1月 12

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その1

 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 まず、「自己意識」論を読む上での大きな問題を確認しておくと、
形式面では次の4点(特に最初の3点)があげられる。

(1)対象意識から自己意識が生まれるとはどういうことか
(2)対象意識と自己意識の統一から理性が生まれるとはどういうことか
(3)自己意識をなぜ、欲求や生命から始めたのか
(4)第3節の第1段落の主人と召使のレベル、第2段落と第3段落、
   さらに第4段落の展開の意味。それが実際に意味するものは何か

 内容面では以下のような論点があると思う。

(1)類の意識とはどのように生まれるか  
(2)労働、仕事は、どういう意味があるのか。
(3)他人に承認してほしいという欲望をどう考えるか
(4)第3節の第1段落「生命をかけた闘争」をどう理解するか?その経験は?
(5)第3節の第1段落、第2段落と第3段落、第4段落に対応する経験を出してみよう
(6)神とか絶対者をどう考えるか、どう考えてきたか 
(7)キリスト教から教団の話が出てくる
(8)「先生を選べ」と、教団の話はどう関係するか

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 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている

 形式上の(1)(2)が大きな問題だろうが、今回読んでみて、
ヘーゲルは「逆算」して書いているし、そう読むべきではないのか、
と強く思った。

 第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、第3部の5章「理性」と
6章「精神」を前提として、その伏線、準備として考える必要があるのではないか。

 ヘーゲルの精神現象学では、人間の社会を展開したのが第3部の6章「精神」であり、
その前提である、個人としての人間を扱っているのが第3部の5章「理性」である。
この「個人」の理性の実体から、分析的に抽象化された2側面が
第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論なのではないか。

 第3部の5章「理性」から、主体的人間と客観的世界の対立が現れてくる
(第1節が「認識」、第2節が「実践」)。その第3部の前の第1部
「対象意識」と第2部「自己意識」論は、その「理性」の前提として、
「対象意識」と「自己意識」が必要だから、前に置かれているのではないか。

 逆に言えば、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、5章「理性」の中で
より具体的に再度取り上げられていて、それらを止揚した6章「精神」で
さらに上の具体的なレベルで現れてくるのではないか。
つまり、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論だけで考えても、
抽象的でよくわからないのではないか。

 例えば、第2部「自己意識」論では「類」や「自己意識」が
でてくるのだが、自己意識論では、それが事実として存在することの
中にある論理を示している。つまり実体の段階であり、「理性」段階からが、
それを自覚する主体性の段階なのではないか。

 ヘーゲルの主体性は、自己意識では潜在的で、顕在化するのは理性、
精神の段階なのであろう。

 参加者から「自己意識論」は受動的で面白くないとの意見があった。
特に「不幸な意識」が抽象的だと思う。主体性は「理性」以降の
段階だからしかたがない面があるのではないか。

 こうしたことは金子も言っている(岩波版全集第4巻。662、663ページ)が、
本当にわかっているかどうかは別だ。2009年の夏に読んだ「対象意識」では、
感性的確信や知覚の章が、私にはよくわからなかった。
それも当然だったのではないかと思う。牧野紀之はそれをどこまで意識していたのか。
マルクスやサルトル、ハイデガーはどうだったのかが気になった。

 そこでマルクスの『経済学・哲学草稿』とサルトルの『存在と無』の
関連箇所を読んでみた。マルクスはさすがに読めていると思った。
サルトルは立体的な読み方はできていないと思った。

 2)対象意識と自己意識の順番と関係

 では、対象意識と自己意識の順番と関係はどうなのか。

 動物一般には意識があるだけで、対象意識と自己意識の分裂はない。
人間も最初は同じである。人間が他の動物からわかれたのは、自己意識が生まれ、
それによって、意識内部に対象意識と自己意識の分裂が生まれたことだ。

 人間の発生過程でも、人間個人のそれでも、最初は分裂以前の意識から始まり、
それが自己意識発生後、つまり自我のめざめ以降の意識の分裂とその止揚が
繰り返されている状態がおこっている。これが大人の人間の常態である。

 ヘーゲルは「対象意識」として、分裂以前の意識の状態(感性)と、
分裂後の自己意識と区別された意識(知覚と悟性)を扱っている。
一方「自己意識」は、もちろん自我のめざめ以降の自己意識を扱っている。

 それが、どうして精神現象学の「対象意識→無限の止揚→自己意識」といった
展開になるのか。自己意識とは、それ自体で存在できず、対象意識に媒介され、
それを止揚して自己内に含みもつ過程で生まれてくる。それは対象の
「無限の止揚」に他ならない。自己意識とは対象や他者を止揚した意識であり、
自己内に他者を含むのだ。しかし、この論理は正しいが、それは
歴史的な順番として悟性から自己意識が生まれたことを意味しない。

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