貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の7回目
吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。
卒論は『山びこ学校』。
『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。
当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。
「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の7回目
■ 目次 ■
第2章 江口江一「母の死とその後」
第2節 2つの問い
2つの問いが立っている
2つの問いはどこから生まれてきたのか
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第2節 2つの問い
2つの問いが立っている
江口の問いは何だったのだろうか。文章を見てみると、江口に大きく2つの問いが立っていることが分かる。
まず、「あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」(19)という、母親についての問いがある。しかし、もう一方では「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」(23)、「第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです」(24)という、明らかに江口自身のこれからの生活についての問いも立っているのだ。「自分がそんなに死にものぐるいで働いて、その上村から扶助料さえもらって、それでも貧乏をくいとめることができなかった母が、私が卒業して働きだせば生活はらくになると考えていたのだろうか」(21)という問いについても、すぐに上記の(23)の問いに言い換えているから、同じくこれからの自分の生活への不安から出た問いと言えるだろう。大きく見て、1つの文章の中に問いが2つ立っているのだ。つまり、亡くなった母親についての問いと(19)、自分の将来に関する問いだ(21)(23)(24)。
問いが2つあることに対応して、答えも2つある。母親については、「貧乏なのは、お母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないか」(31) という答えがある。また、自分の将来についても「これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまうのです」(29)、「だから『金をためて不自由なしの家にする』などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです」(30)、「だから今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです」(32) といった答えが出ている。
問いから答えを出す根拠についても、「4 考えていること」において、母がいた頃の家計の収支の計算をしている一方で、これから自分が家の責任者となり祖母と2人になった場合の収支の計算もやっている。それもそれぞれが相当詳しく具体的に計算されているのだ。
他にも、この作文の冒頭で「お母さんのことや家のことなど考えられてなりません」(2)のように述べられていて、江口が母親のことと、「家のこと」について、2つ同時に悩んでいることが確認できる。本文中では「家のこと」とあるが、江口が家の責任者になったので「家のこと」は「自分のこと」と言い換えていいだろう。
もう少し細かいところを見ても、母親の暮らしがなぜ楽にならなかったのか「不思議でならない」(20)と言っている一方で、自分の将来の暮らしは楽になるのかについても「心配で心配で」ならないと述べている。つまり、1つの文章の中にある2つの問いは、どちらも中心となる強さのある問いのようだ。そんなことがありうるのだろうか。
ちなみに、「第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです」(25)ということも問いとして挙げられているのだが、「第二の方を考えないとしても、第一の方だけでわからなくなってしまいます」(26)というように、この作文では考えられていない。それもそのはずで、江口の貧しさを考えれば他人のことまで考える余裕などなかったのは当然だろう。むしろ、江口ほどの貧しさの中にいた人間から、他人に配慮する問いが出てくることだけでも驚かされる。
それがどこから出てきた問いなのか、この作文だけでは分からない。その問いは提示されただけで考えられていないのだから推測しかできない。当時の山元村では田を買うことによって他の村人が困るようなことが実際に起きていたのだろうか。江口の他人を配慮する問いは親や村の大人たちの影響だったのか、あるいは無着の指導か。学級でそういう問題についても討論しあっていたのだろうか。
いずれにせよ、この作文を書いた時の江口にとっては、最重要の疑問ではなかったようだ。やはり、中心は母親のこと、そしてこれからの自分の生活のことの2つであった。それでは1つの文章の中に、最重要の問いが2つあるとは一体どういうことだろうか。
2つの問いはどこから生まれてきたのか
2つの問いが同時に起きるとはどういうことかを探るために、そもそも、それぞれの問いがなぜ生まれたのかということを考えていきたい。
まず、母親についての問いだ。それは「(母が)あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という問いだが、何といっても一番大きかったのは母親の死だろう。「(母が)あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という問いは、頑張って働いた母親がなぜ死ななければいけなかったのか、という問いに言い換えられると思う。なぜなら「暮しがらくにならなかった」ゆえに、母親は死ななければならなかったからだ。
