昨年の秋から今年の春まで、アダム・スミス著『国富論』とその関連の書物を読んだ。
そのための読書会は5回行った。準備として高島善哉著『アダム・スミス』(岩波新書)を読み、
『国富論』は3回かけて通読した。そして最後にまとめとして、マルクス著『剰余価値学説史』から
アダム・スミス論(第3章と第4章)を読んだ。学ぶことが多かった。それをまとめる。
なお、『国富論』のテキストには中公文庫版を使用した。訳注に共同研究の成果が出ており、
岩波文庫版と比べると、用語や訳語、スミスの叙述への批判や疑問が率直に表明されている点を評価したからだ。
『国富論』の該当個所や引用は中公文庫版による。全部で3巻からなるが、1巻、2巻、3巻をそれぞれ
【1】、【2】、【3】とし、1巻の15ページなら【1?15】と表記した。
マルクスの『剰余価値学説史』については国民文庫版を使用した。スミスの『国富論』と区別できるように、
1巻、2巻をそれぞれ《1》、《2》とし、1巻の15ページなら《1?15》と表記した。
引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけ、中井が補った箇所は〔 〕で示した。
■ 全体の目次 ■
アダム・スミス著『国富論』から学ぶ 中井浩一 (2014年11月7日)
第1節 圧倒的な面白さ
第2節 近代の総体をとらえる
→ ここまで本日、12月1日に掲載
第3節 アダム・スミスとその時代
1.スミスの課題
2.スミスの人生
3.スミスの能力
(1)全体を見る
(2)ダイナミズム 運動を運動として
(3)「存在が意識を規定する」 唯物弁証法
→ ここまで12月2日に掲載
(4)発展的にとらえる
(5)時局問題への対応
(6)平易なわかりやすさ
→ ここまで12月3日に掲載
第4節 『国富論』の篇別構成
第5節 スミスの経済理論
(1)分業と交換
(2)「人間分子の関係、網目の法則」
(3)欲望の全肯定
→ ここまで12月4日に掲載
第6節 国家の発生から近代国家が生まれるまで
(1)狩猟採取→牧畜→農業
(2)国家の発生
(3)産業構造の発展と王権の拡大
(4)近代国家の成立
→ ここまで12月5日に掲載
第7節 歴史と先人から学ぶこと
1.「労働商品」という矛盾
2.不生産的労働と生産的労働
3.矛盾から逃げない人
4.歴史から学ぶ 過去の遺産を継承発展させる
5.工業化の時代という限界
6.「学者バカ」マルクス
→ ここまで12月6日に掲載
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■ 本日分の目次 ■
アダム・スミス著『国富論』から学ぶ (その1) 中井 浩一
第1節 圧倒的な面白さ
第2節 近代の総体をとらえる
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アダム・スミス著『国富論』から学ぶ
中井 浩一
第1節 圧倒的な面白さ
そもそも、『国富論』を読む目的は何だったか。
それはマルクスにとっての前提が何だったかを確認することだった。
マルクスの『経済学批判』や『資本論』を読みながら、マルクスが批判しながらも依拠している
アダム・スミス著『国富論』を読まないと先に行けない思いに駆られた。
それは以前からそうだったのだが、長大な『国富論』に怖気づいていた。
一方で、マルクスを読んでわかった気になっていて、読む必要がないとも思ったし、
また読んでもつまらなそうな感じがしていたのも事実だ。
しかし、マルクスを深く理解するには、スミスとマルクスのどこがどう違うのか、
スミスとの関係はどうなっており、マルクスの独自性はどこにあるのか、それらを知ることが必要に思えた。
そこで恐る恐る読んでみた。つまらなければ、また読む意味がないと思えば、
『国富論』の読書会は1回で終わりにするつもりだった。
ところが面白い。断然面白い。圧倒的に面白い。経済学書がこんなに面白いとは思わなかった。
これまで読んだ経済学書中で、文句なく一番面白かった。
それは欲望と野望に燃えるビビッドな人間たちがうごめいているからだ。彼らは出世や金儲けに奔走し、汲々としている。
それに対して、スミスは道徳やお説教を垂れることはしない。辛辣だがリアルな認識を示して見せるだけだ。
欲ボケの人間たちは、笑い、怒り、悲しみ、唸りながら、最後はスミスの示す真実を「かなわないなあ!」と受け入れるしかない。
私たちはここでリアルな物の見方や考え方を学んでいるのだ。
それは難しく言えば、マルクスの唯物弁証法、唯物史観とよく似たものだ。
しかも、それはまるでエッセイを読むような読みやすさなのだ。
専門家相手の論文調ではなく、しちめんどくさい数値や統計などもほとんど出てこない(付論とかにあるだけ)。
あきらかに読者として想定されているのは、エリートだけではなく、中産階級の大衆たち(後に資本家に成長する人たち)である。
欲ボケの人間の真実を、これほどのわかりやすさで、まるでエッセイのように書き流してみせるスミスには驚嘆する。
これに比べると、マルクスは大衆にはとても読めたものではない。
だからエンゲルスによる通俗化の作業(たとえば『空想から科学』のパンフレット作成)が必須になった。
さて、当初の問いだった、マルクスとの関係だが、
マルクスにあった重要な観点のほとんどすべてが、すでにスミスにあることを確認できた。
マルクスのオリジナルは唯一、「剰余価値」の発見だけではないか。
それは大きな一歩ではあるが、一歩でしかない。スミスの巨大さは、マルクスをほとんど飲み込むほどのものだった。
その確かな巨大さの上に、マルクスの世界は構築されている。
スミスは大きな人だな?!というのが読後感だ。そこから説明してみたいと思う。
第2節 近代の総体をとらえる
スミスは経済学の創始者である。経済学はそれまでの政治学の一分野から分離・独立したのだ。
そうした1つの学問の創始者、時代を画する思想の創始者、そうした人には大きく豊かなものがあるに決まっている。
アリストテレスしかり、ヘーゲルしかり、マルクスしかり、関口存男しかりだ。
そうした大きさ、豊かさを実感しておくことは必要だ。それで初めて「小ささ」「貧弱さ」を理解できるからだ。
しかし、スミスの大きさは単なる創始者としてのものだけではない。
その「大きさ」は何よりも、スミスが向き合っている近代社会そのものの大きさから生まれている。
スミスの凄みとは、近代社会をその根底でとらえている点であり、彼の大きさとは、その近代の大きさそのものだ。
近代は、西欧世界が海外に進出し、その植民地を世界中に拡大して世界が一つになるまでになった時に始まる。
それが可能だった原因は、その経済力にあり、それは全世界を支配できるほどに巨大化していた。
人間の欲望をかぎりなく拡大していけた時代であり、
経済力が政治から文化までのすべての分野を動かす原動力になった初めての時代である。
しかし、一方では対立や闘争が全世界規模に拡大した時代でもある。
国内と海外が常に1つになって運動し、たえざる動揺と混乱の危機の時代でもあった。
だからこそ、経済学の政治学からの独立が求められ、
経済中心の物の見方、しかも対立・矛盾を直視したダイナミックな見方(唯物弁証法)が生まれたのだ。
世界が一つになり、他文明との衝突を経験すれば、全体の意識と全体から見た自己相対化が始まる。
世界を支配するまでに巨大化した自己自身の意味を、歴史的に、発展的に考える発想(唯物史観)が生まれる。
その全体的な見方の上に、スミスは近代をとらえようとした。
それは近代という時代が、自らを全体的な世界として示し始め、人間の欲望が人間を突き動かし、
世界を経済が根底から動かすものになったということだ。