊しつつある共同体でこそ貨幣経済が発達する、傭兵には貨幣で賃金が支払われる等)や富の源泉の発展(金属から主体性・人間労働に移行していった)についての描写は抜群に面白かった。歴史に言及している箇所でのこの面白さとマルクスの論理はどうつながっているのか。つながっていないのではないか。

2023年3月12日

3月 23

4月以降のゼミ日程と4月の読書会テキストを案内します。

4月の読書会テキストは、ヘーゲル『歴史哲学講義』(岩波文庫上巻)から「序論」です。

3月の読書会では
ヘーゲルの『哲学史講義』の序論を読みましたが、それを踏まえて、さらに人類の歴史そのものに踏み込みましょう。
ヘーゲルは、歴史とは理性の実現過程であると言います。
それは「理性の策略」であると。

ヘーゲルの人類と歴史過程についての主張を検討したいと思います。

序論の全部ではなく
ABCを読みます。
DEは読みません。
全部で文庫版130ページほどです。

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4月以降の中井ゼミの日程が決まりました。
すべてオンラインで実施します。

いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会+「現実と闘う時間」を行う予定です。

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

4月
 16日
 23日
5月
 14日
 28日 
6月
 11日
 25日
7月
 9日
 23日

3月 06

今月3月19日(日曜)の読書会のテキストを決めました。

ヘーゲル『哲学史講義』長谷川宏訳 河出文庫の第1巻から「序論」を読みます。
昨年にも読んだのですが、再度、読みたいのです。

このテキスト「序論」は、ヘーゲルの「発展観」、哲学とは何か、哲学史とは何かが、が示されています。
マルクスが『経済学批判』の序説で「経済学の方法」を書く際に、これを下敷きにしていただろうと思います。歴史と論理、変革の時代の哲学の役割は何か、個人や哲学が時代を超えるとはどういうことか。ほとんどすべての論点で2人は重なり、マルクスはそこに「唯物史観」を入れたのです。
マルクスの理解には大きな問題があるのですが、そもそもマルクスが前提としたヘーゲルにすでに大きな問題があったのではないかと思います。
それを考えてみたいと思います。

序論全体から以下を読みます。全体で60ページほどです。

序論の序論 27?34ページ
A
 序 35?38ページ
 二 49?61ページ
 三 61?86ページ
B
 序 87ページ
 一 88?93ページ
 三 
a138?141ページ
c145?147ページ

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ゼミの内容

3月19日日曜 オンラインで午後2時開始です。

参加費は2000円です。

参加希望者は早めに連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

2月 20

◇◆ 17 再生医療の矛盾と倫理 ◆◇ 

再生医療は困難を極めるのだが、それはなぜなのだろうか。
動物の細胞には、培養下において、全ての組織に分化し得る能力を持つ細胞(万能細胞)が存在する。しかし、これらの細胞を適切な条件で培養しても、秩序だった組織は形成されず、細胞の塊ができるだけである。それはなぜなのだろうか。
また、臓器移植では、ドナーに由来する臓器を移植する際に、拒絶反応が起こる。人体は自分と他者を厳密に区別するのだ。こうした「拒絶反応」は再生医療への大きな障害であり、再生医療とは「拒絶反応」との戦いである。
しかし、そもそも「拒絶反応」はなぜ起こるのだろうか。「拒絶反応」をただの障害、邪魔者と考えることを止め、私たちは逆に、なぜ「拒絶反応」は起こるのか、万能細胞はなぜ組織にならないのか、その意味を深く、深く理解する必要があるのではないか。私たちが何者であるかを理解するためである。

