1月 10

昨年12月の読書会では、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)を読んだ。昨年読んだヘーゲルの範囲で出てきた思想家の概略を確認しておきたかったのだ。ヘーゲルの論理学の「判断論」「推理論」、『精神現象学』の「自己意識論」に出てきた以下の思想家たちだ。

古代では
  アリストテレス 第1編 第6章(74?87ページ)
  ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90?102ページ)
中世では
  アンセルムス 第2編 第1章(133?136ページ)
近世では
  デカルト 第1編 第3章(165?174ページ)
  スピノザ 第1編 第4章(175?184ページ)

読みながら、また読書会の意見交換ではっきりした点をまとめておく。

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◇◆ ヘーゲルとアリストテレス 中井浩一 ◆◇
 
(1)アリストテレスは古代哲学の完成者

 「アリストテレスは古代哲学の完成者」だというのを、改めて確認した。そして、アリストテレス哲学を近代のレベルで再興し、それによって近代の哲学を完成させたのがヘーゲルなのだと思った。

 アリストテレスは本当に凄い。彼の哲学は、内容的には、ほとんどヘーゲル哲学と同じだ。そのことには、ただただ驚くしかない。二千年以上も前のアリストテレスにも、そして二百年前のヘーゲルにも。
 ヘーゲルは、他のすべての哲学者には厳格で、高く評価しても必ず限界を指摘するのだが、アリストテレスだけは手放しの誉めようで、それはとても意外だった。しかし、これだけ2人が同じだと、それも当然だと思えた。ヘーゲルにとって、自説(「発展の哲学」)を作り上げる上で参考になるのは、アリストテレス哲学以外には存在しなかったのだろう。

 アリストテレスのすごさとは何か。

 ?個別と普遍(本質)の問題と、?変化・発展の問題と、?全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていることもすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。
 この?は誰もが問題にする。この?に対するアリストテレスの答えは並の答えで、すごいのは、この?と?とを結びつけて論じたことだ。?と?を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。その結果、?を説明することができたのだ。
ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。

(2)「近代」とは何か アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるもの
 ヘーゲルは、このアリストテレスを、近代のレベルで再興し、それによって近代哲学を完成させた、とまとめることができるのだろう。

 では、その「近代のレベル」とは何か。アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるものとは何か。
 自我、自己意識の存在、意識の内的二分である。この自我の自覚を持つことで、人間は「人格」を持ち、「人格」を持つ点での平等、人間はみな平等であることになった。デカルトのコギトが自我の宣言だ。

 アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体とその構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。
 しかし、読書会では質問が出た。アリストテレスほどの凄い人が、なぜこの立場に立てなかったのだろうか。
 当時の世界が奴隷制社会だったからだと思う。イヌと人間の違いを一般的に考えるには、同じ人間の中で、人間と奴隷(イヌと同じ)に絶対的に分かれる社会では、ムズカシイ。
アリストテレスほどの人でもそうなのだろうか。諾。人間は、時代の子であり、その時代的な制約から抜け出ることはできない。

 「自我」「自己意識」の思想は、ローマ帝国における帝国と市民の成立、キリスト教における神の前の人間の平等によって、その可能性が生まれた。

 もちろん、それは可能性だから、それを表明する思想家の登場を待つしかない。それを行ったのがデカルトだ。ヘーゲルは、デカルトのコギトを、自我、自己意識の存在、意識の内的二分の宣言としてとらえている。

(3)近代のダイナミズム
 しかし、読書会ではここで質問が出た。デカルトのコギトは、東洋の悟り、「仏とは汝だ」と何が違うのか。
 まず、東洋の自己とは、自分についての意識ではあるが、それは意識の内的二分をとらえていない。むしろ分裂を否定し、自分と世界との一体性をとらえようとしている。そのために、そこには分裂を克服するための運動が出てこない。この運動のあるなしが、決定的な違いだと思う。
 デカルトは、自己意識から始め、そこから神の存在証明、世界(対象世界)の存在証明へと進み、その上で安心して世界の研究に打ち込んだ。したがって、デカルトの対象世界の研究は、常に自己意識に支えられている。自己意識とは、対象意識と自己意識の分裂のことであり、これをつなぐために、デカルトは神を持ち出したとも言える。
 こうしたダイナミックな円環運動がデカルトの思想の核心にあり、東洋にはない点だろう。
ヘーゲルは、中世のスコラ哲学による神の存在証明を「主観的」とし、デカルトやスピノザのそれを「客観的」としている。その根拠は、こうした運動にあるのだろう。

 なお、以上のことを考えることができるほどに、各思想家の思想をシンプルにまとめている点が、波多野精一著『西洋哲学史要』のすばらしさである。

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