ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その2
昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
これは言語学との関連もあり、
関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
それは大いに相乗効果があったと思う。
昨年に学んだことを以下にまとめる。
わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。
■ 目次 ■
一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
(1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
(2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
(3)概念論の主観性の[判断論]
(4)概念論の主観性の[推理論]
(5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
大きな括りの中で示される。
→その1
二.「判断論」全体の問題点
(1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
(2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
(3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
判断から推理への進展は何を意味するのか
(4)文(命題)と判断とはどう違うのか
(5)仮言判断の問題
(6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
(7)概念のナカミはどこで問われるのか
(8)カントとの関係
(9)アリストテレスとの関係
→その2
三.判断論の各論
○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
(1)質の判断
(2)反省の判断 →その3
(3)必然性の判断(種と類) →その4
(4)概念の判断 →その5
四.その他
(1)例文について
(2)「生活のなかの哲学」
(3)大論理学と小論理学
→その5
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二.「判断論」全体の問題点
(1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
【1】主観性と客観性の対立(分裂)の関係は、本質論の現実性(労働)で
すでに触れられ(『小論理学』148節)、概念論の概念でそれは止揚されている。
【2】「概念論」が主観性、客観性、理念との3分される以上、
主観性の段階は、主客の対立の未分化の状態としてとらえられている。
【3】主観性と客観性が対立(分裂)するのは、
客観性の目的論であって、ここではない。
【4】判断は存在世界の運動であり、それゆえにそれを反映する
人間の認識の運動でもある。
認識主体と対象(客観性)は、一体のものとして扱うのがこの主観性の段階。
以上は、ヘーゲルの論理学の上での説明だが、これは現実には何を意味するのか?
牧野もこれを問題にし、その答えは出していない。
(2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
【1】判断を発展させる原動力は、
[コプラ](である)が主語と述語の「同一」を示すのに、
実際の主語と述語が全面的に一致していないという[矛盾]にある。
その一致をめざして運動がおこり、それが判断論の進展である。
【2】コプラは概念そのもの。
概念の契機である、普遍、特殊、個別の3要素はコプラに内在する。
【3】コプラの充実とは、主語と述語の両者が全的に一致すること。
【4】関口は、コプラを軽視するが、
これはそこに矛盾の運動を見られないことと関係する。
【5】普通の言語学では、コプラは「主語と述語を『つなぐ』」と言うが、
「同一」だとはいわない。これは問題を矛盾にまで突き詰められない悟性の限界。
(3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
判断から推理への進展は何を意味するのか
【1】判断から推理へ 2項から3項へ。
普遍、特殊、個別の区別が潜在的だったものから顕在化する。
【2】判断論では、個別は普遍、特殊は普遍、個別は特殊と進展する
主語は、[個別]→ 特殊 →[普遍]と
述語は、[普遍]→ 特殊 →[個別]と進展する。
そして、これは最後(必然性の判断の選言判断)には
主語と述語との位置が逆転することを意味する。
【3】判断の有限性。推理は無限。人類は男女から子どもを介して無限。
(4)文(命題)と判断とはどう違うのか
【1】論理学では、判断の述語となる言葉(概念)だけを対象としている。
つまり、文(命題)一般が対象ではなく、
判断の形になっているレベルを 問題にしている。
判断とは、問いの形に意識されたものに答える形になったものだ。
したがって、単なる描写は、最初から問題にならない。
