7月 07

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

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 ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その2)
                              中井 浩一
   【3】【4】【5】段落

  ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
   〔 〕は私の補足や語句の説明。

  ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
  ・(1)(2)などは私の注釈の番号

  ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
   私が判断した箇所に入れた。

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  第一節 労働過程

 【3】 労働過程の単純な諸契機には〔3要素がある。それは〕、合目的的な
    活動または労働そのもの(19)と労働対象(19)と労働手段(19)である。

 ◇注釈
 (19)この3つの出し方は内在的なものではなく、外的で機械的で悟性的なもの。
     この3つしかないことは、どこにも証明されていない。

 【4】 人間のための食料や生活手段として最初から完成したものを用意
    しているから、この大地(経済的には水もそれに含まれる)は、
    人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象(20)として
    存在する。自然界によって与えられたすべての物は、労働によって
    ただ大地との直接的な結びつきから引き離される(21)だけで、
    労働対象となる。たとえば、魚はその生活環境である水から引き離されて
    捕えられ、木は原始林から伐り倒され、鉱石は鉱脈から掘り出される。
    これに反して、労働対象(21)で、それ自体がすでに過去の労働によって
    いわば濾過されているならば、われわれはそれを原料(21)と呼ぶ。
    たとえば、すでに掘り出された鉱石が洗鉱されたならば、それが原料である。
    すべての原料は労働対象であるが、すべての労働対象は原料であるとは
    かぎらない。〔なぜならば〕労働対象が原料であるのは、ただ、すでに
    それが労働によって媒介されて変化を受けている場合だけ〔だから〕である。

 ◇注釈
 (20)この「一般的」と言う用語がわからない。本来は、人間が自らの対象
     である自然を労働手段と労働対象に分裂させ、特殊化する、と展開する
     べきだった。
 (21)この原料(労働による)と労働によらない労働対象の区別にどういう意味が
     あるのかわからない。「引き離す」こと自体も「労働」ではないか。

 【5】 労働手段とは物またはいろいろな物の複合体(22)であり、
    労働者(23)はそれを自分と労働対象とのあいだに入れて対象に
    働きかけるのである(24)。労働者は、労働手段としてのいろいろな物の
    機械的、物理的、化学的な性質を利用して、自らの目的が達成できるように、
    他のいろいろな物(生産対象)にたいする人間の労働を伝える手段とする。
    労働者が直接に支配できる対象は、労働対象ではなく、労働手段である
   (25)。ただし、生活手段として完成しているもの、たとえば果実などの
    つかみどりでは、人間自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつ
    のであるが、このような場合は別である。こうして、自然的なものが
    それ自身〔労働手段として〕人間の活動の器官(26)になる。
    その器官を彼は、聖書の言葉にもかかわらず、彼自身の肉体器官に
    つけ加えて、彼の自然の姿を引き伸ばす(27)のである。
    大地は人間にとっての根源的な食料倉庫であるが、同様にまた
    人間の労働手段の根源的な武器庫(28)でもある。それは、たとえば
    石を供給するが、人間はそれを投げたり、こすったり、圧したり、
    切ったりするのに使う。《大地はそれ自体一つの労働手段ではあるが、
    それが農業で労働手段として役だっためには、さらに一連の他の労働手段と
    すでに比較的高度に発達した労働力とを前提する》。(29)
    およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された
    労働手段を必要(30)とする。最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具
   (31)や石製の武器(31)が見出される。加工された石や木や骨や貝がら
    といった〔無生物〕(31)のほかに、人類史の発端でも、すでに労働に
    よって変えられた、つまり馴らされ、飼育された動物(31)が、
    労働手段として主要な役割を演じている。労働手段の使用や創造(32)は、
    萌芽としてはすでにいくつかの動物も行なうことだとはいえ、それは
    人間特有の労働過程を特徴づける(32)ものであり、それだからこそ、
    フランクリンも人間を道具を作る動物だと定義(33)しているのである。

