大学生・社会人のゼミでは、この夏も八ヶ岳で3泊4日の合宿を行いました。
4日間の参加者は延べ6人。
他に、報告会だけの参加が3人(2人はウェブで参加)。
本日は、私が今回の合宿で考えたことを掲載します。
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◇◆ 「すべてが展開されつくさない限り」 中井浩一 ◆◇
毎年夏に行われる3泊4日の合宿だが、今年の合宿では「現実と闘う時間」が
2日目と3日目の晩に行われた。
「現実と闘う時間」とは大仰なタイトルだが、各自が現状報告をし、それについて
参加者が意見交換をするものだ。このネーミングは牧野紀之によるものだが、
「現実と闘う時間」とはそのものずばりのタイトルであり、これ以外の言葉を
使う気にはなれない。
さて、今回の合宿の「現実と闘う時間」では、批判する人とされる人の
2組のことが印象に残った。
松永さんはA君についてしつようにせまり、突っ込みを入れ続けた。その結果、
A君の本音が表現された。私の予想もしていなかった発言だったから驚いた。
今回、A君が自分の本音を人前で言葉に出したことは、彼の人生で大きな一歩だったと思う。
それまでに3年ほどがかかっている。
B君は、ある参加者の生き方をしつように批判し続けた。その人の「本気」の弱さ、
表面的な活動、自立の覚悟のなさ、過去の成果へのこだわり。その参加者の停滞も数年になる。
ここから2つのことを考えた。
(1)自己理解と他者理解は1つであり、自己理解とつながらない他者理解は難しい。
今回の松永さんとB君による他者批判は、的確なものだったし、相手の自己理解を
進めるために役立ったと思う。それがなぜ可能だったかを考えると、松永さんとB君にとって、
その他者批判が自己理解のためにどうしても必要だったからだろう。
相手と自分とで、人間のタイプが近かったり、おかれた状況が似ていたりする。
その他者への批判は、自分が先に進むために避けがたいものだった。そうした批判には
真剣さ、力があり、そうでない批判とは違う。
今回の合宿で、私には松永さんやB君のような、的確な、あるいは熱のこもった
他者批判はできなかった。それが私の今の自己理解(課題)と直結しないからだ。
このように、私一人の力にははっきりと限界がある。その足りないところは、
多様な参加者が、それぞれの自己理解をかけて、真剣に他者批判をしていくしかない。
だからこそ、合宿をするのだし、そうした場では集団が集団としての力を発揮できる。
リーダーとは、そうした集団の力をフルに発揮させられる人のことだろう。
(2)「すべてが展開されつくさない限り」
1つ疑問がある。A君が今回の告白をするまでに3年がかかっている。
もっと早く、今回のような本音を引き出せなかっただろうか。
もっと早く、問題を深められなかっただろうか。
3年もかかっている点に、私の側の問題はないだろうか。
私に、もちろん問題はある。有限で、特殊な性格、経験を基礎として生きているから、
理解できることにおのずから限界がある。私の今の課題に近い事柄には反応できても、
そうでないことへの関心は弱くなる。
しかし、多少の幅はあるにしても、大枠では、A君の告白までに3年かかったことは
しかたないと考えている。それは他の誰が関わったとしても、大きな差はないと思う。
本人の自覚、覚悟の問題だからであり、そのためには、本人が自分自身を展開していなければ
ならないからだ。
最近よく、ヘーゲルの以下の言葉を思い出す。
「その段階でのすべてが細部まで展開されつくされない限り、つまり
その段階の頂点まで進まない限り、それが滅び、新たな段階が現れることはない」。
これはヘーゲルの言葉だが、マルクスの考えでもある。マルクスは社会の発展を
この言葉で理解し、資本主義の没落と社会主義の生成の必然性を、この考えでとらえようとした。
個々の前提条件に間違いがあったからそれは実現しなかったが、大枠の考え方は正しいと思っている。
そして、これは社会についてだけではなく、個人の成長についても言えるだろう。
「その段階でのすべてが細部まで展開されつくされていない」時点で、
「その段階の頂点まで進まない」段階で、一っ跳びに、その先に進むことはできるのだろうか。
私は今、それはできないと考えている。
どんなにその人にやる気があり、本人及び周囲の認識能力が高くともだ。
存在の運動を、認識の運動が超えることはできないからだ。
私たちにできることは、存在の運動とともに認識の運動を進め、存在の運動が先に進むように
働きかけ続けることだけだ。「その段階の頂点まで進む」まで、それを後押しするだけだ。
それには時間がかかる。辛抱が必要だ。そして、その辛抱を根底で支えるのがこの信念であり、
信念を支える認識能力だろう。私は、その作業を引き受けられるように努力したいと思っている。
(2012・9・17)