【2】では、ヘーゲルでは文(命題)一般はどうとらえられ、分類され、
それがどう発展したのが判断になると、理解されているのだろうか。
それが書かれていない。
【3】判断が前提されるが、それはカントの影響も大きいだろう。
(5)仮言判断の問題
ヘーゲルの判断論では、仮言判断は、必然性の判断の中に、
定言判断→仮言判断→選言判断として出てくる。
しかし、仮言判断は、ヘーゲルにあっては、定言判断と選言判断の
媒介としての意味しか示されていないように思う。これでは仮言判断の持つ、
大きな意味のほんの一部しか明らかにされていないのではないか。
この仮言判断で、初めて主語が2つ、したがって文が2つ現れるのだが、
その意味が十分にとらえられていないと思う。
関口の「不定冠詞論」で第10章の「不定冠詞の仮構性の含み」では、
不定冠詞をつけた名詞が、一語で一文の意味(つまり「含み」)を
持つことを説明している。
この「仮構性」で「約束話法」とは、仮言判断のことだろう。
また、「普遍妥当命題の主題目」の名詞に不定冠詞がつくのも、同じで、
例証的個別、架空的個別を出すと説明している。
1語の中に、条件文は「含み」として含まれるのだ。
「もし○○(名詞)が存在するならば」「もし○○が?ならば」。
そもそも「否定」の文とは、「○○が?する」のを否定するのだが、
そのためには、先ず、○○を存在させ、その上で否定しなければならない。
この二重の手順なしに、否定はできない。
つまりある主語(名詞)の存在(または他の動詞)を否定するには、
まずはその存在(または他の動詞)が条件として含まれていると言える。
これは存在→否定とのヘーゲル論理学の展開とも関係するだろう。
一般論を述べるにも、ある個別の主語(名詞)の存在
(または他の動詞)が前提とされる。
これらは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の二重性となっている。
この「肯定と否定」の二重性は、ヘーゲルでは肯定判断と否定判断の
悪無限として質の判断ですでに説明されていた。
したがって、それは反省の判断でも、必然性の判断でも前提だ。
しかし、それまではその二重性が表に出て見えることはなかった。
こうした二重性が仮言判断では、はっきりと表に現れている。
仮言判断とは、潜在的な二重性が顕在化する段階なのではないか。
これが、文が2つ現れて来るという意味ではないか。
その上で、主語が2つ現れるという、
仮言判断の特殊な側面が問われることになるのではないか。
ヘーゲルには、後者の説明はあっても、前者がない。
これはヘーゲルがカントに依存し、その範囲で考えていることから
生じているのではないか。
(6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
【1】[仮言判断]では、主語が2つ現れる。
したがって、文も2つあることになる。
【2】複文 主文と従属文。条件文(副文)は、[概念の判断]で現れる。
この意味が説明されなければならない。私見は(5)に書いた。
また、仮言判断は、論理的には推理ではないか。
概念の判断もそうではないか。
(7)概念のナカミはどこで問われるのか
人間とは?(人間の概念)である という判断は、この判断論では現れない。
先の規定で、[精神哲学]における内容だから。
(8)カントとの関係
【1】ヘーゲルが行ったのは、カントが示したカテゴリー表、判断の分類の意味を深めただけ
カントが考えていたことの潜在的な意味を、顕在化させただけ
逆に言えば、この「?しただけ」(深めた)が重要。それが継承(発展)させること。
これが私たちができるベスト。
【2】二人の違い
すぐにわかるのは、カントの量から質の順を、ヘーゲルは質(定存在)から始めて、
反省(量ではないが、全称や特称を扱う)へと展開したこと。
他も、全体にそれぞれの判断の意味を変えている。
しかし、ヘーゲルがカントに引きずられている部分もあるのではないか。
判断の4種類など。
【3】仮言判断におけるヘーゲルとカント
ヘーゲルとカントでは、仮言判断と因果関係との関係が正反対。
カントは、仮言判断の存在から原因結果の関係を導出する。
ヘーゲルは、逆である。
これはカントがカテゴリーを人間の悟性の行う判断の形式から導出しようとし、
ヘーゲルにとっては、概念の運動から判断を導出しようとしているのだから当然。
それよりも、仮言判断と原因結果の関係を結び、
定言判断 → 仮言判断 → 選言判断としているカントに、
どれだけ強くヘーゲルが依存しているか、その側面こそが問題なのだ。
(9)アリストテレスとの関係
【1】アリストテレス以来の形式論理学の批判になっている
【2】アリストテレスでは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の対立が
絶対的な基準になっているが、ヘーゲルはその相互転化を示すので、
その対立は止揚される。
【3】ヘーゲルの論理学では、肯定判断と否定判断の相互転化は質の判断で示される。
反省の判断以降では、この肯定と否定は契機として止揚されているから、
その後の判断において繰り返し出てくるが、表には肯定の形しか示さない。
それは止揚しているので、一々示す必要がない。
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