大学生・社会人のゼミでは、この夏も八ヶ岳で3泊4日の合宿を行いました。
4日間の参加者は延べ6人。
他に、報告会だけの参加が3人(2人はウェブで参加)。
参加者の中から2人の振り返りと、私が今回の合宿で考えたことを掲載します。
まず、本日は、2人のうち1人目の振り返りの文章を掲載します。
────────────────────────────────────────
◇◆ 語れ、己を表現せよ 松永奏吾 ◆◇
私にとっての今回の合宿は、前半二日の『大論理学』原書講読、
それが予定されていた学習メニューだった。しかし、私が今、この感想文に
書きたいのはそのことではなく、二日目の晩に行われた、参加者各自の報告会
(「現実と闘う時間」)の中での出来事である。
今回の合宿の参加者の一人、A君は、三十代、高卒で現在無職、
長い期間ひきこもりの生活経験がある、そういう属性をもつ人である。
その晩の報告会で、彼は、現在、農業の職探しの活動中であるが、
身が入らず、「本当に自分は農業という分野で仕事をしたいのか」、
「農業以外にも、自分のやることがあるのではないか」と悩んでいる、
しかしそれと同時に、「社会と関わることによって自分の能力が高まる
ということがあると思うが、今の自分はそれではないと思う。
そのこと以前の自分の問題があり、そこが突破できつつある」とも思っている、
そういう報告をした。
前者は現在の彼の悩みの一表現であるが、後者はその根底にあるもの、
「そのこと以前の」、そもそもの、彼の問題である。彼の語るところによれば、
それは、学歴コンプレクスとか、ひきこもりの後ろめたさとかいった、
否定的な自己意識であった。
私は、彼の二つの思いに対して、どちらも共感した。
前者は、悪く見れば、行動すべきなのに行動できないでいること、ないし、
自分を一つのことに限定できないでいる状態であるが、良く見れば、
自分の可能性はこんなものじゃないはずだという自尊心の現れ、と見ることができる。
自分はまだ「何も」していないくせに、自分は「何か」ができるはずだ、という矛盾、
悩みを、その夜の彼は表明していたのであるし、私も中二の時から同じである。
しかし彼自身は、「良く見れば」の方をまだ強く自覚できていないし、またそれを
積極的に表現しようとしていないとも思った。(そこが私と違う。)
また、その根底にあるところの後者については、要するに、彼の事実として
生きてきた、ひきこもり生活という事実であり、学歴のなさという事実の話である。
それは分かりやすい論理として、彼の語る「自分はダメなのだ」という劣等感につながる。
特にひきこもりは、A君だけでない、今の日本に百万人近くいるのじゃないかと思われる
人々の現実である。
(A君のいわゆる「ひきこもり」と「学歴コンプレクス」は、はっきりと違う問題。
両者を一くくりにしない方がいいと思う。A君にとっては、「学歴コンプレクス」、
むしろ、大学に行こうと思わなかった事実、の方に深い意味がある、という気がする。)
ただ、その晩の報告会の途中で、彼のレジュメを見ながら、私はいつもこれまで
彼に対して抱いてきた感覚、「この人がなぜこのゼミの場にいるのか??」という不自然さ、
違和感を思い出してもいた。
すなわち、彼には、普通の人(=ゼミに縁のない人)と違う「何か」がある。
しかし、それはA君に限らずゼミのメンバーはみなそうである。
言い直せば、彼には、このゼミのメンバーと違う「何か」がある。「職なし学歴なしの
ひきこもり」がこのゼミに来続けるのには「何か」がなければならない。
だから、この晩、私は彼に対して、執拗にそれ、すなわち「何か」をきいた。
それに対して、A君は、以下のようなことを述べた。
曰く、自分は自室に何年も籠り、ただ独りで読書を続け、思索を続けてきた。
その過程で、時々だが、自分はすごいものを「発見」したこともある。
この世で自分だけが分かっていることがある。
周囲の大学に行ったやつらは「牙を抜かれている」のだが、自分は違う!
私自身はといえば、塾講師として二十年働いているが、「ひきこもり的な」生活は、
長く見積もれば、中二の時から二十五年くらいになる。
言うまでもなく、「働くひきこもり」は矛盾である。
しかし、私自身も中学時代から
無限とも思われる時間を、机の前に座って身動きもせず、ただただ何かを考え、
その半分は自己否定「おれはダメだ」であるが、もう半分に「何か」があると
思い込んでいた。しかし実際は、今もって、書くべき論文がまだ書けないでいる。
現実化していないのだから、彼と同じである。
それはともかく、自室に籠り、他者と関わらず、自分「独りで」何かをやっている
という自負、自分「だけが」分かっているという確信、ここにポイントがある。それを
社会と関わらないでやっている以上、勝負もなく、結果も現れないのだから、どんどん
自己肥大化してゆくばかりである。
しかし、私はまだしも、そんなこと(過剰な自意識の物語)を話せる友人がいたことが
あるし、これまで何回も、このゼミの場でそれ(妄想)の一端を表現してきたが、A君には
それすらなかった、友人もおらず、ゼミの場でもその問題を正面から取り上げたことは
かつてなかったのである。この事実は大きい。
だから、その晩の報告会でまず良かったことは、私がしつこく問い質したことで、
A君が自分のことを、他者に対して「表現」したことにあると思う。
その晩彼が話したことは、彼自身、初めて口にしたことのようであった。
表現することで自覚が生まれ、話してしまった以上、彼にも責任が生じているはずだ。
そんな偉そうなことを言ってしまった以上、他者に対して行動で証明しなければならない、
というような責任である。
しかし、「責任」とは事の本質を言い得ていない気がするから言い直すと、
やはり思うことは、他者に対して働きかけない限り何も動かない、ということ。
A君のレジュメにあった、「社会と関わることによって自分の能力が高まるということが
あると思うが、今の自分はそれではない」というのはやはり間違っている。
他者に働きかけること、社会に関わること、たとえばこの合宿の夜に「表現」したこと、
突破口はそれしかないではないか。その晩、語った彼自身がそれを証明したと思う。
あくる日の朝、『小論理学』の講読に入る前の時間、中井さんが昨晩のA君の件について、
補足的にまた別の問題提起をした。
すなわち、A君がこれまで、何度も同じことを繰り返してきたこと、やるべきことから
逃げ出してしまうこと、ひきこもり的な生活に戻ってしまうこと、その根本に、
昨晩の問題があったのだ、それが昨晩、松永の「つっこみ」によってだいぶ明らかになった、
しかし逆に言えば、昨晩まで、何年もの間、A君のその問題は、明らかでなかった、
ここにゼミの側の問題、中井自身の指導の問題もある、と。
それに対してA君は、自分の側の問題しか見えていないようだったが、それを昨晩よりも
より雄弁に話し、私は私でA君と自分が似ているから指摘できたのだという、やはり
自分の側の問題を話した。
結局、ゼミとしての問題、組織としての問題、ないし、指導者たる中井さんの問題について、
その答えは出なかったものの、問題は問題としてはっきりと立てられた。
これも合宿の一つの成果だった。