私の新著『被災大学は何をしてきたか – 福島大、岩手大、東北大の光と影』 (中公新書ラクレ) が刊行されます。
3月10日発売。540ページ、1300円です。
取材開始が2011年7月。それから2年半が過ぎました。
3・11以降の福島大、岩手大、東北大の復興支援活動を報告しています。
国立大学は2004年に法人化しました。1990年代から大綱化、教養部解体、大学院重点化と矢継ぎ早の改革の嵐でした。
その改革の成否が、今回の支援活動の中で、問われたと思います。
編集部の用意した案内文は以下です。
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「地方国立大学不要論」を払拭すべく、法人化後の大学はここぞの危機で社会貢献ができるよう地域の中核的存在をめざしてきた。
震災前からの中長期の改革の流れを視野に入れながら、個々の取り組みを大学ウオッチャーが徹底取材。
活躍した人・組織の成功の理由は?
巨額の復興予算に潜む問題とは?
地方国立大学はいま何をすべ きか?
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本書は国立大学の現状と課題の報告でもありますが、
私が一番したかったことは、
3・11が明らかにした日本社会の問題が何なのかを明らかにすることです。
それを提示した最終章「リスク管理と自立 ―東日本大震災で明らかになったこと」を掲載します。
■ 目次 ■
1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」
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リスク管理と自立 ―東日本大震災で明らかになったこと
1.危機にこそ本質が見える
東日本大震災は、甚大な被害をもたらしたが、同時に、現代日本社会の問題やその本質をむき出しの形で見せてくれた。そこで、何が明らかになったのかを、最後に述べてみたい。これは日本の大学問題を考える上でも重要だが、それ以上に、私たちの社会の根源的な問題、課題を突き付けているからだ。
危機にこそ本質が見える。そして本質は、きわめてシンプルで論理的なものだ。そこから、もう一度原社会の原則、生きる上での原則を見直してみたい。
今回の大震災以降の混乱の中で露呈した諸問題は、自然災害、原発事故という、特別な危機的状況によって、明らかになった。しかし明らかになったことは、特殊な状況ゆえの特別な問題ではないと思う。こういう危機にこそ普段見えなかったものがハッキリと姿を現わす。それは以前から眼前にあったのだが、見えにくく、隠されていた。それがはっきりと露呈し、むき出しの形で見えただけのことだと思う。
それを一言でいえば、リスク管理と自立の問題だろう。それはさらに「能力」と「生き方」の問題にまで深められるし、究極的には人間観の転換、つまり「性悪説」にまで遡及しなければならないと思う。
このことをより具体的に実際に考えるには、震災後の、福島原発事故と災害医療のあり方において露わになった問題を見ていくとわかりやすい。
2.「国家」が現れた
東京電力(東電)の福島第1原発の爆発とメルトダウン、大量の放射能汚染。この事故によって明らかになったことは、私たちの社会の核心的問題である。
まず、事故後の対応の過程で「国家」が現れてきた。その象徴的な場面は、民主党政権の菅直人首相(当時)が東電本店に乗り込んで東電幹部らを恫喝したとされるシーンだろう。その後、菅政権はただちに東電本店に対策統合本部を設け、政府と東電の一体的な危機管理を図った。この過程で東電と官邸の闘争が話題になって、菅首相のリーダーシップが、政敵やマスコミによってずいぶん叩かれた。しかしそれは問題の矮小化だと私は思っていた。核心的なことは、こうした危機的状況下では「国家」しか最終責任を持つことはできないと言うことだ。そして改めて、原発推進こそが、石油危機以降の日本の国策としてのエネルギー政策だったことが浮かび上がった。
原発は日本の国策だった。しかし、それを推し進めたのは国営企業ではなく、東電などの民間の電力会社だった。この国策民営の矛盾が、事故後の危機管理を巡る混乱の中ではっきりと現れた。国(経済産業省)と東京電力の間には長く、闘争や葛藤があった。それはエリート同士の対立、反発、憎悪の「共依存関係」だったようだ。それが最後に爆発したのが、菅直人の東電本店への殴り込みの場面だったのではないか。そして、それは「国家」がなんであるかが見えた時だった。
今回のような事故ではその現場での事故対応では「死」を覚悟する必要があった。その時、「死を覚悟」せざるえない作業を人に命ずることができるのは何者なのか。民間企業なのか、国家なのか。また、そうした命令を受けるべきなのは誰なのか。それが明確に問われた。そしてそこでは、また1人、1人の「死生観」が問われたのではないか。「死」をかけても守るべきことは何か。生命よりも大切なものがあるのか。そうした問いの答えを出していない人は、「いざ」と言う時に動けなかったのではないか。
ところが、こうした視点からの報道がほとんどない。日本では長く「国家」を扱うことがタブーだった状況がある。左翼系の「進歩的文化人」は「国家主義」の右翼勢力への対抗上、また「国家の死滅」を目標にするマルクス主義の影響で、国家を問題にすること自体を封印するような面があったのではないか。また、死を直視すること自体もタブーとされてきたのではないか。
原発が国策だったということは、そこには政治家や官僚の全面的な関わりがあり、財界も関わっている。当事者である東電は、財界を代表する存在でもある。そして国民はずっと自民党政権を支持することで、、間接的に原発を支持してきた。全員がグルのような関係がそこにあった。
また、東京(中央)と福島(地方)の経済的関係も、改めて東京の人間に対してはっきりと示された。東京の人間の使用している電気は、福島県の原発から送られてきていた。今回の事故で家も故郷も仕事も失った原発の地元の人たちは、その原発の電気を使用していなかった。もちろん、中央や国、東電から「見返り」として、福島へは多額の補助金や寄付金が送られている。みながグルなのだ。「原子力ムラ」内部だけがグルなのではない。