5月 10

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾 →本日5月10日
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方

                                          
5.名詞が抱え込んだ矛盾

「名詞とは何か」についての関口の考えがまとまっているのは『不定冠詞』182?186ページだ。それをもとに、私流に説明する。

(1)世界は運動し流動している。しかし、それをそのままにとらえることはできない。動いている世界を、物として静止させ、物化し固定化してとらえたのが名詞である。
「本来は流動的であり融通的であるはずの達意(「世界」と受け止めたい。中井)をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。
(2)運動を静止したものとしてとらえるのは、矛盾である。だから名詞は矛盾の塊だ。
名詞は一方では運動そのものを内に含みこみながら、それを強引に閉じ込めている容器のようなものだ。原子炉をイメージするといいと思う。内部では核分裂が激しくおこっているが、その放射能が外に出ないように押し込めようとしている。それには相当の無理があり、爆発、暴発も起こる。
(3)名詞は、運動するものを固定化するという矛盾そのものだ。そこで、名詞は実際にはさまざまな運動を引き起こす。そこに、さまざまなニュアンス(「含み」)や表情が生まれ、そのニュアンス(意局)を直接に表に現すのが冠詞なのだ。
(4)冠詞は冠詞そのものに機能があると言うよりも、名詞の運動の結果として生れた機能なのだ。これは日本語では「テニヲハ」の助詞である。
(5)名詞の矛盾は運動を生む。それは第1に、名詞の分裂と統合、つまり判断であり、関口が定冠詞論で説明しているようなさまざまな主述関係の伏在する関係を作り出す。
(6)この名詞の分裂と統合の運動から、名詞の格、語尾変化。冠詞、前置詞などの他の品詞。動詞、形容詞などは、その変化をも生み出す。文も、複文も名詞から生まれる。
  (名詞の分裂と統合の運動から動詞が生まれたことについては、別稿「判断の『ある』と存在の『ある』との関係」を参照されたし)
(7)言葉の始まりは名詞であり、名詞からすべてが生まれたのだ。

関口が人生の最後に総力を挙げて取り組んだのが冠詞論だったことの意味は重いと思う。関口がやっているのは事実上の名詞論だ。しかし名詞を名詞としてとりあげて、いくらいじくりまわしても名詞の本質は見えない。その本質は文における他の語句との関係に現れ、その関係(関口のいう語局)を端的に示すのが冠詞だ。だから関口は冠詞論によって、名詞の本質に迫ろうとしたのだ。

関口と私との大きな違いは以下だ。
関口自身は、人間の認識と対象世界の区別をしない。したがって関口自身は、世界の流動性ではなく、言語表現の流動性に着目し、名詞以外のすべての品詞が流動し、流動の達意を表現する、ととらえる。その中に「ただ一つ流動しないものが言語の中にある。流れに押されて動きはするが、それ自体は流動せず、万象流転の言語現象に抗するかのごとく、固く結んで解けず、凝として凍って流れず」。それが名詞だという。「本来は流動的であり融通的であるはずの達意をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。
私は、対象世界を人間の思考でとらえた(反映させた)のが認識の世界だと考える。したがって、世界の流動性に「抗するかのごとく、固く結んで解けず、凝として凍って流れ」ないのが名詞だと考える。「本来は流動的であり融通的であるはずの世界(中井が変えた)をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。しかし、それは矛盾だから、名詞は運動する。そして、言語表現の中では、名詞こそが運動し、その運動からすべての他の品詞、他の品詞の活動が生まれたと考える。名詞以外の他の品詞が流動するのは、名詞の矛盾と運動に、すべての根源があるのだ。

 上記の名詞についての(1)から(7)の考えを前提として、関口の定冠詞論(名詞論)の核心部分を説明しておく。 

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