11月 26

 「痴呆を通して人間を視る」(その3)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、4回に分けて、掲載しています。本日は3回目です。

■ 本日の目次 ■

 「痴呆を通して人間を視る」(その3)
 7月の読書会(小沢勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
 記録者  金沢 誠

4.各章の検討
(5)第3章の検討
(6)第5章の検討

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4 各章の検討
(5)第3章の検討

・P73「それが見えないのは、私たちが見ようとしていないだけである。
    遠くからこわごわ眺めていては見えない。」
 → 見ようとしない人には何一つ見えない。

・P81「話し始めると止まることがない。」
 → 話しを聞いてくれる人がいれば話す。

 → ここでの問題は、家族という閉じた空間で起こっているということ。
   閉じた関係のなかでの解決は不可能。第三者が、中に入らないと
   解決できない。だから、外に、助けを求めなければならない。

・P82「彼らが激しい攻撃性によってこころの奥底に潜む不安と寂しさを
    覆い隠そうとしているに違いない」
 → 攻撃的な人の根本にあるのは、寂しさと不安。そもそも、なぜ攻撃的に
   ならなければいけないのか分からない。自分が壊れてしまうから攻撃的になる。

・P84「最も依存すべき相手だからこそ」
 →「実は彼らが妄想対象に依存したいというこころを秘して」いる。

・P87、88「もの盗られ妄想」
 → なぜ、ものを盗られたという妄想になるのかというと、自分が依存したいのに
   できないという感情と、ものを盗られて大切なものがなくなった時に味わう
   感情が似ているということ。感情的に近い現象として表現することで、
   自分の思いを伝えている。

・P89「喪失感こそが妄想の根底にある彼らの本質的な感情」
 → 攻撃性の方しか表には見えない。その後ろには、寂しさがある。

・P90「老いを生きる」
 → 家族や友人が死に、だんだん周りがいなくなっていく。このような喪失体験を
   重ねていく。その時に、それでも寂しくないという生き方をつくっておかないと
   いけない。

・P93「痴呆進行の加速度」
 → 痴呆に加速度がつく時に、周辺症状がたくさん表れてくる。
 → これから自分はどうなっていくのか分からないという怖さ。その人が、
   このような不安、怖さの中に生きているということを感じられる人が、
   その人のまわりに一人でもいるか、いないかでは、その人の周辺症状の表れに
   違いが出てくる。

・P103「人柄」
 →「人柄」とは、これまで生きてきた、その人の生き方のこと。

・P104「波乱万丈の人生」
 → このページで紹介されている例は、波乱万丈の人生ではない。波乱万丈の
   人生ならば、人に助けを求めるということを何度もやったはず。

・P111「女性のエネルギー」
 → 10代から高齢者まで、女性の方が圧倒的にエネルギーを持っている。

・P115「優位な立場で妻を所有することによってようやく維持される価値しか
    自分には残されていないと感じる人たちが嫉妬妄想に追いやられる。」
 → これは母親が子供に対して、子供を所有するという形で、優位な立場を
   確認することと同じ。このことも特別に、痴呆によって出てきている問題
   ではない。そもそも、こういうことが自分の存在証明になるような生き方を
   している人はどうしようもない。

・P126「漠然とした事象に一つの言葉が与えられると、本来その事象が含んでいた
   さまざまな差異が無視され、同一の事象とみられがちになる。」
 → このような指摘ができるこの著者は、他の人とレベルが違う。
   本来は、区別しなければいけないことが、一緒くたになってしまっている
   ことはとても多い。この著者はそれを区別して説明していく。

・P136「帰宅願望」
 →「帰る」は、女性で、「家に帰る」。「行く」は、男性で、「会社に行く」。
   今の日本の多くの男が「行く」という時、「会社に行く」となっているのは
   事実だと思う。「会社に行く」ではなく、自分自身のテーマがあり、
   そのテーマを解決するために、会社のチームの仲間や、そこで付き合いの
   あった相手方の所に行くならば、問題にはならない。

・P140「徘徊」
 → 付き添いの人と一緒に歩いて、疲れたから帰ってくるのではなく、一緒に
   歩いて自分の話を聞いてくれた人との関係があるから、その関係性をその間に
   作れたから、その関係のある所に、帰ってくることができる。

・P144「偽会話」という究極のコミュニケーション
 → 現象的には会話になっておらず、見せかけの交流のように見えるが、
   実際には、コミュニケーションが成立している。なぜなら、お互いの存在を
   確認しあうようなことが、そこで行われているから。こういう時には、
   話の中身はどうでもよい。コミュニケーションの究極の段階。だが、それほど
   特別なことでもない。人間と人間は、そういう所でつながる部分がある。

(6)第5章の検討

・P191「最も適応する力が衰えた時期に、最も厳しい適応が要求される」
 → もっと重要な課題は、自分が死ぬということを、最後の段階で、一人ひとりが
   やらなければいけないということ。最も適応する力が衰えた時に、死に向かって、
   自分で、一つ一つやっていかなければいけない。

・P198「急がず時間をかけて、繰り返し繰り返し語られる彼らの言葉を、
   こころをこめて聴く」
 → 相手に語ってもらって、それを聞くことが大切。
 → こういうことを施設の人に期待することはできない。自分でやらなければ
   いけない。ただ、痴呆になってからでは遅い。

・P199「ストーリーの真偽」
 → この場合のストーリーは本当なのか、という場合の「本当」とはどういう意味か。
   その話が客観的な事実と一致していなくても、その人が実際にそれを支えとして
   生きているということが大事。

・P209「ズレとギャップ」
 → ギャップを無くそうとするのは間違い。ギャップがなかったら成長しない。
   ただ、ギャップがあるから絶えず苦しい。でも、それを引き受けるしかない。
   そのギャップが、自分の生きる原動力になっていくような生き方をしたい。

・P211「障害受容論」
 → いきなり第5段階の受容にはいかないということ。一人一人が違うプロセスで、
   最後に向かって、一歩、一歩、歩いていくしかない。

 → これは死の問題だけでなく、人間が成長できるかどうかという問題。
   自分の弱さ、能力の低さ、勇気や覚悟のなさ、などのことを受け入れない限り、
   成長はない。ところが、多くの人は受け入れない。自分のなかで自分と
   取引きをして、あの手この手で認めようとしない。人に「助けてください」
   と言えない。だから先に進むことができない。

・P217
 → 最後の時間を、誰とどのように過ごしたかということが、その人が死を
   受け入れることができるかどうかを決め、また、その人とともにいた人も、
   その人の死を受け入れることができるかどうかを決める。つまり、個人の
   問題ではない。人は関係のなかに生まれてきて、関係の中で死んで行く。
   だから、そのような関係のないなかで、一人で死んで行く、というのは
   非常につらい死に方だと思う。

 → 受容は一人ではできない。それが一人でできる人は普通ではない。だから、
   どういう関係のなかで、ある人の死を受け入れるか、どういう関係の中で、
   自分が死んで行くのか、ということ。これならば普通の人にもできる。
   信仰は、その相手を神に求める。

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