12月 31

日本語の基本構造と助詞ハ  その2

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
2. XはYである
3. デハナイ
4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
6. 否定と対比
7. おわりに

                                  

2. XはYである

表(1)から明らかなように、デハナイはデアルと対立する存在である。故に、「XはYである」という
基本文からデハナイの成立する論理を考えなければならない。かつ、「XはYである」を考えることは、
助詞ハの基本を考えることと本質的に同じである。助詞ハは名詞のもつ論理から生成すると考えるのが
本稿の立場である。まずはここから始める。

野村(2010)によれば、名詞は「?であるx」と分析される。一語の名詞の中には「述語+主語」という
判断の構造が内在化されている。野村氏によれば、文とは判断の表現であるが、そもそも、一語の名詞の
中に判断の構造が潜在的にある。この考えは、既に野村(1993)において、「一つの名詞『犬』は、ある実体
(個体であっても個体の集合であっても)を表そうという側面と、『犬性』という属性を表そうという側面
を持っている」と述べられており、この名詞の分析から助詞ノとガの意味を明らかにされている。名詞のも
つ論理から助詞の意味を考えられた点に革新的なものがあると思う。氏の名詞論に習い、以下で私は助詞ハ
について考える。

(6) 山田は大学生である。

ここにある二つの名詞について、「山田」はある存在者xを表すように感じられ、「大学生」はそのxの属性
を表すように感じられる。ところが、位置を逆にして「名前は山田である」という文にすると、この「山田」
は属性を表すものと感じられ、「大学生は欠席した」となれば、この「大学生」はある存在者を表すように感
じられる。これは、元々一つの名詞の中に、ある存在者xを表そうとする側面と、xの属性を表そうとする側面
とがあるという野村氏の名詞分析を裏付けると同時に、(6)の助詞ハの前後で名詞がその表す側面を変えるとい
うことも意味している。

名詞の中に二つの側面があるということは、名詞が一語の中に分裂と統合を孕んでいるということである。
名詞「山田」は、「山田であるx」と分析することができ、ある存在者xとその属性とが一語の中に統合された
ものである。実際、名詞「山田」は、(6)のような文中では、ある現実の存在者を指示して使われているが、
一方、名札に「山田」とあれば、それは「(この名札の持ち主は)山田」という意味で属性記述的に使われている。
では、以上のことは一体何を意味するのだろうか。名詞とは何であるか。名詞は、この現実世界が絶えず生成流転
しており、不変不動の何者とてなく、あらゆる事物が必ず他者との関係の中に存在している、その現実世界に対して、
その中に止まって動かぬ物を、それ自体で存在する個物をつかみたい、という我々の欲求と対応してある。
ところが、手で物をつかむことはできたとしても、物自体は決して認識できず、その属性を媒介にして間接的に
認識することができるだけである。なぜ、属性は捉え得るか。属性は一般者、普遍だからである。ただし、その
属性とて現実には揺れ動く諸属性、「属性の束」であるから、つかみどころがない。つかめない物をつかむため、
つかみどころのない束(諸属性)に、とりあえず付けられた名前が名詞である。だから、「犬」が何であるかを
明瞭に理解している必要もなく、我々は名詞「犬」を使う。我々は名詞「犬」から、「犬である何か」を表象する
ことができる。しかし、それはあくまで漠然とした表象として捉えられた存在者に過ぎない。だから、名詞「犬」
は無限に再分裂して、「この犬は白い」とか、「犬は哺乳類である」とかいった文を生成する。つまり、これらの文
は、名詞に内在する分裂が外に現れたものである。名詞に内在する二側面、「何か」の存在を表そうとする側面と、
その属性を表そうとする側面とが、二項として外化(表現)する。この分裂運動が判断であり、分裂した二項が主語
と述語である。(6)について言えば、この主語と述語の関係は、存在者とその属性という関係、もっと抽象化すれば、
個別と普遍である。

助詞ハは、名詞の分裂(判断)に対する意識を反映した助詞である。助詞ハがなくとも、「これ、おいしい」とか、
「あれ、鳥」とかいった形での判断の表現が可能であるように、恐らくはこうした表現が何度も繰り返される中で
助詞ハが二項の間に位置するようになったものと思われる。図式化して言えば、名詞Xが分裂して「X─Y」という
二項として外化し、その分裂を意識して生まれたのが助詞ハである。助詞ハは、名詞Xの存在者を表す側面を「Xは」
と明瞭に分離して提示し、述語と結合する。結合される述語は、名詞Xのもう一つの側面であり、(6)では属性である。
この分離と結合は、名詞の内的二面の分離であり、結合はその再統合である。単なる二項の外的結合ではないから、
助詞ハの結合力は強い 。

