貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の11回目
吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。
卒論は『山びこ学校』。
『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。
当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。
「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の最終回
■ 目次 ■
終章
次の課題を明らかにする
運動が連続するような問いはどこから生まれるのか
教師の役割
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終章
次の課題を明らかにする
私が分析した3つの文章は、その問いや答えが様々な出方をしていた。しかし、文章には基本的には1つの問いがあり、その答えを出そうとしていることが確認できた。川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」は、タイトルがそのまま問いになっていて、分かりやすく、明確だった。それに対する答えも明確で「私の将来の仕事を心配して死んでいった」というもので川合は文章の中で繰り返し述べているのだった。
江口江一の「母の死とその後」については一見、2つの問いに分かれているような文章だった。それは「母があんなに働いてもなぜ生活がらくにならなかったのか」という問いと、「自分がこれから一生懸命働けば生活は楽になるのか」という2つだった。それに対応して、答えも母に関するものと、自分に関する内容があるのだった。しかし、2つの問いは実は重なり合っていたのだった。それは江口が亡くなった母と同じ立場(家の責任者)になったことによって、直面している現実が同じになったからだった。
では、佐藤藤三郎はどうかというと、彼の「ぼくはこう考える」は問いや意見が矢継ぎ早に立てられていて、その内容も一見すると多岐にわたっているのだが、大きくは「どうすれば農村の人々は貧しさから抜け出せるか」というような問いが根本にはあるのだった。
興味深いのは、1つの問いに沿って、文章が書かれ、その答えを出すのだが、答えを出したところで終わってしまわないということだ。
川合末男の文章についていえば、「私の将来の仕事を心配して死んでいった」という明確な答えは得たのだが、次に自分の課題を良い職業につくこととして書いているのだ。さらに、文章の最後では良い職業とは何かということを既に書き始めてしまっていて、川合はとりあえず警察予備隊を例にして考えたのだった。そして「予備隊は良い職業か」という問いが立ち、そのことを考え始めているのだった。
江口江一についていえば、川合ほど結論そのものが分かりやすくはない。というのは、第一に、精一杯の生活をするということ。第二に、借金をなくすということ。第三は、扶助料なしに生活していくこと。第四は、金をためて不自由なしの家にするという、4つに分けたときに、第四の金をためて不自由なしにするということは「ハッキリ間違っている」ことが分かったのだ。第一の水準は達成できるかもしれないが、しかし、第二、第三の課題となると分からないのだった。これでは問いの答えがハッキリ出たとはいえず、当然さらに明確な答えを求めることになると思う。
けれども、私はすでにこの答えの段階で相当の進歩があると思う。それはまず、金をためて不自由なしの家にするなどということが無理だと分かったことだ。自分の限界をしっかりと見極めている。また、同時に課題も明らかになっている。それは第二・第三の水準を目指せるかどうか分からないという問いがすでに生まれているからだ。最後に、4つの水準に分けたことが素晴らしいと思う。「生活は楽になるのか」というややあいまいな問いでなく、例えば「扶助料なしで生活していけるのか」というように問い自体が明確になっていくだろう。
次に、佐藤藤三郎についてだが、「ぼくはこう考える」では文章の中ですでに問いと答えの連続になっている。佐藤は1つ1つのことに逐一問いを持ち、それに対しての意見を提示するということを連続してやっているのだ。分かりやすいところでいえば、「農村の子供たちは何を勉強すればいいのか」→「働くということについて考える土台が必要だ」→「その土台を見に就けるには何が必要か」→「みんなが堂々と学校に通えるようになる必要がある」というような運動が連続して起きている。