再生医療の問題を考えるには、生物の進化の過程を考える必要があると思う。私たちの地球の歴史である。
地球は物質で構成されていたのだが、ある段階で生命が生まれた。生命にはその「中心」、つまり「目的」が明確な形で現れて来る。それは自己保存、自己保持である。つまり「生きる」こと、「生き続ける」ことである。
生命は単細胞から始まった。そして単細胞が集まって多細胞の生物が生まれる。細胞が全体の中に組織され、より機能分化が進んだ生物が生まれる。すべては目的を果たすためだが、この進化の過程で個々の細胞の自立性は失われていく。生物の目的、生きるために、その部分は全体の要素としての機能を果たすようになる。目的のためのものでしかなくなる。
こうした生物の進化の最初の段階は植物である。植物では基本的には組織切片から全体を再生することができる。挿し木を思えばよくわかることだ。これは自らの成長過程を、元に戻して再生できるということだが、それは原始的な機能を持っているから可能なのである。
しかし、動物が生まれ、さらに人間が生まれてくる過程で、こうした再生機能は失われていく。動物では、受精卵以外の組織はこうした能力を持たない。トカゲのしっぽ切りが有名だが、それはしっぽだけの再生であって、自分の丸ごとの再生はない。
物質から生命が生まれ、植物から動物、人間が生まれるまでの過程は、後者は前者の低さを克服(止揚)していく過程であり、よりよい機能分化、機能の高度化の過程である。その過程では、原始的な生物の持っていた機能(例えば再生機能)は失われてきた。進化の過程は高度化をめざすバトンリレーであり、そこでは何かを犠牲にして、高度化が進んできたのであり、それをもとにもどすことはできない。
しかし、ではその進化の目的とは何なのか。なぜ進化が起こり、機能分化が進み、高度化が進むのだろうか。なぜ人間は生まれたのだろうか。人間は他の動物と同じく、ただ生きるために、生き続けるために存在しているのだろうか。人間とは何なのか。
ここで人間の使命、進化の意味が問われる。これにどうこたえるかで、再生医療への評価はまるで違うものになる。
地球から生命、植物、動物、人間と生まれてきた。この地球の進化の最先端にある人間は、ついに自己意識(「自分とは何か」)を持ち、思考の能力を形成し、認識ができるようになった。
その目的は、自然界の進化・発展の意味を理解し、その全過程を完成させることである。その全過程に対して責任を持ち、その完成を実現するのが人間の使命なのではないか。
したがって、人間がその使命をはたさないで、人間だけの幸せを考えることは許されないのではないか。

 ここでヘーゲルの力を借りたい。彼の『精神哲学』は精神(人間)が地球からどのように進化してきたか、その進化の意味と、人間の使命を説明する。その『精神哲学』から生物の発生と、植物から動物までの進化の過程の説明部分を引用する。

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生物(植物)
 〔ここまでは物質について触れてきたが、物質の最後に言及した「中心」がより明確に現れるのが生命を持つものである〕。生物においては、生命を持たないものを支配している必然性より、もちろんより高い必然性 が現れる。すでに植物にあっては、その〔個体内において〕中心が周辺(葉脈や神経など)に注がれ、〔逆に〕諸区別は中心に集中されている。〔他方で、その成長発展の過程でも〕内から外に向けての自己展開が起こり、自己自身を区別し、そうした諸区別からつぼみができ〔次の種子ができる〕ということで、自己を一つの統一した植物として次々と外に現わしていく 。これは植物の「衝動」 といっても良いだろう。
しかしこの統一性〔生命のサイクル〕は不完全なものにとどまる。なぜなら植物が分肢していく過程は植物の主体が自己を外化するものであるが、その各部分は〔それぞれ〕その植物全体であり、同じもの〔全体〕の反復であり 、したがって各分肢は〔自立的であり、その植物という〕主体の統一性の下に完全に服従しているのではないからである。