以上、ハは名詞の内的二分を反映して生成した助詞であるということを論じたが、助詞ハ一般について述べた以上、
触れなければならない諸問題がある。以下、三点に触れる。

第一に、「主題・題目」という用語について。助詞ハによって提示された名詞Xは、「何か」の存在を表す側面が
前面化するため、無規定的で空虚な存在者である。この名詞Xの無規定性に重点をおいた別名が、いわゆる「主題・
題目」である。かたや、(6)の述語「大学生である」は、「山田」という存在者の具体的なあり方を規定するから、
「解説部」となる。ただ、主題論の課題は、デハナイなど、他のハの用法との連続性を説明すること、また、
「対比」と呼ばれる助詞ハのもう一つの用法との関係を説明することにある。本稿では、6節において、「対比」を
「否定」から説明する。

第二に、助詞ハとガの違いについて。たとえば、「犬が歩いている」のような文について、「犬」と「歩いている」
の二項が、助詞ガによって結合されている、と言うことは可能である。しかし、「犬が歩いている」は、個別具体的な
ある現象を捉えた文である。だから、「犬が」の名詞「犬」は、名詞の二側面を分裂させることなくその一体性を保持
し、眼前に個別に存在する「犬」を直接的に反映した表現と考えるべきである。つまり、格助詞ガのついた名詞は、
属性を帯びた個別具体的な存在者、すなわち、主体を表す。それが「歩いている」と結合する時、「犬が」が「歩いて
いる」の内容を限定し、同時に、「歩いている」が「犬」の内容を限定することによって、さらに個別具体的になる。
これが、描写文である。かたや、ハのついた名詞は、具体性をほとんど剥ぎ取られた空虚な存在者である。特に、
「Xとは」とすれば、「Xと呼ばれているものは」となって、名詞Xが名前だけの存在者になる。その内実を明らかに
するのは偏に述語であって、ハの文には、空虚なものがその姿を表す過程、分からないものが分かるようになる認識の
過程が反映している。それは説明文である。

第三に、指定文「犯人は山田である」の問題について。まず、この助詞ハも、犯人たる「誰か」という空虚な存在を
提示したものである点、(6)と同じであって、違うのは、述語名詞「山田」も存在者を表す側面を前面化させていると
ころにある。「(存在者)は(存在者)」となり、その存在者が特定される。このハの用法は、「(存在者)は(属性)」
というハの基本文からの派生用法であると考えられる。

最後に、「XはYである」の「である」について考察する。「である」のない「山田は学生」でも二項の分断結合が
十分に表されている以上、「である」の意味は別に考えなければならない。まず、「Yである」の「で」、ないし
「だ」という形は、名詞Yを属性として表示する形式、指定文の場合はYを存在者として表示する形式である。
まとめれば、名詞Yを述語化する形式である。名詞に二つの面があって、「Xは」とすれば存在を表す側面が前面化し、
「Yで」「Yだ」とすれば属性ないし存在者を表す側面が前面化するわけである。むしろ問題は、「Yである」の「ある」
をどう見るかである。この「ある」は、存在者の面を表すXが「ある」、すなわち、存在を表すものと考える。つまり、
(6)は、「山田という存在者は大学生という属性で存在する」と読める。

3. デハナイ

 3.1 デハナイの構造

 (7) 山田は、大学生ではない。

 助詞ハは、「XはYである」において、主語と述語を明瞭に分離するが、(7)の述語「大学生ではない」の場合、
助詞ハが介在することによって、「大学生で」という連用形と、否定を表す形式「ない」との二項が明瞭に分離された
形になっている。それをはっきり示すと下図のようになる。

図(1) [大学生で] は [ない]

 まず、助詞ハの前項として表出する「大学生で」という連用形をどう見るか。この「大学生で」は、述語の一部で
あって、助詞ハによって「ない」と明瞭に分離されている。この「大学生で」は、肯否のまだ決しない形で捉えられた
属性、肯定も否定もされていない属性認識である。すなわち、デハナイは、述語をあたかも何かの存在者であるかのよ
うに対象化し、それを否定する。デハナイは、対象化された認識の否定である 。

 かたや、後項の「ない」は、助詞ハによって分断されることによって自立的に現れている。ちょうど「それはない」
という文があって、この「ない」は自立語であるが、この文には、「それが存在しない」という不在の意味と別に、
「それは違う」という意味で否認の意味もある。デハナイの「ない」は、後者の「ない」と近い存在である 。
 以上をふまえ、デハナイの構造図(1)と、(6)の構造図(2)とを比較する。

図(2)  [山田] は [大学生である]

