3月 17

10のテキストへの批評  3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)

鷲田は、読者の琴線に触れる書き方ができる数少ない学者の1人である。だからフアンが多いのだろう。
このテキストでもラストの情景は、多くの読者に思い当たる場面だし、心動かされる。それが琴線に触れるのは、それが多くの人々が悩んでいる問題であり、同時にその問題への具体的で直接的な解決を示しているからだ。「こころは、みなさん自身で作ることができるのですよ!」「みなさんは、無自覚にですが、すでに正しい答えを実践しています」。それは人々を勇気づけるメッセージだ。
一方で鷲田は、そうした実際の問題解決につながらないような見方、考え方、固定観念や思考の枠組みを厳しく批判し、その虚構性を暴露する。このテキストでも、4段落がそれで、6段落でその代案を提示する。
 また、鷲田の文章は、出だしのつかみもうまい。さりげない問いによって、読者は自然に問題の核心部分につれられていく。
 以上、そのすぐれた特質について述べたが、私には不満もある。鷲田の処方箋は、無意味な固定観念を壊し、誰もがやっていることに対して「それでいいのだ」と励ますところに力点がある。しかし、問題のより深い意味を明らかにし、より上のレベルの解決策を示すことにはなっていない。それは「臨床哲学」と「哲学」を標榜しながら、問題の論理的なおさえ方が弱いせいだと思う。
本テキストでも論理的にはあいまいな点があり、構成らしき構成はない。そのために、やさしく書かれてはいるが、実はとても分かりにくい。たとえば「こころがあると思うか」「こころを見たことがあるか」「こころはどこにあるか」と3つの問いが提示されるが、この3つをどう関係させているのかがわからない。
本当は、「こころがあると思うか」と「こころはどこにあるか」はこころの存在論の問いであり、「こころを見たことがあるか」はこころの認識論の問いであり、両者は対立しながら結びついている。こころが持つその2つの側面はどう区別され、どう関係しているのか。それがわかりやすく示されなければ、本当の理解には到達できないと思う。

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