6月 19

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の6回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の6回目

■ 目次 ■

第2章 江口江一「母の死とその後」
第1節 「母の死とその後」
3 父の死
4 考えていること
5 その後のこと

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3 父の死
 
父の死については、ばんちゃんや、お母さんから耳にタコができるくらいきかせられていますから、よくわかります。父は僕が六歳のとき、二男が生れて五日目、昭和十五年、今からきばっと((ちょうど))(ちょうど)十年前、やはり貧乏のどんぞこの中で胃かいようで苦しみながら死んでいったのです。そして、その葬式のあとには五円のこったということでした。ところがその五円も、出しぞくで、なくなってしまったということです。
 それで、ばんちゃんとお母さんは明日食う米にも困り、毎日毎日、ぞうりを作り、それを米に変えねばならなかったということです。よくお母さんがいっていたことなのですが、「あの頃は、どういうわけだが、ぞうりがあんがい高くてな。ばんちゃんと二人で一日かせげば米の二升は買えたもんでな。お前が六ツか七ツで年頭((年がしら))(年がしら)なので、五人家族でもそんなに食わないから一日一升あれば十分だったので、おっつぁ((おとうさん))(おとうさん)が死んで一、二年は、すこしずつたまっていったけな。この調子ならお前が一丁前になるまで持ちこたえればいいなと思っていたら、昭和十七、八年頃からだんだん借金しなければならなくなってきたものなあ。」といいいいしたお母さんの言葉が、いまでも僕の耳にこびりついています。
 【ほんとに、「江一さえ大きくなったら……」と、そればっかりのぞみにして、できることなら、江一が大きくなるまではなんとか借金だけはなくしておきたいといいながら、だんだん借金をふやしてゆかねばならなかった僕のお母さん。生活をらくにしようと思って、もがけばもがくほど苦しくなっていった僕のお母さん。そしてついに、その貧乏に負けて死んでいった僕のお母さん(18)】。そのお母さんのことを考えると「【あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう(19)】。」と【不思議でならないのです(20)】。