 「山田は大学生である」においては主語名詞「山田」の表す存在者、「何か(x)」の存在が提示されるのに対して、
デハナイにおいては「大学生で」という属性の認識が提示されるという差異がある。この差異がどこから生じるかと言えば、
前者の主語名詞「山田」は、その内的二分の一側面、存在者を分離提示したものであるのに対して、後者の「大学生で」は、
述語の内的二分の一側面、属性認識を、対象化し、あたかも存在者であるかのように提示する。そして、述語のもう一側面
とは、肯定と否定である。つまり、述語の中にも二側面があって、述語「大学生である」の中には、属性認識を表す面と
それを肯定否定する側面とがあるということである 。デハナイは述語の中から抽出され、対象化された認識を否定する。

 なお、このような議論は観念的過ぎると思われるかも知れないが、実際、デハナイは、高度に観念的な否定なのである。
そこで、一見同じ意味の文に見える、下例(8)と(7)との違いを考えてみる。

(8) 山田が大学生であることはない。

(8)の構造図、図(3)を見られたい。比較のため、(7)の構造図、図(4)も並べる。

 図(3) [山田が大学生であること] は [ない]
 図(4) [山田] は [ [大学生で] は [ない] ]

 図(3)を見ると、「(名詞句)は(ない)」という形式であるから、(8)は、「山田が大学生であること」の不在、
ある事実の不在を述べた文であると言える。つまり、(8)は、「お金はない」などと同種の否定文、存在否定文である。
「お金はない」の「ない」は無を表すが、「お金ではない」は否認を表す。前者は存在の否定であり、言うまでもなく、
こちらの方がより根源的であり、単純な否定である。それに対して、デハナイの否定するものは、対象化された認識と
いう観念的存在者であって、この認識構造を反映して(意識して)、そこに助詞ハが介在するのである。3.2と3.3節で
デハナイの「対象化された認識」の具体例を見る。

 3.2 自らの認識の否定
(9) 三冬は立ちどまって、「雪か……」と、つぶやいた。闇の中に、はらはらと白く落
ちてくるものに気づいたからだ。実に、その瞬間である。佐々木三冬の頭上から、
得体の知れぬものが、ばさっと落ちてきた。これは雪ではない。投網であった。
(剣客商売)

 上例を要するに、「これも雪」と思ったがそうでなかった。このデハナイは、自分で前に認識した内容を改めて
取り上げ、否定している。自分の認識を自分で否定しているわけだが、それは再認識であり、そこには自らの認識の
相対化がある。

(10) おれは学校騒動には加担しない。現実を大事にし、自分の立場を大事にしなくて
  はならない。これはエゴイズムではない。社会人としての当然の義務でもある。
  (青春の蹉跌)

 このデハナイは、直前の「自分の立場を大事にしなくてはならない」という文脈から推論される「(自らの考えが)
エゴイズムである」という内容を否定している。この推論は世間一般の有するような意見であり、それを対象化、
相対化して否定している。

(11) 朝子が夜学に通ってくるのは、昼間勤めているためではない。朝子が家業を嫌って
いて、夜学へ通っていれば店の手伝いをする時間がそれだけ少なくなるためだ、と
いう噂も聞いていた。(樹々は緑か)

 この例は、推論というよりむしろ、「(夜学に通うのは)昼間勤めているためである」という一般常識を否定している。
一般常識とは普段無意識的に有している認識のことであり、それを対象化、意識化して否定している。

3.3. 相手の認識の否定

(12) 「いったい文太郎はなにをしているのだろうね、こっちの気も知らずに」
「もうしばらくお待ちください。文太郎は必ず来ます。文太郎に限って、約束を
たがえるような男ではありません。きっとなにかあったのです。(孤高の人)

 この例は、相手の発言内容から、相手が「(文太郎が)約束をたがえる男である」と考えていることを推論して
否定している。相手の推論を対象化、表現して、否定している。

(13) 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の
前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で
息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のよ
うに執拗く黙っている。(中略)そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔
らげてこう云った。
「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の
者だ。(羅生門)

 この例には、(12)と違い、相手の発言がない。ただ「黙っている」だけの老婆の心中を推し量り、
「(下人が)検非違使の庁の役人だ」という老婆の認識を対象化、表現して否定している。

(14) 行助はちょっと考え、いや、寄らないことにしましょう、と院長を見て答えた。
「寄りたくないのか」
「いえ、そうではありません。仮出所する目的がちがうのですし、それに、安の
葬儀だけで時間がいっぱいだと思います」(冬の旅)

この(14)は、相手の発言を、指示語「そう」で受けて、直接的に否定している。この種のデハナイは、
「そうではありません(そうではない)」というこの形のままで一文相当になりかけているように思われる。

 以上、デハナイの本質は、対象化された認識の否定というところにある。認識とは、感覚的な知覚、想像、
推論、常識などであるが、それらが否定の対象として助詞ハによって明瞭に意識され、提示されるところが
デハナイの本領である。それでは、デハナイと、形容詞や動詞の一般的な否定である「美しくない」とか
「食べない」という否定とでは何が違うのだろうか。この問題を次節で扱う。

Leave a Reply