12月 04

アダム・スミス著『国富論』から学ぶ (その4)  中井 浩一

■ 目次 ■

第4節 『国富論』の篇別構成
第5節 スミスの経済理論
(1)分業と交換
(2)「人間分子の関係、網目の法則」
(3)欲望の全肯定

なお本稿での『国富論』の該当個所や引用は中公文庫版による。
1巻の15ページなら【1?15】と表記した。

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第4節 『国富論』の篇別構成

 『国富論』の篇別構成を考える。
 『国富論』は5つの篇からなる。それは経済学の理論、歴史、政策からなり、
それらが統一的に書かれているとする理解が、ほぼ伝統となっているらしい。
経済理論とは第1篇と第2編であり、第1篇が、資本主義社会のいわば静態的把握、
第2篇がその動態的(再生産論的)把握。第3篇は経済史。経済政策論が第4篇と第5篇で、
第4篇が海外との関係に関する経済政策(あるいは経済学史的な政策批判)、第5篇が国家の財政政策。

        ┏ 静態的把握 第1篇
┏ 経済理論 ┫           
┃      ┗ 動態的把握 第2篇

┣ 経済学史 第3篇

┃     ┏ 海外での経済政策 第4篇   
┗ 経済政策 ┫                    
       ┗ 国家の財政政策 第5篇

 確かに、こうした説明はわかりやすいし、それなりの根拠もある。
しかし、こうした理解は表面的であり、スミスとの主体的闘いをしていない人のとらえかただ。
これではスミスのすぐれた点から学び、それを発展させられないだろう。

 前半の第1篇と第2編は資本主義社会の一般的な説明だが、
後半の第3篇から第5篇までは重商主義批判なのだと思う。

 第1篇と第2編が、資本主義社会の原理的解明にあてられているのは間違いない。
問題は2つの関係である。
第1篇が、資本主義社会のいわば静態的把握、第2篇がその動態的(再生産論的)把握と言えば、
一応の説明にはなるが、それは表面的なとらえ方でしかない。
なぜなら、この2つは十分に結びついてはおらず、ズレや矛盾やほころびが目立つからだ。

 読んだ印象では、第1篇は面白く、平易で、すばらしかった。第2編は、急に難しくなり、わかりにくくなる。
第1篇は、スミスの長い間考えてきた自論であり、スミスが十分につかみきっていた内容だが、
第2編は重農主義(ケネーら)から学んで、自分の不十分な点を補おうとしているものだ。

 私は関口存男の冠詞論を思い出した。彼は「不定冠詞」論ではのびのびと面白おかしく書いているのが、
「定冠詞」論では、息苦しく、ぎくしゃくしている。
それは定冠詞こそムズカシク、そこでこそ彼が闘っていた。
スミスにとって『国富論』を書いた時点では第1篇はよく理解できていた部分で、
第2篇ではまさに悪戦苦闘していたのだろう。

 スミスが実際に闘っていたのは、当時の重商主義だった。
それと闘う上で、自分自身の理論を補強するものとして重農主義をとらえていたが、
それを十分に消化するには至らなかったのだ。
スミスは、自説と重商主義と重農主義の3者の関係を、十分には整理できないままで終わっている。

 それが後半の第3篇から第5篇までの叙述にも影響している。この3つの篇の展開はわかりにくい。
スミスとしては、第1篇と第2篇で、資本主義社会の一般法則を説明したので、
次には彼の重商主義との闘いの現場に、読者を招待しようとしたのだと思う。それが第4篇である。
その中心がアメリカの独立運動への対応で、それが当時のイギリスにとっての最大の問題だった。
その危機は重商主義的な政策のためにもたらされたものだったから、
その徹底的な批判をし、それにスミスの代案を対置している。

 しかしスミスはいきなり重商主義批判を展開しない。
その前に、重商主義と重農主義(スミスの側)を、西欧社会での都市と農村との葛藤の歴史からとらえようとする。
それを第4篇への序章としてその前に置いたのが第3篇だ。
したがって第4篇では重農主義への言及はほとんどなく、もうしわけ程度に最終章に出すだけだ
(第2篇が重農主義に依拠したものだから第4篇では重農主義への言及が少ない、という中公文庫版の説明は表面的だ)。
第5篇は国家財政の問題を説明しているが、その観点こそが、スミスのアメリカ独立容認論の根拠だから、
第4篇の背景説明でもある。

 以上がこの5つの篇の関係である。つまり、大きく言えば、前半は資本主義社会の一般的説明で、
後半が重商主義批判なのだ。ただしそれを西欧社会の発展の総括として行おうとしている。
ここにスミスの大きさがある。