1つの問いがあり、その答えを出す運動は同時に、次の課題を明らかにするのである。そこに『山びこ学校』の作文の迫力があると言えるだろう。
運動が連続するような問いはどこから生まれるのか
答えを求め、さらに次の問いへ移るような運動が起きるだけの強さを持った問いをなぜ彼らは持っていたのだろうか。
彼らに共通するのは、まず貧しさという問題に直面していることだった。川合と江口に関しては、親の死という契機もあったのだが、根本には貧しさの問題がやはりあった。しかし、その貧しさと貧しさに対する関わり方(立場)はそれぞれ異なった。貧しさを解決するため、彼らのテーマが労働にあることも共通している。しかし、労働についてもまた、それぞれ異なる立場にあった。
最も貧しかったのは江口だ。彼は山元村でも最も貧しく、扶助料をもらわないと生活できないほどだった。親の死によって、家の責任者となった江口はまず、なんとか生きていけるかどうかがテーマだったのだ。働く目的は何と言っても、生きることにあった。しかし、江口は村から扶助料をもらうことを恥じていて、経済的自立ということも求めた。
川合は農村の次男以下として、職業をどうするかという選択に迫られていた。農家として生まれながら、農業以外の仕事に追い出されるような状況にあり、その意味では山元村の貧しさに直接関わることすらできなくなるのだった。しかし、選択に迫られたことによって、労働の目的について考えるようになった。その結果金銭のみを労働の目的とすることに疑問を持ち、世の中への貢献、自分の才能や欲求という面も考えるに至った。
江口と同じように、佐藤も山元村の貧しさに真正面から関わる立場にあった。それは佐藤が農家の跡取りとして育てられてきた。しかし、江口ほどに貧しい家ではなかった。その結果、佐藤は貧しさを自分の問題だけでなく、農村全体の問題として考えられる余裕があった。また、ただ働くだけでは限界があることを感じ、学問の必要性を強く意識していたのだった。しかし、それは農家の跡取りとして、親とともに一生懸命働いてきたからであり、むしろ労働の中から学問の必要性が生れたと言えるのではないか。しかし、江口のようにあまりにも労働と一体である時には、なかなか佐藤のような考えにならないようだ。江口は労働する人とその労働条件という区別を考えることはできたが、佐藤のように労働全体を他(ここでは学問)と関係付けて考えることはできなかった。
ここまでで分かるのは人はその置かれている状況、立場によって、課題(問い)が異なるということだ。そして、それを各自進めるしかできないのではないか。川合、江口、佐藤はそれぞれの状況、立場に応じた問いを持ち、作文においてそれを各自一生懸命進めていることが分かる。しかし、そもそも彼らの直面している問題はまず分かりやすく、厳しく、立場もそれぞれ明確であるから問いが初めから強くあったのだろう。
教師の役割
問いを自覚し、さらに進めて行く上で大きな役割を果たしたのは教師の無着だ。各章で分析した通り、無着の働きかけが3人の問いを進める契機となっている。ここで述べておきたいのは、無着があくまでも教師としての役割を果たしたということだ。
生徒たちの直面する農村の貧しさを何とかしたいという思いは無着の中にあったと思う。生徒たちの直面する貧しさはそれだけ厳しかったし、また作文を書かせれば貧しさの問題がたくさん出てくるのだ。
しかし、その貧しさ、厳しさを知っても、無着はあくまでも教師としての本分を忘れなかったと思う。それは生徒の成長を進めるという本分だ。佐藤を級長として教育したことを考えてほしい。佐藤は農村の貧しさを共有しながらも、問題にあたるリーダーをして育てられたと思う。そういう意味では無着は佐藤に農村の問題を任せたと言えないだろうか。
それもそのはずで、無着はあくまでも学校教員なのだ。出身も寺の生まれなのだ。その無着にとって、本当のテーマはやはり農村の貧しさではなかったのではないか。突き詰めれば、無着は「よそ者」であって、もっと言えば、農村の貧しさが本当に分かる人間ではないのではないか。無着にできることは、農村の子どもたちが、農村の貧しさを自分で考えられる人間になれるように教育することだけなのではないだろうか。そして、それは全く正しいし、実際無着はそれをやったのだと思う。
<参考文献>
・佐野眞一「遠い『山びこ』」(新潮文庫、2005年)
・無着成恭編『山びこ学校』(岩波文庫、1995年)
・(山元中学校学級文集)「きかんしゃ」5号(1950年)
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