1月 20

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その2

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 二.「判断論」全体の問題点

(1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか

【1】主観性と客観性の対立(分裂)の関係は、本質論の現実性(労働)で
 すでに触れられ(『小論理学』148節)、概念論の概念でそれは止揚されている。

【2】「概念論」が主観性、客観性、理念との3分される以上、
 主観性の段階は、主客の対立の未分化の状態としてとらえられている。

【3】主観性と客観性が対立(分裂)するのは、
  客観性の目的論であって、ここではない。

【4】判断は存在世界の運動であり、それゆえにそれを反映する
 人間の認識の運動でもある。
 認識主体と対象(客観性)は、一体のものとして扱うのがこの主観性の段階。

 以上は、ヘーゲルの論理学の上での説明だが、これは現実には何を意味するのか?
 牧野もこれを問題にし、その答えは出していない。

(2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。

【1】判断を発展させる原動力は、
 [コプラ](である)が主語と述語の「同一」を示すのに、
 実際の主語と述語が全面的に一致していないという[矛盾]にある。
 その一致をめざして運動がおこり、それが判断論の進展である。

【2】コプラは概念そのもの。
 概念の契機である、普遍、特殊、個別の3要素はコプラに内在する。

【3】コプラの充実とは、主語と述語の両者が全的に一致すること。

【4】関口は、コプラを軽視するが、
 これはそこに矛盾の運動を見られないことと関係する。

【5】普通の言語学では、コプラは「主語と述語を『つなぐ』」と言うが、
 「同一」だとはいわない。これは問題を矛盾にまで突き詰められない悟性の限界。

(3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
   判断から推理への進展は何を意味するのか

【1】判断から推理へ 2項から3項へ。
 普遍、特殊、個別の区別が潜在的だったものから顕在化する。

【2】判断論では、個別は普遍、特殊は普遍、個別は特殊と進展する
 主語は、[個別]→ 特殊 →[普遍]と
 述語は、[普遍]→ 特殊 →[個別]と進展する。
 そして、これは最後(必然性の判断の選言判断)には
 主語と述語との位置が逆転することを意味する。

【3】判断の有限性。推理は無限。人類は男女から子どもを介して無限。

(4)文(命題)と判断とはどう違うのか

【1】論理学では、判断の述語となる言葉(概念)だけを対象としている。
 つまり、文(命題)一般が対象ではなく、
 判断の形になっているレベルを 問題にしている。
 判断とは、問いの形に意識されたものに答える形になったものだ。
 したがって、単なる描写は、最初から問題にならない。

【2】では、ヘーゲルでは文(命題)一般はどうとらえられ、分類され、
 それがどう発展したのが判断になると、理解されているのだろうか。
 それが書かれていない。

【3】判断が前提されるが、それはカントの影響も大きいだろう。

(5)仮言判断の問題

 ヘーゲルの判断論では、仮言判断は、必然性の判断の中に、
定言判断→仮言判断→選言判断として出てくる。

 しかし、仮言判断は、ヘーゲルにあっては、定言判断と選言判断の
媒介としての意味しか示されていないように思う。これでは仮言判断の持つ、
大きな意味のほんの一部しか明らかにされていないのではないか。

 この仮言判断で、初めて主語が2つ、したがって文が2つ現れるのだが、
その意味が十分にとらえられていないと思う。

 関口の「不定冠詞論」で第10章の「不定冠詞の仮構性の含み」では、
不定冠詞をつけた名詞が、一語で一文の意味(つまり「含み」)を
持つことを説明している。

 この「仮構性」で「約束話法」とは、仮言判断のことだろう。
また、「普遍妥当命題の主題目」の名詞に不定冠詞がつくのも、同じで、
例証的個別、架空的個別を出すと説明している。
1語の中に、条件文は「含み」として含まれるのだ。
「もし○○(名詞)が存在するならば」「もし○○が?ならば」。

 そもそも「否定」の文とは、「○○が?する」のを否定するのだが、
そのためには、先ず、○○を存在させ、その上で否定しなければならない。
この二重の手順なしに、否定はできない。
つまりある主語(名詞)の存在(または他の動詞)を否定するには、
まずはその存在(または他の動詞)が条件として含まれていると言える。
これは存在→否定とのヘーゲル論理学の展開とも関係するだろう。

 一般論を述べるにも、ある個別の主語(名詞)の存在
(または他の動詞)が前提とされる。
これらは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の二重性となっている。

 この「肯定と否定」の二重性は、ヘーゲルでは肯定判断と否定判断の
悪無限として質の判断ですでに説明されていた。
したがって、それは反省の判断でも、必然性の判断でも前提だ。
しかし、それまではその二重性が表に出て見えることはなかった。
こうした二重性が仮言判断では、はっきりと表に現れている。
仮言判断とは、潜在的な二重性が顕在化する段階なのではないか。
これが、文が2つ現れて来るという意味ではないか。

 その上で、主語が2つ現れるという、
仮言判断の特殊な側面が問われることになるのではないか。
ヘーゲルには、後者の説明はあっても、前者がない。
これはヘーゲルがカントに依存し、その範囲で考えていることから
生じているのではないか。

(6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか

【1】[仮言判断]では、主語が2つ現れる。
 したがって、文も2つあることになる。

【2】複文 主文と従属文。条件文(副文)は、[概念の判断]で現れる。
 この意味が説明されなければならない。私見は(5)に書いた。
 また、仮言判断は、論理的には推理ではないか。
 概念の判断もそうではないか。

(7)概念のナカミはどこで問われるのか

 人間とは?(人間の概念)である という判断は、この判断論では現れない。
 先の規定で、[精神哲学]における内容だから。

(8)カントとの関係

【1】ヘーゲルが行ったのは、カントが示したカテゴリー表、判断の分類の意味を深めただけ
 カントが考えていたことの潜在的な意味を、顕在化させただけ
 逆に言えば、この「?しただけ」(深めた)が重要。それが継承(発展)させること。
 これが私たちができるベスト。

【2】二人の違い
 すぐにわかるのは、カントの量から質の順を、ヘーゲルは質(定存在)から始めて、
 反省(量ではないが、全称や特称を扱う)へと展開したこと。
 他も、全体にそれぞれの判断の意味を変えている。
 しかし、ヘーゲルがカントに引きずられている部分もあるのではないか。
 判断の4種類など。

【3】仮言判断におけるヘーゲルとカント
 ヘーゲルとカントでは、仮言判断と因果関係との関係が正反対。
 カントは、仮言判断の存在から原因結果の関係を導出する。
 ヘーゲルは、逆である。
 これはカントがカテゴリーを人間の悟性の行う判断の形式から導出しようとし、
 ヘーゲルにとっては、概念の運動から判断を導出しようとしているのだから当然。

 それよりも、仮言判断と原因結果の関係を結び、
 定言判断 → 仮言判断 → 選言判断としているカントに、
 どれだけ強くヘーゲルが依存しているか、その側面こそが問題なのだ。

(9)アリストテレスとの関係

【1】アリストテレス以来の形式論理学の批判になっている

【2】アリストテレスでは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の対立が
 絶対的な基準になっているが、ヘーゲルはその相互転化を示すので、
 その対立は止揚される。

【3】ヘーゲルの論理学では、肯定判断と否定判断の相互転化は質の判断で示される。
 反省の判断以降では、この肯定と否定は契機として止揚されているから、
 その後の判断において繰り返し出てくるが、表には肯定の形しか示さない。
 それは止揚しているので、一々示す必要がない。

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