第5節 スミスの経済理論

 資本主義経済についてのスミスの一般理論は第1篇と第2篇に書かれている。

 第1篇はスミスの経済理論の核心だ。スミスにとって富とは生活必需品(消費財)であり、
富をもたらすのは労働である(労働価値説)。第1篇は、前半で生産の面を取り上げ、後半で分配の面を展開する。

 前半では、富を増やすには労働生産性を高めることが核心であり、そのためには交換と分業が増大する必要があり、
そのためには公正な市場原理が貫徹される必要があることが示される(1章から3章)。
つぎに貨幣論(4章)で商品の交換過程(利潤の実現過程)における貨幣の役割が説かれ、
労働価値論(5章から7章)で、商品の価値を決定するのが労働量で、それが労働時間で測れるとする。

 後半の8章以下では労働生産物の分配の面を展開し、
賃金労働者、資本家、大地主という当時の社会の3大階級への分配の姿が、
それぞれ賃金、利潤、地代の順に描かれる。

 第2篇では、資本主義社会の拡大再生産が可能になるには、生産的労働の比率が増大しなければならず、
そのためにはそれを雇用する資本の蓄積がおこなわれなければならないと主張する。
そしてその蓄積のために生産的労働と不生産的労働の区別をし、前者が蓄積を生むとする。
そして、資本投下の有効性を、農業、工業、商業(貿易の)の順とする。

 この順番には重農主義に引きずられたスミスの弱さが出ている(本稿の第6節で説明する)。
 
 この第1篇は、後にマルクスによって『資本論』第1巻で展開された内容だ。
私は第1篇を読んで、マルクスにとっての基本的な枠組みがすべて出ているのに驚いた。

 価値の2面性、つまり交換価値と使用価値の矛盾(4章。【1?51】)、
労働価値説(5章。【1?53?58】)、最低賃金は労働者とその家族の生活維持費(8章。【1?116】)。

 すべての商品の中で、労働力という商品だけが、使用価値と交換価値が一致しない。
この矛盾をマルクスがどう解決したかは第7節で述べる。

 第2篇は後に、『資本論』の第2巻、第3巻になる部分だ。
第2篇の1つの論点は、生産的労働と不生産的労働の対立(3章。【1?516?518】)だが、
これについては、マルクスが『剰余価値学説史』の4章で問題にしている。これも第7節で取り上げる。

(1)分業と交換

 スミスは労働生産性を高めるために交換と分業の増大の必要を説く。
ここに、全体を構造的立体的に把握するというスミスの能力が、いかんなく発揮されている。

 スミスの「分業」という考えは、工場内の分業だけではなく、社会的な分業までを考えており、
それは国際貿易の国際分業論までを含む。
分業は人々が分かれていくことだが、その分業が可能になるのは、
他方で、交換によって全世界が1つに結びついているからだ。この両面の深いつながりをスミスは理解している。

 「たとえば、農村の日雇労働者が着ている毛織物の上衣は、見た目には粗末であっても、
非常に多数の職人の結合労働の生産物なのである。この質素な生産物でさえ、それを完成するためには、
牧羊者、羊毛の選別工、梳毛工または擦毛工、染色工、あら梳き工、紡績工、織布工、縮絨工、仕上工、
その他多くの人たちがすべて、そのさまざまな技術を結合しなければならない。そればかりか、
これらの職人のうちのある者から、しばしばその国の非常に遠隔な地方に住んでいる他の職人たちのところへ
原料を輸送するのに、いったいどれほど多くの商人と運送人が従事しなければならなかったことであろうか!
染色工が使ったさまざまな薬剤(それは、しばしば世界の果ての地方からやってくるが)を寄せ集めるために、
どれだけ多くの商業と航海業が、またどれほど多くの造船工、水夫、製帆工、ロープ製造人が
その仕事に従事しなければならなかったことであろうか!」【1?21】。

 また分業は社会的生産力を高めるだけではなく、個人の能力向上をうながすこと。
この両者は1つであることも、把握している。

 「〔分業によって〕人はだれでも特定の職業に専念するように促される。
またその特定の業務にたいしてもっている才能や天分がなんであれ、
それを育成し完成させるように力づけられるのである。人それぞれの生れつきの才能の違いは、
われわれが気づいているよりも、実際はずっと小さい。天分の差異は、多くの場合、
分業の原因だというよりもむしろその結果なのである」【1?28】。

