「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第8回
江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第8回。
眠りから覚めたオオサンショウウオ (その4)
?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
中井浩一
■ 本日の目次 ■
(8)本当の自立
(9)「お嬢様」の凄み
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(8)本当の自立
表のテーマである「人生のテーマ作り」と、裏テーマである「親からの自立」には、「先生を選べ」が欠かせない。この「先生」の重要さは絶対的なものであることがわかっていただけると思う。それだけに、先生への依存は一時的には強まる。
「今までは師弟契約をしていた中井さんに頼っている面が少なからずあった。それも仕方ない面はあり、自分一人では先に進めないわけだからアドバイスを受けるのは当然だが、自分でやって先生の意見を聞くというより、中井さんからの提案や助言を受けて考える、行動するということも多々あった」。
江口さんの現状の問題は、「自分でやって」が弱いという以外に、私への批判や問題提起が少なく、ほとんどないということがある。今回の振り返りの文章でも、私への批判は皆無といってよい。
しかし、この6年間の私の指導への疑問、不満や怒りなどは多々あったと思う。実際に、私の力量不足で、指導が的確ではなかった場面は数多かったと思う。3つのテーマ変更の意味がわからなかったし、「引きこもり」の意味も十分にわかっていたわけではない。
江口さんからの適切な問題提起や質問や相談がもっとあれば、不要な混乱は少なく、停滞した時期も短くすんだかもしれない。しかし、それがその時点での二人の力量の結果だったといえる。私と江口さんは、その渦中ではそれぞれのベストを尽くしてきたし、その中で成長してきた。
江口さんは親からの自立をへて、私からの自立、つまり独り立ちが今後の課題となる。それは、外での勝負、闘いの中でおのずと解決されていくだろう。
「これからは今までのような守られた世界から外へ出て、他人や世間にもまれて、時には自分を正面から否定されたり、思うようにいかない事態をたくさん経験することが必要だと思う。そうしなければ、今までの自分がある意味そうだったように、自分とは何か、自分のテーマは何かがぼんやりしたままで、はっきりしない。具体化されていかない」。
江口さんは、経験の幅が極端に狭い。この6年間の「引きこもり」でそれはいっそう強まった。これからは、おもいきって経験の幅を広げる必要がある。素敵な男たちと出会い、深刻で猛烈な恋愛をたくさんして、歓喜と苦しさのあまりのたうち回って欲しい。バカなことも、悪いことも徹底的にやって欲しい。敵とは激しく戦い、友や同志ともとことん付き合って欲しい。海外に出ることも、世界中の「うた」と出会うことも必要だろう。すべてはこれから始まる。それに必要な最低限度の力はあるはずだ。
「他人とぶつかるということは、自分の未熟さ、低さが露わになることでもある。例えば歌会に参加すれば、そこでの自分の態度から自分が議論の場で問題提起できないことが明らかになる。歌についても、わからないことがいくらでも出てくるし、自分の歌に対する参加者の批評を聞けば、自分の歌の駄目さを嫌でも感じさせられる。千年以上の歴史をもつ日本の歌に対して、足がすくむような、越えようのない壁が立ちはだかっているような不安や恐れを感じてしまうのが正直な気持ちだ」。
自分がテーマに決めた歌への畏敬の念と、ふるいたつようなあこがれと、武者震い。そうした初心がすべてを決める。
今後、江口さんは短歌の創作で勝負していかなければならない。歌会で勝負し、投稿で勝負し、論争で勝負する。その中で、自分の歌詠みとしての立場を確立し、自分のグループを作っていくことになるだろう。
そこでは組織の原則と、師弟関係の原則が問われよう。
こうして、自分自身のぎりぎりの立場が問われていくことになるだろう。
「本当のところ、立場の問題は自分にとってまだまだ曖昧なところが多い。それは、自分がまだ本当には立場を問われたことがなく、この問題に心底悩んだことがないからではないかと思う」。
今後、江口さんがこうした課題をどこまで達成できるかは、今はわからない。それはすべて、江口さん次第である。
(9)「お嬢様」の凄み
さて、本稿を終えるにあたって、冒頭に述べた守谷君と江口さんの比較にもどろう。そこでは、守谷君と江口さんを、動と静、たえざる運動と引きこもり、外的と内的、躁状態とうつ病的、などと対比した。面白いことに、この数ヶ月は、それが逆転し、入れ替わったような気配がある。江口さんが外での活動を開始した一方で、守谷君はそれまでの外での活動を自粛し、内面に沈潜している。自分の心と体との対話を静かに繰り返し、自分の人生を振り返る作業をしている。ここにも、大きな意味があると思う。
冒頭ではまた、守谷君と江口さんを「特殊」と「ふつう」と対比し、江口さんを「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」だったとし、それを「わかりにくい」と述べた。そして、このメルマガの読者の多くの「ふつうの人」には、江口さんの事例の方が参考になるだろうと。
こうした言い方は、「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」をバカにしているような印象を与えると思う。しかし、それは違う。むしろ反対だ。私は「ふつう」の凄さ、「ふつうのお嬢様」の凄みを語りたいのだ。
江口さんは、確かに「お嬢様」だった。しかし、彼女は、師弟契約第1号として、私を選んで、ただ1人、単身で飛び込んできてくれた。これほどの度胸と思いっきりのよさも、世間を知らないからこそ可能になったともいえる。
その後、オオサンショウウオに自分を重ねていたことも、すごいことだ。お嬢様があの奇怪なオオサンショウウオを自分の本当の姿だとしていたのだ。
友人関係をすべて切り、6年間のひきこもりを最後までやりきったことも尋常ではない。そもそもの初心がそれ程に激しいものだった。それは、それまでの自分のすべてを否定するような激しさだ。こうしたことは、とうてい「ふつう」とはいえない。守谷君以上に「特殊」であり、稀なことではないか。
しかし、それも、いかにも「お嬢様」的だと思うのだ。もちろん、お嬢様たちのすべてがそうではないのだが、その中からとんでもない傑物が生まれるのも、歴史上の事実だ。
「艱難汝を玉にする」という諺があるように、世間では苦労人を評価し、貧窮した生活環境からこそ傑物が生まれるといった理解がある。そうした人ほど問題意識が強く、大きな仕事をすると、考えられている。
しかし、それだけだとすると、豊かな時代になればなる程、傑物、偉大な人間は生まれなくなるだろう。
私はお嬢様に大きな可能性を感じている。「両親の愛情にも恵まれ」、「何不自由なく暮らし」、苦労知らずで、のんびりと育つ。すべてに満たされていて、金銭や物品や愛情等への欠乏感はない。確かに問題意識は育ちにくい。しかし、何かことが起これば、すべてのものを投げ捨て、大胆な行動をとることもできる。一方、苦労人は、富や名声にしがみつきやすいという面もある。
私は、江口さんによって、「お嬢様」の凄みと可能性を改めて確認した。読者の方々の中には、「ふつうの人」や、「ふつうのお嬢様」も多いと思う。そうした方々には、御自身の大きな可能性と、それゆえの厳しさを思っていただけると思う。
本稿の引用はすべて江口さんの総括文から。下線はすべて私(中井)による。
(2011年5月29日)