動物全般
こうした外的自立性の克服 について、植物よりもさらに歩みを進めた のが動物の有機体である。動物にあっては各分肢は他の分肢を生み出し、すなわち各分肢は他の分肢の原因であり結果であり、手段と目的であり、従って自分自身であると同時に自己の他者 である。〔しかし、これだけなら植物と同じである。ところが動物は〕それだけではなく、その全体 が自らの統一性(中心)によって貫徹されており、そのために全体の中に自立したように現れるもの〔動物の各分肢で〕はなく、各規定〔動物の各分肢〕は同時に観念的なもの 〔動物全体の契機として〕であり、動物は各規定〔動物の各分肢〕に分かれていても、同じ一つの普遍性〔全体の目的、生命保存〕にとどまり、したがって動物の肉体において相互外在性は全くの非真理である ことが明らかになる〔相互外在性は止揚され、全体の契機になっている〕。
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以上は『精神哲学』第381節(岩波文庫では第5節)。訳文、小見出しは中井。

「植物の各部分は〔それぞれ〕その植物全体であり、同じもの〔全体〕の反復であり 、したがって各分肢は〔自立的であり、その植物という〕主体の統一性の下に完全に服従しているのではないからである」。
挿し木が、この具体例である。葉や枝から全体が再生する。ここでの論理がクローン技術、再生医療の論理である。
動物は「全体が自らの統一性(中心)によって貫徹されており、そのために全体の中に自立したように現れるもの〔動物の各分肢で〕はなく、各規定〔動物の各分肢〕は同時に観念的なもの 〔動物全体の契機として〕であり、動物は各規定〔動物の各分肢〕に分かれていても、同じ一つの普遍性〔全体の目的、生命保存〕にとどまり、したがって動物の肉体において相互外在性は全くの非真理である ことが明らかになる〔相互外在性は止揚され、全体の契機になっている〕」。
私がここで考えたのは人間の再生医療、「臓器移植」などがなぜ難しいかの根拠である。植物の段階では各部分は相互外在的であり自立性が高く、相互に入れ替えが可能で、全体の再生も可能だった。全体の契機になっている程度が低いのだ。動物、ましてや人間は、各部分の自立性は低く、相互の入れ替えや全体の再生は不可能で、他の動物(人間)との入れ替えもムズカシイのだ。それは部分が全体の契機になっている程度が高いと言える。
そして人間に到っては、個々の個体が自己を完成させ、他者との間に絶対的区別を持つ。それが自己意識を生み、個性がそこに確立する。それは自分が自分以外の何者でもないこと、自分は自分という一回性の生を生きるものであることを意味するのではないか。そしてこの個体性が各人の自立性の根拠であり、各人の思想の独立性へと発展していくのである。
同時にまたそれが「拒絶反応」を引き起こすのである。人間が自分以外のものを拒否する機能は、人間が自己意識を持った証であり、地球の進化の最先端にあることの証でもあるのではないか。

人間の尊厳性とは何を意味し、何を根拠とするのだろうか。
それは、人間が自然の進化の過程の最先端にあることであり、人間を生んだ目的であり、人間の使命である。この地球の全自然過程を完成させること、それが人間が人間であるという意味なのであり、ヘーゲルはそれを人間の概念と呼んだ。
そうであるならば、人間が自らの概念を実現する努力をし続けている限り、物質から人間が生まれるまでの過程は、基本的には正しかったことになる。
ところが、再生医療とは、この進化の過程に抗い、それをもとに戻す試みなのである。人間をまた植物レベルへと戻すこと、退行させることなのである。
私はそれは基本的に間違いであり、絶対的には無理があるのだと思う。私たちは植物レベルに戻らないし、戻れないのではないか。
私たちは自分の使命に責任を持つべきであり、自分を生み出した進歩、進化の過程に責任を持つべきではないか。それが再生医療における「倫理」、クローン技術、遺伝子操作における「倫理」なのではないか。
もちろん、人間の使命、その概念の正しさは、私たちが何をするかで決まることである。私たちはどちらを選択するのか。概念の実現を自らの目標としその使命を全うするのか、できずに終わるのか。それこそが私たちの最後の倫理であり、正しさの基準なのだ。

2023年1月31日

2月 19

◇◆ 16 「iPS細胞」の姑息 ◆◇ 

京都大学の山中伸弥は「iPS細胞」の研究・開発によって2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
iPS細胞の目的は再生医療の実現にある。拒絶反応の無い移植用組織や臓器の作製が可能になると期待されているのだ。