 分業の効用を説く一方で、分業の弊害、マイナス面についても強調しているのがスミスらしい。
分業による単純労働(賃金労働)が労働者(賃金労働者)を必ず堕落させるというのだ。

 「分業の発達とともに、労働で生活する人々の圧倒的部分、つまり国民大衆〔つまり、賃金労働者〕
のつく仕事は、少数の、しばしば一つか二つの〈ごく単純な作業〉に限定されてしまうようになる」。
すると「さまざまの困難を取り除く手だてを見つけようと、努めて理解力を働かせたり工夫を凝らしたり
する機会がない」。「こういうわけで、かれは自然にこうした努力をする習慣を失い、たいていは
神の創り給うた人間として〈なり下れるかぎり愚かになり、無知になる〉」。「淀んだようなかれの生活は
十年一日のごとく単調だから、自然に〈勇敢な精神〉も朽ちてしまい、そこで、不規則不安定で
〈冒険的な兵士の生活〉を嫌悪の眼で見るようになる。単調な生活は、かれの肉体的な活力さえも腐らせてしまい、
それまで仕込まれてきた仕事以外は、どんな仕事につこうと、元気よく辛抱づよく自分の力を振るうことが
できなくなってしまう。」【3?143,144】

 スミスは分業の問題として、賃労働者のことを「愚かで無知」になるといいながら、資本家は問題ないとする。

 「ある程度の地位や財産のある人たちが生涯の大部分を過ごす職業〔つまり資本家〕も、
庶民の職業のように単純で千篇一律のものではない。そのほとんどどれもが、極度に複雑で、
手よりは頭を使うといったものである。だから、こういう職業についている人々の理解力が、
〈使い方が足りないために呆けてくるなどということは、まずありえない〉」【3?146】。

 資本主義社会の生産力を支えるのは国民大衆であり、労働者としての彼らにとっての最低限の前提は
「読み書きそろばん」の能力である。スミスが国家による義務教育を推奨していることは有名だ。
それは貧民層には教育を受ける余裕がないことを考えてのものだ。
しかし、スミスは子ども時代の教育だけを考えているのではない。
その先の労働者としての生き方や教育が念頭にあるのだ。
スミスが問題にしているのは、最低限の「読み書きそろばん」の能力よりも、
「勇敢な精神」「冒険的な兵士」の能力、闘争心や野心や覇気だからだ。
したがって、スミスはそれが失われることを一番心配している。それが資本主義社会のエートスだからであろう。
その対極のあり方を、スミスは端的に「臆病」と呼ぶ。

 「臆病者、つまり自分の身を護ることも、仕返しすることもできないものは、明らかに、
人間としての特性の一番肝心な一面を欠いている」。「臆病にかならずふくまれている、
この種の精神的な不具、畸形、卑劣が国民大衆のあいだに拡がってゆくのを防ぐことは、
やはり政府のもっとも真剣な配慮に値しよう」【3?152】。

 しかし、スミスの視野からは資本家たちの堕落の可能性が全く抜け落ちていることがわかる。
スミスの時代にはまだ資本主義が未発達で、賃金労働者と資本家の対立はまだ顕在化していなかった。
資本主義が大きく発展すると、賃金労働者の搾取(剰余価値の収奪)の上にあぐらをかいて資本家自身も
「臆病」になっていく。それを告発するためには、もう一人の巨人マルクスを必要とした。マルクスは、
分業の弊害は賃金労働者にだけではなく、まさに資本家において現れることを示した。
そして、それゆえにマルクスは社会全体における「分業の止揚」を目標として掲げ、
賃金労働者階級の立場が資本家階級を止揚すると主張したのだった。

(2)「人間分子の関係、網目の法則」

 『国富論』で、分業と交換の関係の例に取り上げられた「毛織物の上着」。
これを読んで、私は『君たちはどう生きるか』の「人間分子の関係、網目の法則」の箇所を思い出す。

 『君たちはどう生きるか』は吉野源三郎が戦時中の中学生に向けて書いた不朽の名作。
タイトルから分かるように、これは人生読本だが、単なる道徳や倫理の本ではない。
倫理(人間の当為)を社会科学(対象の本質)と結び付けて説明する。
さらに社会科学や自然科学を少年たちの日常生活の中から説明していく。
この点で、この本は青少年が読むテキストとして模範的であり、
私も10年以上にわたって、鶏鳴学園のテキストとして使用してきた。
ちなみに、倫理と社会科学と結び付けるというのは、
存在のあり方(本質)が当為を決めるという立場であり、スミスと同じだ。