     死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと
    同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の
    遺物がもっている(34)。何がつくられるか〔労働対象と成果〕ではなく、
    どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を
    区別する(35)。労働手段は、人間の労働力(36)の発達の測度器である
    だけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係(37)の
    表示器でもあるのだ。

     労働手段そのもののうちでも、全体として生産の骨格・筋肉系統と
    呼ぶことのできる機械的労働手段は、ただ労働対象の容器として役だつだけで
    その全体をまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことのできるような労働手段、
    たとえば管や槽や寵や壷などに比べて、一つの社会的生産時代のはるかに
    より決定的な特徴を示している。容器としての労働手段は、化学工業で
    はじめて重要な役割を演ずるのである(38)。

 ◇注釈
 (22)あくまでも物質である。しかし、後で「動物」も労働手段となることが
     指摘される。
 (23)注の13で指摘したが、「人間」ではなく「労働者」を主語にしている。
 (24)わかりやすい「媒介」。3項からなる。しかし、これは労働過程の3項を
     前提とした説明方法で、内在的な説明にはなっていない。
 (25)人間は、直接に支配できる対象にしか関わることができない。それが道具である。
     だから重要なのは道具なのだ。しかし、何が労働対象で、何が労働手段なのかは、
     固定的に決まらない。
     問題は、人間が直接に働きかけることができる対象と、その対象を媒介として
     間接的に働きかけるしかできない対象とに区別されると言うことだ。そして、
     道具は次々と拡大していく。
 (26)この指摘はさすがである。道具は人間の手足の延長だと言うのだ。
     人間は科学技術と機械力を生み出し、産業を発展させてきた。これはすべて、
     人間の肉体の延長だと言うのだ。大きく言えば、これは大地全体(この地球の
     総体)のすべてが人間化したということだ。これは逆に言えば、人間の
     すべてが自然化したということでもある。
     そしてここから出てくる人間の使命とは何か。人間は自然の真理であり、
     自然を完成することがその使命なのだ。
 (27)前とこことで、労働手段は人間の肉体の延長だとする。
 (28)これが一般的労働対象から労働手段が分裂することのマルクスの叙述である。
 (29)これは傍流で補注の位置づけ。こういう傍流を入れまくるのが、マルクスの
     悪い癖だ。
 (30)労働手段(道具)の開発と、思考(目的意識)と、人間社会の成立とは
     同時なのである。
 (31)無生物の道具だけではなく、生物をも道具にする。人間を道具にしたのが
     奴隷だが、人間は人間(自分も含む)をも手段にする。資本家は労働者を、
     否、資本家たちをも道具にしている。ここから「生産関係」の話をするべき。
 (32)「労働手段の使用や創造」ができるかどうかが、猿と人間を分ける
 (33)人間と他の動物との違い
 (34)その社会の発展段階を決めるのは生産力であり、それは道具の威力に
     他ならないのだ。マルクスの凄みがここにある。石器時代、青銅器時代、
     鉄器時代といった区分が想定されている。
 (35)重要なのは生産物ではなく、それを生み出した労働手段(道具)だと
     いうのだ。それは正しいが、それだけを言うのは一面的だろう。
     最終的にはやはり生産物こそが重要で、それがその社会を決める。
     それは「何を」(what)と「どのように」(how)で、重要なのは
     最終的には「何を」(what)だということだ。手段は目的に従属するからだ。
 (36)ここと次の注が、マルクスが唯物史観らしきことを述べた唯一の箇所。
     唯物史観の生産力は道具の威力。
 (37)唯物史観の生産関係を規定するのは生産力。ただし、どういう関係で
     こう言えるのかは説明されていない。
 (38)この段落も、傍流的ではないだろうか。本来は、注36、注37で
     説明した内容を、くわしく展開するべきだった。それをしないで、
     枝葉末節の話に流れてしまう。これはマルクスの叙述の大きな問題だ。

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