11月 25

 「痴呆を通して人間を視る」(その2)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、4回に分けて、掲載しています。本日は2回目です。

■ 本日の目次 ■

 「痴呆を通して人間を視る」(その2)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
  記録者  金沢 誠

4.各章の検討
(3)第2章の検討
(4)第4章の検討

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4.各章の検討
(3)第2章の検討

・P36「痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、
    時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往還している。
    今を過去が照らし、過去を今が彩る。」
 → これは痴呆に関わる人だけのことではない。人間ならば誰でも、
   このように生きている。

・P36「彼らにかかわる私たちは、同じ時間を共有することなどできそうにない。
    それでも、彼らには彼らの歴史があり、時間の重みがあることだけは
    忘れてはなるまい。」
 → だが、今の実際の介護の現場では、一人ひとりの後ろにある、それまでの
   人生の重さを受け止めてくれる人がいない。
   ただ、それは個人の問題ではない。特別養護老人ホームも老人保健施設も、
   スタッフの数が少なく、物理的に無理なのだ。それは行政の問題。
 → だが、本来どうあるべきかを考えた場合、目の前にいる痴呆の人には、
   その人なりの人生があり、そのすべての人生の上に、今、そこに存在
   している、ということが前提だ。

・P43「ケアには相手の心根を汲むという作業が何よりまして大切である。」
 → これはケアに限らない。人間が、人と関わる時には当然のこと。
   ただ、痴呆の場合には、このことがより重要になる。

・P45「痴呆のケアにあたる者は、痴呆を生きるということの悲惨を見据える
    目をもたねばならない。しかし、その悲惨を突き抜けて希望に至る道
    をも見いださねばならない。」
 → 悲惨を見つめることはきつい。しかし、そこから目をそらしては、
   希望に至る道は見えないはず。これは痴呆を病む人だけのことではない。
   人間は、関係性のなかにしか生きられない。どういう人間と、どういう
   関係をもって、生きていくことができるかということによって、
   その人間が、幸せになれるかどうかが決まる。そのことが、
   痴呆になることで増幅されるにすぎない。

・P48「罪の意識」 
 → 罪の意識で、妻の介護をするような人生を生きてきた男は情けない。
   現在の高齢者が、このようになることは、社会的に仕方ない面がある。
   だが、今の若い人が、こうなったら、すべて自己責任。

・P50「生きるエネルギーが衰えていく」
 → 精神科の医者は、すぐに薬で抑え込もうとする。それは生きる
   エネルギーを奪う。薬によって病気を抑えようという発想が正しいのか。
   正しくないことは明らか。
   しかし実際の治療の現場では、薬で抑え込もうとする。

・P52「『かわいいー』とはやし立てる」
 → 怒りを覚える。相手を人間として見ていない。介護の現場のスタッフの
   なかにおかしい人がいることは事実。その場合には、その都度、
   その当人や責任者に、おかしいと批判しつづけなければならない。
   そうしなければ現場は一歩も変わらない。

・P54「聖なるもの」
 → ここまで突き進むことができるかどうかが問題。

・P61「どんな悲惨な状況にあっても、いや悲惨だからこそ、ひととひととの
    つながりが『幸せ』を招き寄せる、と信じたい。」
 → こういう信念がなかったら、この厳しい現実のなかで、やっていけない。

・P69「しかし、耕の誠実は耕自身を確かに救ったが、彼女を救うまでには
    至らなかったのかもしれない。」
 → この著者は、こういう所で感傷的にならない。最終的な判断は、
   読者に委ねて、読者みずからが考えて、答えを出す以外にはない、と
   突き放す。

(4)第4章の検討

・P158 
 → 認知症の人が、このような表現活動、知的活動を続けることができて
   いる稀有な例。
   なぜそれが可能なのか。そばに完全にサポートしてくれる人がいるから。
   それがなかったら不可能。逆に言えば、そういう人がいると、かなりの
   ことができるということ。

・P161「記憶障害があれば痴呆か」
 → 記憶障害自体は、他にもたくさんある。だが、それらと認知症の
   記憶障害とは何が違うのか、という問い。
 → その答え。記憶障害それ自体が認知症ではない。記憶障害であると
   いうことに対する無関心、さらに、それの否定という所まで行くと
   認知症ということになる。

・P165「見当識障害」
 → だれでも迷子になる。そのことと認知症の見当識障害とはどう
   違うのか。その答え。人に助けを求めることができるかどうか。 
 → 人に助けを求めることができるということは、自分の力では解決できない
   という自覚があるということ。その時に「助けてください」と
   言わなければならない。
 → 認知症の人は、自分が迷子になっているということ自体は、かすかに
   分かっている。だが、何とかしなければいけないという自覚が弱い。
   さらに、その自覚はあっても、人に助けてもらわないと自分ではもう
   解決できないということが分からない。だから助けを求められない。

 → これは認知症に特有のことではない。実はすべての人間に言えること。
   自分が行き詰っているのに、それが認められない。なんとかなると
   思っている。自分の変なプライドがあり、人に「助けてください」
   などと、みっともないことは言えないと思っている。
   ここで問題になっていることは、人間の本質的な問題そのもの。
   これは認知症だから出てくる問題ではなく、人間すべての問題。
   それが認知症のなかに、非常にはっきり表れてくるだけ。

・P168「定常的スケジュール」
 → 人間は、こつこつ地味に努力して生きていく以外にはない。
   ある日、突然、何かすごい変化が起こるなどということはない。
   ただ、毎日の地味な努力の積み重ねがあるだけ。

・P169「実行機能の障害」
 → これは人間すべてにとって難しい。自分が間違っているということを、
   自分で認めることはつらい。だから、ほとんどの人は、できるだけ見ない
   ようにして、ごまかす。
 → 痴呆になって、こうした周辺症状がでるということは、もともとその人の
   生き方が、このようなものであったということ。それがより強く表れる
   というだけのこと。

 → 痴呆になっても、こうした周辺症状は出ない生き方があるということ。
   自分が間違った時には、それを認め、助けが必要な時には、人に助けを求める
   などのことをやって生きてきた人間は、こうした症状にはならないということ。
 → 人に「助けてください」と言える人が、自立した人間であるということ。
   自立している人間は、本当の意味で依存ができる。「助けてください」と
   人に言える。思い切って依存ができる人が、自立が出来ているということ。

・P174「ズレが存在する」
 → この本の著者の素晴らしい所は、このズレをなくそうとするのではなく、
   このズレを大切にしようという所。人間が現実からズレて生きていること
   自体は問題ない。むしろ、ズレがなかったら成長しない。
   問題は、このズレをどのように処理すればいいのかということ。
   痴呆の人の場合は、とりあえず妄想の形で、それを解決する。
   だが、痴呆の人だけでなく、多くの人も同じことをやっている。

・P175「うたこ だんだん ばかになる どうかたすけて」
 → これがなぜ賢い叫びと言えるのか。自分が、ばかになるということを
   自覚している人間と、実際は、ばかなのに、それを自覚していない人間と、
   どちらが、ばかなのか。
 → こういう所を読むと、詩の力というものがあると感じる。
   文学の力というものは捨てたものではないと思う。

・P181「新たな生き方の発見」
 → このこと自体も、人間関係のなかで、常に出てくる2つの面。
   ある人と関わりをもったら、その人に依存したいという思いと、
   その人から自立したいという思いを持つのは当然。

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