7月 24

 昨日7月23日に、東大で講演をしました。
 と言っても、学生が対象ではなく、教員と職員が対象でした。
 それも、総長以下、副学長、理事、総長補佐らの執行部の方々や、部局長の方々、本部職員の方々です。

 東大は4月に総長が交代し、新たに濱田純一氏が就任しました。
 第2期中期目標・計画の案を6月に提出し、年度内に、より具体化した将来構想(「行動シナリオ」)を策定する予定で、プロジェクトチーム(トップは佐藤愼一副学長・理事)を立ち上げたところです。
 東大は、この「行動シナリオ」策定の一環として「学外有識者」から意見を聞く機会を数次にわたって設けており、その一人としてよばれたと言うことです。
 
 濱田総長は、「所信」の中で「タフな東大生」の育成を標榜されていて、その中身を煮詰めていく作業が今後行われるはずです。

 私が話した内容の詳細はここには書きません。いずれ東大の方で文章などにまとめられれば、ここに掲載するかも知れません。

 拙著『大学法人化』『大学「法人化」以降』『日本語論理トレーニング』『脱マニュアル小論文』の内容を踏まえて、根本的な問題提起をしました。

 今は、現実社会と大学が深く関わらざるを得ないこと。その結果、各大学の真の力量(その学問がどれほどのものか)が問われることになる。大学はあくまでもその社会の反省機能であり、その機能を失えば、大学も社会も滅びること。そのためには、大学は決して「なしくずし」に現実社会と対応するのではなく、筋を通し、それぞれの論点に原理・原則を打ち立てていかなければならない。自らの属す社会を根底から批判し、正しい方向性を指し示すこと。それが大学の使命だが、ほとんどの大学はそれができず、東大もゆらいでいる。

 教育の今の一番の問題は、子どもの親からの自立が難しくなっており、社会的自立には18歳からの10年ほどが必要だという覚悟が必要。その内の最初の4年、または6年を引き受けて、東大はどれだけの教育をする覚悟があるのか。人生のテーマ自体を作るまでは無理でも、その芽をしっかりと作り上げるまではしなければならない。

 論理的能力。自己理解と対象理解を、相互関係の中で深めること。これが大学での教育に求められていること。そのためには、教員自身にそれができていなければならないが、それが疑わしい。教員自身の自己理解について言えば、研究者としてのそれはできていても、教育者としては疑わしい。国民としてのそれも大いに疑わしい。税金で自らの教育・研究ができていることの自覚はどれほどあるのか。さらには、人間としてのそれはさらに疑わしい。

 一言で言えば、「東大を叱咤激励した」ということですね。

私は、東大は100点満点で60点ぐらいの大学だと思っています。60点が合格基準ですから、一応合格は合格です。それに他大学のほとんどが20点から40点ほどのところをうろついているので、相対的にはダントツの一番と言うことになります。しかし、80点でも、90点でもありません。その最大の課題は、教育責任を果たしていないことです。

Leave a Reply