7月 06

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

  ■ 全体の目次 ■

  【1】【2】段落 →ここまで本日に掲載
  【3】【4】【5】段落 →ここまで明日7日に掲載
  【9】【10】【11】【19】【21】段落 →ここまで明後日8日に掲載

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  ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その1)
 
   【1】【2】段落

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 第一節 労働過程

 【1】 労働力〔という商品の使用価値〕の使用が労働そのものなのである(1)。
    労働力の買い手〔資本家〕は、労働力の売り手〔賃金労働者〕に労働をさせること
    によって、労働力を消費(2)する。このことによって、労働力の売り手
    〔賃金労働者〕は、それ以前にはただ可能性として労働力、労働者(3)
    だったのだが、それが現実に活動している労働力、労働者(3)になるのだ。
    賃金労働者が〔自らの〕労働を商品にするためには、それをなによりもまず
    使用価値に、〔人間の〕何らかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に
    表わさなければならない。しかし、労働者がどんな特殊な使用価値、
    どんな品物を作るかを決めるのは、資本家であって賃金労働者ではない。
    〔しかし〕〔このように資本主義社会での〕使用価値または財貨の生産は、
    資本家のために資本家の監督のもとで行なわれるのだが、そのことによって
    使用価値の生産はその一般的な性質(4)を変えることはない。それゆえ、
    労働過程はさしあたっては、どんな特定の社会的形態〔たとえば資本主義社会でも〕
    からも独立して(5)、考察されなければならないのである。

 ◇注釈
 (1)労働と労働力を区別し、その両者の関係をこのように定式化するまでには、
    何十年にもわたるマルクスの研鑽があった。
 (2)「消費」と「使用」は同じ。マルクスはこの後で「消費」と「生産」が
    一体であることを説明する。
 (3)この可能性から現実性への発展を見ていくのが、ヘーゲルの「現実性」論だが、
    マルクスはそれをそのまま踏襲する。これは本来は実体に反省するため。
 (4)このように時代に無関係に、すべての時代の根底にあるものとして
   「一般的」ととらえるのは、ヘーゲルのいう「外的反省」の立場で、低い。
    マルクスはこう言いながらも、次の2段落(注の11,注の18)などで、
    繰り返し資本主義社会での特殊例を出す。これは、もともと、マルクスの
    この切り捨て方が無理だったからなのだ。
 (5)注4と同じで、「独立して」はダメ。

 【2】 労働は、まずは人間と自然とのあいだの過程である。この過程で
    人間は自分と自然との物質代謝を、自分自身の行為によって媒介し、
    規制し、制御するのである。人間は、自然素材(6)にたいして
    自分自身をもまた自然力(6)として相対する。〔つまり〕
    その自然力とは人間の肉体にそなわったもので、腕や脚、頭や手(7)
    の持つ能力である。人間はそれらを働かせることによって、
    自然素材を、自分自身の生活のために使用されうる形態にしてわがものとする。
    人間は、それらの能力を動かすことによって自分の外の自然に働きかけて
    それを変化させる(8)が、それだけではなく、同時に自分自身の自然〔天性〕
    を変化させる(8)のだ。人間は、自分自身の自然のうちに眠っている
    可能性を〔能力にまで〕発展(9)させ、その能力の発揮〔労働〕(9)
    を自分のコントロール下に置く。

     ここでは、労働の最初の形態、つまり動物が本能的に行う労働は
    問題にしない。《労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に
    現われるという状態に対しては、人間労働がまだその最初の本能的な
    形態から抜け出ていなかった状態は、太古的背景のなかに押しやられて
    いるのである。》(11)われわれは、〔動物ではなく〕ただ人間だけが
    行うような労働をここで考えよう。〔たとえば〕くもは、織匠にも似た作業を
    するし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。
    しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているのだ。
    なぜならば、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いている(12)
    からである。労働過程の終わり(12)に出てくる結果とは、労働の始め
    (12)にすでに労働者(13)の心像のなかにあった、つまり観念的には
    すでに存在していた(14)のである。労働者は、自然的なものの形態変化を
    ひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の
   〔観念的な〕目的を現実のものとする(15)のである。その目的は彼が
    知っているものであり、自らの行動の仕方を規定する掟として、
    自分の意志を従わせなければならない(16)のである。

     そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。
    労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志(17)が
    労働の継続期間全体にわたって必要である。《しかも、それは、労働がそれ自身の
    内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、
    したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的話力の自由な営みとして
    享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。》(18)

 ◇注釈
 (6) これは唯物論。自然を人間が変革できるのは、人間が自然と同じ物質としての
     側面を持つからだ。
 (7) これも唯物論。頭(脳)を特別扱いせず、肉体としてとらえる。しかし頭と手を
     並べることで、「手が物をつかむ」ことが1つ上のレベルに止揚したものが
    「頭が観念をつかむ」ことを暗示している。両者を同一としながらも、発展的な
     とらえ方にもなっている。
 (8) 人間の自然に対する労働は、自然を変え、人間自身を変える。この両面を
     おさえるのが、マルクスの圧倒的に優れた点。
 (9) 可能性から現実性へ。人間の肉体面の能力もそうだし、言葉の獲得などの思考や
     精神面もそう。感情や感性面の表現もそう。集団形成や組織的行動もそう。
 (10)牧野紀之の「素質・能力・実践」で説明された「素質」→「能力」→「実行」
     を思わせる。
 (11)この文は資本主義の説明で、ここでは不要なはず。
 (12)「始め」と「終わり」の同一性が目的論の核心。
 (13)人間論のはずが、直前の資本家と労働者の話に引きずられ、ここから「人間」
     ではなく「労働者」が主語になってしまう。「資本家」は労働していないかの
     ような仮象を与えている。
 (14)当たり前だが、マルクスは「観念」を否定していない。
 (15)観念と現実。可能性と現実化である。
 (16)こうした側面を見ているのが、さすがマルクスである。
     人間は自分勝手な目的実現をめざすことはできるが、本気でそれを
     実現するためには、その目的を実現するために必要なこと(それは
    「掟」であり客観的なものだ)に自分もまた従うしかないのだ。
      一方的に自分の恣意を他者に押し付けるだけでは事は済まない。
     人間は目的を他者や自然に押し付けるのだが、同じ目的にその人間自身も
     また従うしかないのだ。そのために、人間は自分自身をも変えていく
     (成長する)しかない。ここに、人間の概念、自然の概念がちらっと顔を
     のぞかせる。
      ここの掟(Gesetz)が自覚され、蓄積されて、「学問」「科学技術」
     として体系化されていき、自然科学や社会科学となった。
 (17)目的=合目的的意志
 (18)この文は資本主義の説明で、ここでは不要なはず。

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