中学生の江口江一にとって、親の死以上に大きな喪失があるだろうか。表現においても、「僕のお母さん」「僕のお母さん」「僕のお母さん」と繰り返しているところなど(18)、母への強い思いが感じられる。しかも、江口の父親はすでにずっと前に亡くなっているのだ。たった1人の親である母が亡くなれば、江口は両親ともに亡くすことになるのだ。しかも、江口江一は長男だったので両親が亡くなれば家の責任者になるのだ。母の死は江口にとってそれだけ重い意味があり、そこに強い問いが起きることも頷ける。
ではなぜ江口の母が死ななければならなかったかというと、それは事実として非常に厳しい貧しさがあったことが大きいだろう。江口の母親は直接的には病気で亡くなったが、病気になったのは1人で家計を支えなければならない苦労があっただろう。少なくとも、病気になった時に「ゼニが無い」と言って医者にかからなかったことは確かに死につながったと思う。何しろ江口の家はただでさえ貧しい山元村の中でも最も貧しい家の1つだったのだ(1)。家計の計算を見ればわかるが、村からは扶助料をもらわないと全く生活は成り立たないくらいだった。江口は中学生でありながら労働力として必要だったために学校を休まなければいけなかった(3)。
また、その貧しさの中で母親は一生懸命に働いていた。 江口に「あんなに働いても」と言わせるほどである。家計の数字の上からも江口の母親が何とか借金を食い止めようと一生懸命だったことが分かる(28)。また、江口の母親は入院中にもうわ言で家の仕事を心配するような人だった(5)。江口の母親が家のことをどれだけ気にかけていたかが伝わる。別の見方をすれば、江口の母親が死にそうになってからもうわ言で家の仕事を心配しなければならないだけの厳しい貧しさが実際にあったということでもある。
次に、自分についての問いだ。それは例えば、「ほんとに金がたまるのか」(24)のように言葉で表現されているが、きっかけとして教師無着の働きかけが大きかったようだ。強い不安のある江口に対して、無着はこれからの計画・目標を提出させた。江口は自分で計画を考え提出することによって、それが現実にそぐわないことに気付けた。そして、そのことで問いがさらに明確になってこの作文が書くに至ったのだ。この作文で江口が出した答えを見てみると、「今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです(32)。」とある。このことから、江口の問いが無着に提出した計画が正しいかどうかを確かめるものであったことが分かる。
もちろん、教師の働きかけが江口に響いたのは、江口の中にすでに問いがあったからではある。それは言葉にならない感情のレベルだったが、彼自身が不安でたまらなかったことが伝わってくる。初めは母親が入院し、頼る人がいなくなってしまったときから慌てだしたようだ(10)(12)。江口が中学生にもかかわらず家の責任者になってしまったことの不安に溢れていて、「心配で」「なおさら心配でした」と繰り返している(14)。作文を書いている頃は、夜も眠れないほど心配だったのだ(22)。江口江一は母の死後から1ヶ月後にこの作文を書いた。たった1ヶ月しかたっていないにもかかわらず、母の死の悲しみにただ流されるのではなく、これからの生活をどうするのかなんとか考えようとしたのは、そうさせるだけの不安の強さがあったからだろう。
では、それだけ江口を不安にさせた状況とはどんなものだったのか。
江口がそういう心配をしていたのは、もちろん貧しさがあったからだと思う。母親が入院してからは、毎日仕事をするしかなくて、全く学校にも行けなかった(13)。そして、弟や妹と別れなければならないほどに貧しかったのだ。それを決めたのは親戚だったのだが、親戚から2人で生活していくだけで精一杯だと判断されるほどに貧しかったのだ。また、家の生計をどうやって立てて行くかを考える上で、何も分からないことによる不安も強かったようだ(14)。何しろ江口はまだ中学2年生だったのである。
また、母が一生懸命働いていたことが、逆に江口にとっては不安を強くさせた面もあったようだ。それは問いの表現に表れている。「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか(23)」という問いから分かるように、江口が家の責任者として直面する貧しさは、母親が死にもの狂いに働いても解決できないだけの厳しさであったことを表現している。
江口江一とその母親は、貧しさという問題に直面したこと、そのことによる心配や不安があったという点で結ばれているのではないか。そして、それは母親が亡くなったことによって、江口が生前の母と同じ立場、つまり家の責任者という立場になったことによるだろう。
そこで注目したいのは、母の心配事について具体的にどういう内容があったのか挙げている部分だ(4)。ここでは「どういうふうにして」「どういうふうにして」「どういうふうにして」とたたみかけるような表現があり、江口の強い主張を感じることができる。なぜここを江口は強調したのだろうか。それはおそらく、母親が死に、江口が母親と同じ立場、つまり一家の責任者になったことによるだろう。江口は母親と同じ立場に立つことによって、母親の苦労を理解し、共感しているのだ。母親が元気だった頃は、一家の責任者でなかったから気楽だったのだ(3)。逆にいえば、今は一家の責任者だから気楽ではなく、気苦労に絶えないのである。
ここまでのことを考えれば、江口の問いが2つ立っていることの理由が分かると思う。江口は母親と同じ立場に立ったことによって、母親と同じテーマを持つに至った。そして、それは江口にとって、母について考えることと、自分について考えることが重なり合うことも意味するだろう。「(母が)あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という問いと、「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」という問いで考えようとしている内容、抱いている心配、直面している事実が重なり合うのである。
立場というものが問いの形成においてとても重要なことが分かる。江口にとって、母の生前から家の貧しさは目の前にある問題ではあったはずだ。しかし、家の責任者という立場になり、その立場から貧しさに直面することで初めて明確な問いが生れたのだ。事実に対する関わり方や責任を変える立場がなければ、その事実の中にある問題(問い)は意識されなかっただろう。そして、その立場に立つことになったのは母の死があったからだ。
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