12月 03

アダム・スミス著『国富論』から学ぶ (その3) 中井 浩一

■ 目次 ■

第3節 アダム・スミスとその時代
3.スミスの能力
(4)発展的にとらえる
(5)時局問題への対応
(6)平易なわかりやすさ

なお本稿での『国富論』の該当個所や引用は中公文庫版による。
1巻の15ページなら【1?15】と表記した。
引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけ、中井が補った箇所は〔 〕で示した。

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第3節 アダム・スミスとその時代

3.スミスの能力

(4)発展的にとらえる 唯物史観

スミスはスコットランド学派から歴史的な発展段階という観点を学んでいる。
以前は2段階(未開の段階と近代と)だったが、3段階(狩猟採取→牧畜→農業)で考えることで、
より正確な理解が可能になる。それは経済的な発展段階であり、唯物史観に近い捉え方である。

私がかなわないな?と思ったのは、ヨーロッパ人が北アメリカを簡単に支配でき、アフリカは
できなかった理由の提示だ。スミスはアメリカのインデアンは狩猟採取段階だから抵抗力が弱く、
アフリカの原住民は牧畜段階だから抵抗力があった【2?420】と説明する。何という冷酷で、
リアルな見方だろう。

また『国富論』では、中国がアジア的停滞の例として繰り返し示される。
こうした観点はそのままマルクスに引き継がれていることが分かる。

(5)時局問題への対応

スミスの力のほどを検証するには、当時の時局的な問題への対応を考えるのがよい。
その当否の結果は我々にはわかっているからだ。
イギリスにとって当時の最大の危機とは、植民地北アメリカで起きていた独立運動だった。
そこでスミスは驚くような提案をする。
「大ブリテンは、その植民地にたいするいっさいの権力を自発的に放棄すべき」【2?387】。
スミスはアメリカの独立運動を支持したが、それはイギリス経済を破綻から救うためだった。

スミスはイギリスの財政を守る視点から、アメリカの独立を認めることを主張するのだが、
その際に未来の(私たちには現在の)アメリカとイギリスの関係を予告している。

まず、アメリカのGDP成長率の高さからアメリカがイギリスを抜いて世界を支配する国家になることを予測する。
「この帝国〔アメリカ〕こそは、かつて世界に存在したいかなる帝国よりも偉大で強力なものになるだろうと、
ひそかに思っているのだが、事実そうなる可能性はきわめて大きいのだ」【2?397】。

その予測の上に、イギリスがアメリカの下に就き、アメリカの同盟国になることを希望的未来として予測している
【2?388、389、397】。そのために、アメリカと決定的に対立しないことがイギリスにとって有利だと
主張するのだ。これらの予測が的中したことを私たちは知っている。その先見性、未来予測の正確さには舌を巻く。
当時こうした予測ができた人がどれだけいたのだろうか。

スミスは現実を無視した理想主義者ではない。リアルに考えるがゆえに、理想的な結論になることが面白い。
また、スミスは植民地を手放すことが、国民にとってどれほど辛いことかがわからない朴念仁ではない。
それが「国民の誇りを傷つける」ことを十分に理解し、その辛さを自分のこととして噛みしめる。
その上で、スミスはそうした想いと切り離して経済上の問題を考え、そこから国民を説得しようとする。

以下を読んでみてほしい。
スミスの熱い思いと、そのリアルで冷酷な認識と、光り輝く理想主義が渾然一体となったすばらしい叙述だ。

「〔自分がしたような提案は〕いまだかつて、世界のいずれの国民も採用したことがなく、
また、将来もけっして採用されることはないであろう」。「なぜなら、こうした領土を放棄することは、
国民の利益には、しばしば合致することはあるとしても、他面、つねに〈国民の誇りを傷つける〉」。
さらに、植民地によって利益を得ている国内の一部の階級、つまり商人階級は強固に反対するからである。
しかし、「もしこの種の提案が採用されるとするなら、
大ブリテンは、植民地における軍事費の平時編成の負担から直ちに全面的に解放されるばかりでなく、
母国と植民地とのあいだの自由貿易を有効に保証するような通商条約を締結することができるだろう。
こうして生ずる自由貿易は、現在の独占貿易に比べるなら、〈商人階級にとっては不利〉になるかもしれないが、
〈国民大衆にとっては、はるかに有利〉なものなのである」。【以上は2?387,8】

もちろん、国民大衆の中に資本家が現れていたのだし、
国内の消費者の利益になることがそのまま資本家階級にとっての利益であることをスミスはわかっている。
  
(6)平易なわかりやすさ

スミスの叙述のわかりやすさも尋常ではない。
もちろんエッセイのような文体が影響するが、それだけではない。やはり内容がきわめてわかりやすいのだ。
表面的なわかりやすさではない。根源からとらえているがゆえに、それはシンプルになる。

それには『国富論』が誰を読者として意識していたかが大きく関係する。同時代のエリートたち、学者や文化人、
政治家たちだけではない。小さな工場を経営する街のオッチャン達が読者なのだ。スミスは彼らに直接に呼びかけている。
「あなた方の息子さんを靴屋の徒弟に出すとしよう」【1?175】。これには驚いた。

人類の古典となった本が、街のおっちゃんたち相手に書かれていたことの意味は大きい。
『国富論』は、当時の社会で教科書として機能したのだろう。
町工場のオッチャン達が個々バラバラに無自覚に行なっていたことを、全体としてまとめて整理して示した。
それによって彼らは自己相対化をし、自分のすべきことを理解し、急速に成長できたのではないか。

以上、スミスの能力の高さを説明してきたが、ではそのスミスの限界は何で、その限界はどこに現れているだろうか。

限界とは、その能力の低さだ。相対的には圧倒的に高いのだが、絶対的には低い。
特に、発展を理性的にとらえる力が弱い。

スミスの理解力はしばしば悟性段階にとどまり、ヘーゲルやマルクスのレベルの把握力はない。
つまり止揚という理解がないため、普遍と特殊の関係の理解が一面的なのだ。
ただし、これは否定面から述べたのであって、逆に言えば、
スミスが切り開いた地平をその先に歩いたのがヘーゲルであり、さらにマルクスだというだけのことでもある。

スミスの思考力の弱さがはっきりと現れているのは、理論の展開方法、
つまり『国富論』の篇別構成や篇内部の展開にあらわれている。

それは資本社会に一般的な問題と、国家間の対立に現象している問題との区別が明確にできていないことも関係する。
それは前提の押さえの弱さでもある。

スミスの『国富論』は、近代国家を大前提とする。ところがそれが明示されない。
そのために、スミス自身が混乱している個所も多い。
「近代国家とは何か」を一度も正面から問わないでいたのは大きな問題だ。

重農主義の扱い方にも問題がある。
スミスは重商主義と闘うために、自説の不備を重農主義で補おうとしたのだが、
重農主義を十分には消化できず、自説との間にズレや矛盾やほころびが目立つ。

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