 この『君たちはどう生きるか』の3章では、主人公のコペル君がおじさんに大発見
「人間分子の関係、網目の法則」を報告する。コペル君は自分が赤ん坊のころに飲んでいた粉ミルクが
自分の手に入るまでの過程を思い浮かべて、そこにオーストラリアの「牧場や、牛や、土人や、
粉ミルクの大工場や、港や、汽船や、そのほか、あとからあとから、いろんなもの」を見出した。

 コペル君は粉ミルクが日本に来るまで、粉ミルクが日本に来てからの過程で
「数え切れないほど大勢の人とつながっている」ことを自覚し、おじさんに報告する。
「僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、
網のようにつながっているのだと思います。それで、僕は、これを『人間分子の関係、網目の法則』
ということにしました」(岩波文庫版85ページから88ページ。以下同じ)。

 おじさんは、その大発見が実はすでに社会科学で研究されていることを説明する。
「ごくごく未開の時代から、人間はお互いに協同して働いたり、分業で手分けをして働いたり、
絶えずこの働きをつづけて来た。こればかりは、よすわけにいかないからね。ところで、
人間同志のこういう関係を、学者は〈生産関係〉と呼んでいるんだ」(90ページ)。
そしてこの生産関係の歴史的推移を説明することで、唯物史観の立場からの簡単な人類史を描いて見せる。

 「これはまさしく『資本論入門』ではないか」。文庫の解説で丸山真男はこう感嘆している。

 「資本論の入門書は、どんなによくできていても、資本論の入門書であるかぎりにおいて
どうしても資本論の構成をいわば不動の前提として、それをできるだけ平易な表現に書き直す
ことに落ち着きます。つま。資本論からの演繹です。ところが、『君たちは……』の場合は、
ちょうどその逆で、あくまでコペル君のごく身近にころがっている、ありふれた事物の観察と
その経験から出発し、『ありふれた』ように見えることが、いかにありふれた見聞の次元に属さない、
複雑な社会関係とその法則の具象化であるか、ということを1段1段と十四歳の少年に得心させてゆくわけです。
一個の商品のなかに、全生産関係がいわば『封じこめられ』ている、という命題からはじまる
資本論の著名な書き出しも、実質的には同じことを言おうとしております。
れどもとっくにおなじみの『知識』になっているつもりでいた、この書き出しを、こういう仕方で
かみくだいて叙べられると、私は、自分のこれまでの理解がいかに『書物的』であり、したがって、
もののじかの観察を通さないコトバのうえの知識にすぎなかったかを、
いまさらのように思い知らされました」(313ページ)。

 丸山は吉野の方法の核心を的確に分析し、解説している。しかし、『国富論』を読んだ我々は知っている。
このコペル君の大発見は、『国富論』中の「毛織物の上着」の例【1?21,22】のパクリであること。
したがって、「人間分子の関係、網目の法則」は何よりもまず『国富論入門』なのであり、
そしてそれゆえにまた『資本論入門』にもなっているのだということを。

 さて、吉野のすごさを認める点で、私は人後に落ちるものではない。
しかし、吉野の欠点を見逃すわけにはいかない。

 倫理と社会科学とを結び付けること、つまり存在のあり方(本質)が当為を決めるという立場である点で、
吉野とスミスと同じだ。スミスは倫理学の教師からその経歴を始めているぐらいだ。この両者の立場は
「存在が意識を規定する」という唯物弁証法のものである。しかし2人の違いの大きさも明らかだ。

 おじさんは「今日、世界の遠い国と国の住民同志が、どんなに深い関係になっているか」(93ページ)
という事実から、当為を引き出す。「人間は、人間同志、地球を包んでしまうような網目をつくりあげた
とはいえ、そのつながりは、まだまだ〈本当に人間らしい関係〉になっているとはいえない。だから、
これほど人類が進歩しながら、人間同志の〈争い〉が、いまだに絶えないんだ」(97ページ)。
そしてその「本当に人間らしい関係」とは親子の愛情のような無私なものだと説明する。

 つまり人と人との深い結びつきが存在するという事実から、「本当に人間らしい関係」
=親子の愛情のような無私なものという当為を導き出すのが吉野だ。

 これに対して、同じような事実からスタートしながら、スミスは欲望の全肯定に至る。
その観点から世界の発展を見ているスミスと比較すると、吉野は実に静的である。
また、吉野が理想社会を家庭に喩えることも一面的だ。ヘーゲルは『法の哲学』で、
家族から市民社会を導出し、さらにその矛盾対立から国家を導出した。
その動的な把握との違いは明らかだろう。家庭の問題は家庭レベルでは解決できない。