4 考えていること

 それから、ここまで書いてきてもう一つ不思議に思うことは、【自分がそんなに死にものぐるいで働いて、その上村から扶助料さえもらって、それでも貧乏をくいとめることができなかった母が、私が卒業して働きだせば生活はらくになると考えていたのだろうか(21)】ということです。
 そのことになると僕は全くわからなくなって、【心配で心配で夜もねむれないことがあるのです(22)】。それは「【あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか(23)】。」という考えです。
 今日の昼間、先生に次のようなことを書いて出したのです。
(1) 来年は中学三年で、学校にはぜひ行きたいと思うから、よくよくのことでなければ日やといには行かず、世の中に出て困らないように勉強したいと思う。
(2) さらい年は学校を卒業するから、仕事をぐんぐん進めて、手間とりでもして 来年の分をとりかえす。
(3) 金が足りなくなく((たりないことなく))(足りないことなく)、暮せるようになったら、すこし借金しても田を買わねばならぬと思う。なぜなら、田があれば食うには((だけは))(だけは)らくにくえるから、もしも田がなくて、その上、だれも金も米も貸さなくなったら死んでしまわねばならなくなるから。
(4) それから、金をためて、不自由なものはなんでも買える家にしたい。不自由なしの家にしたい。
(5) それには頭をよくし、どんな世の中になっても、うまくのりきることができる人間にならなければならない。
(6) とにかく、羊みたいに他人様から食わせてもらう人間でなく、みんなと同じように生活できる人間になりたい。
先生に書いて出したのはこの六つですが、これは考えれば考えるほどまちがっているような気がしてならなくなるのです。
【第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです(24)】。【第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです(25)】。
【第二の方を考えないとしても、第一の方だけでわからなくなってしまいます(26)】。【こんなとき、僕のお母さんがもし会計簿をつけていたらなあと思います。そうすれば、それを見て、僕はどう考えればよいのかわかってくるにちがいなかったと思うのです(27)】。なぜなら私の家では三段歩の畑(うち、葉煙草は三畝歩で、残りは自家用菜園―編者)に植える葉煙草の収入しかないのだから、どんなに働いても収入は同じなのです。たとえば今年の生活を見てみると、去年の煙草を今年の一月に出して、二月にその金が一万二千円入って、そのときの七千円の借金をしているのです。
この七千円の借金というのは、昭和二十三年度に出した借金で、三月から一カ月平均千三百円ずつ十ヶ月一万三千円の扶助料をもらったほかに出しているものです。
それは二十三年度の生活を考えてみるとすぐわかるのです。五人家族で食ってゆくだけ、それも配給米をもらうだけで、一斗五百円(今年は六百二十円)としても、五人で一ヶ月三斗七升五合ですから、金に見積もれば、千八百七十五円です。この金が一ヶ月にぜひ必要な金だったのです。それが十二カ月では二万二千五百円になるわけです。それから去年(二十三年度)扶助料一万三千円を引いてみたところで、米代だけで九千五百円の借金です。それは、二十二年度の葉煙草の収入から出たとしても、二十二年度の借金を引いたのこりであろうし、わずかなものでしたでしょう。【だから去年の借金が、米代だけでも九千五百円にもなるのに、それを七千円でくいとめたというところにお母さんの努力がわかるのです(28)】。
ところが今年は葉煙草一万二千円のうちから、去年の七千円の借金をかえしたのこり五千円と、一カ月平均千六百円もらっている扶助料とも計算して、今のところの全収入は二万二千六百円になるわけです。ところが配給米一斗が六百二十円で、それを毎月三斗七升五合受けねばならなかったのです。だから金にしてみると、二千三百二十五円、それが十一カ月で二万五千五百七十五円です。だからもう米代だけで二千九百七十五円の借金になってるわけなのです。
だからお母さんの葬式が終わってから、ばんちゃんが「七千円のこった。」というのを信用しなかったのです。考えてみると、のこるはずがないのです。
しかし、母は、冬のうちは、ハタオリなどしてかせぎ、ほんとに困ると村木沢や山形の叔父さんのところからゆうずうしてもらって(四千円ばかりゆうずうしてもらっていた)現在の借金は三千五百円になりました。
ところで、これから僕は一人で家族全部に食わせることができないので、親族会議でツエ子と二男は、母の兄さんたちに育ててもらうことにきまりました。そうなれば、僕のうちは、いよいよばんちゃんと二人で立ててゆかねばならなくなるのです。
それで考えてみると、二人して食う米の量は、一ヶ月一斗五升としても九百三十円必要です。税金が二百五十円、そのほか醤油代とか、塩代とか、電気料といったような、毎日必要なきまった金高だけを計算してみると、一ヶ月ざっと二千円はかかるようです。このほか、着物が切れたといっては着物を買わなければならないし、冬になって炭やまきを買うとなればまたたいしたものだし、やっぱり二人して生きてゆくためには、一カ月平均、いくら少く見積っても二千と五、六百円は必要なようです。
それで、役場から扶助料を千七百円くらいもらうのをかんじょうに入れて計算してみても、三段歩の畑から出てくるものは葉煙草二十貫にきまっているし、今年は去年より悪かったから一万円にならないにちがいないのです。一万円としても一ヶ月八百円。扶助料と合わすと、二千五百円、【これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまうのです(29)】。
【だから「金をためて不自由なしの家にする」などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです(30)】。
このことを考えてくると、【貧乏なのは、お母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないかと思えてくるのです(31)】。三段歩ばかりの畑では、五人家族が生きてゆくにはどうにもならなかったのでないでしょうか。
だから【今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです(32)】。

5 その後のこと

(中略)
明日はお母さんの三十五日です。お母さんにこのことを報告します。お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。
僕たちの学級には、僕よりもっと不幸な敏雄君がいます。僕たちが力を合わせれば、敏雄君をもっとしあわせにすることができるのではないだろうか。みんな力を合わせてもっとやろうじゃありませんか。
(一九四九年十二月一六日)
             (無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、22-38頁)

 以上で引用を終わり、第2節に移る。

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