「痴呆を通して人間を視る」(その2)
7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。
その読書会の記録を、4回に分けて、掲載しています。本日は2回目です。
■ 本日の目次 ■
「痴呆を通して人間を視る」(その2)
7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
記録者 金沢 誠
4.各章の検討
(3)第2章の検討
(4)第4章の検討
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4.各章の検討
(3)第2章の検討
・P36「痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、
時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往還している。
今を過去が照らし、過去を今が彩る。」
→ これは痴呆に関わる人だけのことではない。人間ならば誰でも、
このように生きている。
・P36「彼らにかかわる私たちは、同じ時間を共有することなどできそうにない。
それでも、彼らには彼らの歴史があり、時間の重みがあることだけは
忘れてはなるまい。」
→ だが、今の実際の介護の現場では、一人ひとりの後ろにある、それまでの
人生の重さを受け止めてくれる人がいない。
ただ、それは個人の問題ではない。特別養護老人ホームも老人保健施設も、
スタッフの数が少なく、物理的に無理なのだ。それは行政の問題。
→ だが、本来どうあるべきかを考えた場合、目の前にいる痴呆の人には、
その人なりの人生があり、そのすべての人生の上に、今、そこに存在
している、ということが前提だ。
・P43「ケアには相手の心根を汲むという作業が何よりまして大切である。」
→ これはケアに限らない。人間が、人と関わる時には当然のこと。
ただ、痴呆の場合には、このことがより重要になる。
・P45「痴呆のケアにあたる者は、痴呆を生きるということの悲惨を見据える
目をもたねばならない。しかし、その悲惨を突き抜けて希望に至る道
をも見いださねばならない。」
→ 悲惨を見つめることはきつい。しかし、そこから目をそらしては、
希望に至る道は見えないはず。これは痴呆を病む人だけのことではない。
人間は、関係性のなかにしか生きられない。どういう人間と、どういう
関係をもって、生きていくことができるかということによって、
その人間が、幸せになれるかどうかが決まる。そのことが、
痴呆になることで増幅されるにすぎない。
・P48「罪の意識」
→ 罪の意識で、妻の介護をするような人生を生きてきた男は情けない。
現在の高齢者が、このようになることは、社会的に仕方ない面がある。
だが、今の若い人が、こうなったら、すべて自己責任。
・P50「生きるエネルギーが衰えていく」
→ 精神科の医者は、すぐに薬で抑え込もうとする。それは生きる
エネルギーを奪う。薬によって病気を抑えようという発想が正しいのか。
正しくないことは明らか。
しかし実際の治療の現場では、薬で抑え込もうとする。
・P52「『かわいいー』とはやし立てる」
→ 怒りを覚える。相手を人間として見ていない。介護の現場のスタッフの
なかにおかしい人がいることは事実。その場合には、その都度、
その当人や責任者に、おかしいと批判しつづけなければならない。
そうしなければ現場は一歩も変わらない。
・P54「聖なるもの」
→ ここまで突き進むことができるかどうかが問題。
・P61「どんな悲惨な状況にあっても、いや悲惨だからこそ、ひととひととの
つながりが『幸せ』を招き寄せる、と信じたい。」
→ こういう信念がなかったら、この厳しい現実のなかで、やっていけない。
・P69「しかし、耕の誠実は耕自身を確かに救ったが、彼女を救うまでには
至らなかったのかもしれない。」
→ この著者は、こういう所で感傷的にならない。最終的な判断は、
読者に委ねて、読者みずからが考えて、答えを出す以外にはない、と
突き放す。
(4)第4章の検討
・P158
→ 認知症の人が、このような表現活動、知的活動を続けることができて
いる稀有な例。
なぜそれが可能なのか。そばに完全にサポートしてくれる人がいるから。
それがなかったら不可能。逆に言えば、そういう人がいると、かなりの
ことができるということ。
・P161「記憶障害があれば痴呆か」
→ 記憶障害自体は、他にもたくさんある。だが、それらと認知症の
記憶障害とは何が違うのか、という問い。
→ その答え。記憶障害それ自体が認知症ではない。記憶障害であると
いうことに対する無関心、さらに、それの否定という所まで行くと
認知症ということになる。
・P165「見当識障害」
→ だれでも迷子になる。そのことと認知症の見当識障害とはどう
違うのか。その答え。人に助けを求めることができるかどうか。
→ 人に助けを求めることができるということは、自分の力では解決できない
という自覚があるということ。その時に「助けてください」と
言わなければならない。
→ 認知症の人は、自分が迷子になっているということ自体は、かすかに
分かっている。だが、何とかしなければいけないという自覚が弱い。
さらに、その自覚はあっても、人に助けてもらわないと自分ではもう
解決できないということが分からない。だから助けを求められない。
→ これは認知症に特有のことではない。実はすべての人間に言えること。
自分が行き詰っているのに、それが認められない。なんとかなると
思っている。自分の変なプライドがあり、人に「助けてください」
などと、みっともないことは言えないと思っている。
ここで問題になっていることは、人間の本質的な問題そのもの。
これは認知症だから出てくる問題ではなく、人間すべての問題。
それが認知症のなかに、非常にはっきり表れてくるだけ。
・P168「定常的スケジュール」
→ 人間は、こつこつ地味に努力して生きていく以外にはない。
ある日、突然、何かすごい変化が起こるなどということはない。
ただ、毎日の地味な努力の積み重ねがあるだけ。
・P169「実行機能の障害」
→ これは人間すべてにとって難しい。自分が間違っているということを、
自分で認めることはつらい。だから、ほとんどの人は、できるだけ見ない
ようにして、ごまかす。
→ 痴呆になって、こうした周辺症状がでるということは、もともとその人の
生き方が、このようなものであったということ。それがより強く表れる
というだけのこと。
→ 痴呆になっても、こうした周辺症状は出ない生き方があるということ。
自分が間違った時には、それを認め、助けが必要な時には、人に助けを求める
などのことをやって生きてきた人間は、こうした症状にはならないということ。
→ 人に「助けてください」と言える人が、自立した人間であるということ。
自立している人間は、本当の意味で依存ができる。「助けてください」と
人に言える。思い切って依存ができる人が、自立が出来ているということ。
・P174「ズレが存在する」
→ この本の著者の素晴らしい所は、このズレをなくそうとするのではなく、
このズレを大切にしようという所。人間が現実からズレて生きていること
自体は問題ない。むしろ、ズレがなかったら成長しない。
問題は、このズレをどのように処理すればいいのかということ。
痴呆の人の場合は、とりあえず妄想の形で、それを解決する。
だが、痴呆の人だけでなく、多くの人も同じことをやっている。
・P175「うたこ だんだん ばかになる どうかたすけて」
→ これがなぜ賢い叫びと言えるのか。自分が、ばかになるということを
自覚している人間と、実際は、ばかなのに、それを自覚していない人間と、
どちらが、ばかなのか。
→ こういう所を読むと、詩の力というものがあると感じる。
文学の力というものは捨てたものではないと思う。
・P181「新たな生き方の発見」
→ このこと自体も、人間関係のなかで、常に出てくる2つの面。
ある人と関わりをもったら、その人に依存したいという思いと、
その人から自立したいという思いを持つのは当然。