4月 01

2013年に中井ゼミで考えたこと その6

5 表現の的確さと人格の尊厳

    相互批判の中で、ある人の言動に対して、「気持ちが悪い」というコメントがあった。
   具体的な説明は避けるが、その場合、それは感覚的には的確な表現だったと思う。しかし
   「気持ちが悪い」と言われた側は「傷つく」だろう。

    「オカシナ点がある」といえば、穏やかだが、的確さでは、はるかに劣る。
   いじめなどで、加害者が被害者に「キモい」という表現が使われるらしい。これも、
   発言者の印象を伝えるには、実に的確だと感じているのではないだろうか。しかし
   そう言われた側は傷つくことだろう。

    感覚や感情を表現することを避けるのは、それが人格の尊厳性を侵しかねないことを
   恐れるからだ。
   「なじむ」という表現も出てきた。これも発言者には一番自分の気持ちにふさわしい表現
   だったのかも知れない。でもこの表現は、それこそ気持ちが悪い。

    認識の始まりが感覚や感情であることを認めるならば、それを的確にとらえることが
   重要なことはすぐにわかるだろう。感覚や感情はただ表出されればいいのではなく、
   できるだけ的確に表現することが必要なのだ。だから、そうした表現を許しあうしかない。
   しかしそれを認めるのは「始まり」としてはそこから始めるしかないからで、そこに
   止まっていてはならない。その感覚や感情が引き起こされた意味・「含み」を思考によって
   言語化することが重要だろう。その過程で他者理解や自己理解がいっそう進むからだ。

    こうした過程では、互いに「傷つけあう」ようなことも確かに起こる。もちろん、
   目的は「傷つけあう」ことではなく、他者理解と自己理解、相互理解の深化にある。
   しかしそれへの過程としては、間隔や感情の表明は避けて通れない。だから、
   「傷つけあう」ことを互いに許しあい、引き受けあうべきだと思う。

    ただし、これが可能な場には条件がある。
   相互に最低限の信頼関係があることだ。それは私のゼミでは同じ人を先生としていることから、
   つまり自分の成長のために努力しているという「仲間」であることから生まれるものだ。
   そして、その前提の上に、確実に相互理解が進むと言う成果が積み重ねられることが条件だ。
   ただの「傷つけあい」に終わることが続くなら、その場からみながいなくなるだろう。
    つまり最後の保障はトップの力量である。
                                      

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