再生医療の研究は数十年前にさかのぼる。
1981年には、マウスの胚盤胞から「ES細胞」を作ることに成功した。 ES細胞は受精卵が胎児になるプロセスで、分裂が始まった後の胚盤胞の中にある細胞を取り出して培養されたもの。あらゆる組織の細胞に分化することができる多能性幹細胞である。
 その17年後、1998年に「ヒトES細胞」を作ることに成功した。ヒトES細胞を使い、人間のあらゆる組織や臓器の細胞を作り出すことにより、再生医療が可能になると期待がふくらんだ。
しかしES細胞の技術をヒトに適応するには問題が多い。受精卵(胚)の採取が母体に危険を及ぼすこと。ヒトになる可能性を持つ胚を壊すことは、ヒトを救うためにヒトを殺すことであるから倫理的な問題が伴う。そのためにその作製や実験等には厳しい制約を課す国も多い。
また、患者本人のES細胞を作ることは技術的に難しく、他人のES細胞から作った組織や臓器の細胞を移植した場合、拒絶反応が起こるという問題がある。
 そのため、胚からではなく、皮膚や血液など、比較的安全に採取でき、かつ再生が可能な組織からの分化万能性をもった細胞の発見が期待されていた。
そこに山中のグループが2006年にマウスの、2007年に人間の皮膚細胞からiPS細胞の樹立に成功したのだ。
「iPS細胞」の技術とは、皮膚などの細胞に遺伝子操作を加えることで「ES細胞」のような幹細胞を作ることである。これなら受精卵のようなレベルの倫理的な問題はない。
また、再生医療への応用のみならず、治療薬の候補物質を探る「創薬」の可能性が期待されているのだ。患者自身の細胞からiPS細胞を作り出すことで、今まで治療法のなかった難病に対して、その病因・発症メカニズムを研究したり、薬剤の効果・毒性を評価することが可能となるからである。
もちろんいいことだけではない。iPS細胞は遺伝子操作によって生み出すために、その安全性(ガン化のリスクなど)の課題が指摘されている。つまりリスクにおいては完璧なものではないのだ。
以上については、「ウィキペディア(Wikipedia)」、京都大学 iPS細胞研究所のホームページ、「再生医療ナビ」を参考にした。

さて、私はこうした経緯を知ったことで愕然とした。「夢の IPS 細胞」と謳われているが、これほど姑息でペテンに近い技術だったのか、という驚きである。とても情けなく、うら悲しい気持ちになった。
それは要するに、「倫理問題」を消したのだ。それが目的だったのだ。
問題を本当に解決するのではない。これは問題をなくしてしまうという解決法であり、問題を考えなくて良いとしただけなのだ。問題はあるし、残されている。それをそのままにして、問題を見ないで済むようにしたのだ。
本来は、この真逆の方向に進むべきではないか。
倫理問題や、再生医療の問題、クローン技術の問題、遺伝子操作の是非など、大きな問題は、本来は、徹底的に深め、矛盾を深化させて考えていかなければならない。ところがここではなんと軽く、浅く、問題を素通りしたことだろうか。
「母体への危険」とか「ヒトになる可能性を持つ胚を壊す」とかといった、現象的で表面的で感情的なレベルにとどまり、再生医療や遺伝子操作が持つ本質的な問題をとらえようとしない。そこに現れる「拒絶反応」も、ただ再生医療の障害としてしかとらえられていない。問題は「消す」。なくなったことにしてしまえばよいのだ。なかったことにしてしまえばよいのだ。
クローン技術や遺伝子操作、再生医療はどこまで許されるのか。その根拠は何か。人間の尊厳とは何か、生きるとはどういうことか。
これらの問いに、山中や山中にノーベル賞を与えた責任者たち、iPS細胞の追従者たちは自分の答えを出すべきであり、私たちも自らの答えを出さなければならないのではないか。

                 2023年1月30日