(3)欲望の全肯定

 スミスは人間の欲望を全面的に肯定したが、その真意は何か。
その主張を「自由主義」「自由放任主義」と呼ぶことは適切だろうか。

 『国富論』には、欲望と野望に燃えるビビッドな人間たちがうごめいている。
その彼らをスミスはまず肯定することから始める。スミスは欲望の全肯定の立場である。
これは彼の経済理論、つまり交換と分業に発展の原動力を見る立場からの必然的な帰結である。

 「文明社会では、人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としている」
「だが、その助けを仲間の博愛心にのみ期待してみても無駄である。むしろそれよりも、
もしかれが、自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができ、
そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが、仲間白身の利益にもなるのだ
ということを、仲問に示すことができるなら、そのほうがずっと目的を達しやすい」。
つまり「私の欲しいものをください、そうすればあなたの望むこれをあげましょう」と
提案すればよいのだ(【1?25,26】。

 人間の欲望を肯定できるのは、それが他者の欲望に応えること、
つまり社会的ニーズに対応して交換できることを絶対条件とするからだ。この仕組みがあるからこそ、
社会全体がコントロールされるとスミスは見ている。ここにあるのは経済上の原則である。
しかし、それだけではない。私たちが感ずるのは、スミスの人間への深い信頼感である。
スミスは人間を絶対的に信頼している。
だから「当事者の分別に任せるべき」【1?565】と言うし、
第4篇で「見えざる手」が出てくる【2?120】。
これはヘーゲルでは「理性の狡知」にあたるだろう。

 このスミスの立場は「楽天主義」「能天気」なものではない。
スミスの静かで冷静でリアルな全体的観察の凄み、その上での人間への絶対的信頼であることが、
説得力を生んでいる。スミスは「経済通」である前に、何よりも「人間通」なのだ。

 しかし、このスミスの考えを「自由主義」「自由放任」(この言葉は一度出てくるだけである。
【2?200】)主義といった言葉でどこまで正確に表現できているかは問題である。
むしろこの用語で混乱が起きているのではないか。
これは重商主義に対してスミスの考えを対置した際の標語に過ぎない。
それを文字通りに取るのは間違いである。

 スミスは欲望の全肯定の立場で、人間への絶対的信頼の立場でもある。
しかし、それはありのままの人間の肯定でもなく、現象しているままの欲望の肯定でもない。
それは「自由放任」ではない。
スミスが国民大衆に要請する、労働の義務や「勤勉」「節約」は、いわゆる「自由」ではあるまい。
もし本当に自由放任でいいならば、そもそも彼は『国富論』を書く必要はなかった。
スミスは勃興する資本家の立場を守り、それを妨げている連中を〈規制〉するために、『国富論』を書いたのだ。

 例えば、スミスは明確に消費者の側に立ち、生産者の利益を〈規制〉しようとする。
「消費こそはいっさいの生産にとっての唯一の目標であり、かつ目的なのである。
したがって、生産者の利益は、それが消費者の利益を促進するのに必要なかぎりにおいて
配慮されるべきものである。」【2?464】。

 では「欲望の肯定」というスミスの真意は何か。
彼は、欲望の概念を展開し、それが正義と公正に到達する全過程を示そうとしたのだと思う。
つまり人間の概念を展開しようとしたのだが、「欲望」にその芽を見たのだ。
欲望の意味、その本質を全面展開すると、真の利益に到達する。

 しかし、スミスにはヘーゲルのような発展の理解がないから、答えを出せない。
重商主義の「統制(規制)」に対して「自由」を対置するだけなら悟性的だ。
ヘーゲルなら、重商主義を展開して、それが自らの限界を露呈して滅んで行き、
その結果、スミスの求める社会が現れると書くだろう。

 ちなみに、現代でも「統制(規制)」に対して「自由=規制緩和」を対置するバカたちがいるが、
こうしたバカのどこがどうバカなのかをはっきりととらえることが重要だ。

 自由と規制は本来は一体で切り離せない。
敵対する勢力があれば、他方の自由は他方の規制である。
問題は規制か自由かではなく、どの階級に対する規制と、どの階級にとっての自由かなのだ。
つまり、「規制緩和」を言うならば、どの階級と闘い、どの階級の味方をしようとしているのかを、
その理由(これが眼目!)と共に明示すべきだ。
それをきちんと説明しないで、抽象的なお題目を振りかざす連中は、「道徳」に堕したバカか、
真意を隠して目的を達成しようとする詐欺師である。

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