日本教育新聞の連載コラムの4回目が、4月27日に掲載されました。
「塾」について書きました。
前回同様、日本社会の同質性、その偏った平等感(いわゆる「悪平等」)と能力主義についての論考です。
塾 見えない存在
カナダから教育学の研究者が幣塾を訪れた。ブリティッシュ・コロンビア大学のジュリアン・ディルケス助教授で、彼は「私塾」を研究しており、日本全国の大手から町塾まで数10もの私塾を訪問調査している。最近は韓国、台湾などのアジア諸国までまわっている。ジュリアンによれば、塾の存在はアジア圏に限られ西欧では例外的だという。
確かに日本では塾の存在抜きに、教育については語れない。しかし日本では塾をテーマにした研究はほとんど存在しない。その事実にジュリアンは驚いていた。「研究上の宝の山が手つかずで放置されている。おかげで私が先駆者の栄誉を得た」と笑う。日本では塾は「見えない存在」であり、敵役としてのみ現れるのだ。
私の塾では大学のゼミのように、少人数による自由討論で授業が進む。「こうした授業は初めて見た。他はどこも、ほとんどが画一的授業形式で、学校と何が違うのかわからなかった」とジュリアンは言う。「塾では市場原理が働くはずなのに、多様性が生まれないのはなぜか」。
これらの指摘は、日本の教育、日本社会の急所を突いている。それは社会や価値観の同質性だ。多くの塾は第二の学校でしかなく、通塾とは2回学校に行くだけのことなのだ。そして、この同質性(平等性)を守るために大きな分断が生まれた。建て前と本音、平等主義と能力主義の分裂である。後者は塾や予備校が担当し、学校内では私学が引き受けている。
最近では、学校と塾の連携として、塾教師が学校に入ったり、予備校の受験情報やテクニックが学校に導入されている。話題になった東京杉並区立和田中学校(藤原和博氏が当時の校長)の「夜スペシャル」も同じだ。しかし、こうした試みは表面的な彌縫策でしかない。社会の同質性、それゆえの教育の分断。この本質的な問題を直視しない限り、何も始まらないだろう。