7月 07

梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」を久しぶりに読み直しました。
女性の自立の問題を考えるためです。

これと併せて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会も開催しました。

本日は梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について私見を述べ、
明日は、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会の報告をします。

■ 目次 ■

1.先見性と一面性  梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について
 中井浩一

(1)梅棹忠夫の問題提起
(2)妻という生き方、母という生き方
(3)梅棹の一面性
(4)人類学の意義と限界

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1.先見性と一面性  梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について
  中井浩一

(1)梅棹忠夫の問題提起

梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」(『女と文明』中公叢書に収録)は1959年に発表された。
この1959年は、55年頃から始まった高度経済成長により「主婦」層が急増していた時期だった。
この論考は発表されるやいなや、一大論争を巻き起こす。それは約10年ほど続く大論争の火付け役をになったのだ。
これらは後に「主婦論争」として本にまとめられている(『主婦論争を読む』上野 千鶴子編著、勁草書房1982など)。

梅棹のねらいは、問題提起をすることそれ自体にあったろうから、それは大成功だったことになる。
彼はまさに問題の核心を突いたのだ。そしてそれは、今も解決できないままに残されている。

今回、この2つの論考を読み直し、考えたことをまとめる。

(2)妻という生き方、母という生き方

梅棹は、妻という生き方、母という生き方に問題提起をしている。
夫のみが直接に社会で生産労働を担い収入を得て、
妻は家庭に引きこもり家事労働、子育てを専門とする。
これでいいのだろうか。

近代以降、家事はどんどん産業化、機械化されてきたが、
高度経済成長下で家事の電化によって妻たちの負担は大幅に軽減された。
主婦たちに余暇が生まれ、主婦たちの「生きがい」が問題になる段階になった。
そこで梅棹の問題提起は威力を発揮した。

主婦の多くは余剰エネルギーを育児に振り向け、
過保護や母子一体化が進んでいる。
その結果、自分の人生の目的や計画は持たず、
子どもの人生がそのまま自分の人生であるような生き方に陥ることが多い。

女性が妻や母のポジションに埋没するのではなく、
人間として充実した生き方をするにはどうしたらよいのか。

梅棹の答えはこうだ。
「女自身が、男を媒介としないで、自分自身が直接に何らかの生産活動に参加することだ。
女自身が、男と同じように、ひとつの社会的な職業を持つほかない」。

(3)梅棹の一面性

梅棹による妻や母の問題の指摘は、すべてもっともだ。
だからこそ、大きな衝撃力をもったのだろう。

しかし、この女性の問題は、基本的には男女の社会的な「分業」にともなうものだ。
すべての分業は一面性や、視野の狭さ、ゆがみなどを必然的に生み出す。
それは女性側だけのことではない。
男性側にも大きな欠落を生みだしている。
ところが、梅棹は男性側の問題を語らない。これではあまりにも、一面的ではないだろうか。

男は社会で生産労働を担い、女は家庭で家事労働や子育てを専門とする。
こうした分業は、そもそもなぜ行われたのだろうか。

梅棹は、そうした分業が行われるサラリーマン家庭を江戸時代の武士の系譜の延長に見ているが、
それは現象面での類似でしかない。
この分業システムは武士云々とは無関係に、
近代社会、資本主義社会に必然的なことでしかない。
賃金労働(これがサラリーマン化)が普遍化すれば、世界中のどこでも同じことが起こる。
それは近代化、工業化の必然的な結果でしかない。

分業はその社会の生産力を高めるために行われる。
男女の分業、そして社会的生産の場(会社)と家庭の分業も、そのために行われるものだ。
日本では、この男女の分業システムは、高度経済成長下で完成した。
「専業主婦」の在り方が一般的になったのだ。

男性はほとんど家庭にいない状態になり、家庭の仕事は全部が女性に託されるようになる。
男性は、サラリーマンとして企業に埋没して生きる。「会社人間」「モーレツ社員」「企業戦士」。
家庭を顧みる余裕はなく、親子の時間も夫婦の時間もなくなった。
女性が、妻として母としてしか生きておらず、人間として生きていない、との梅棹の批判は正しいが、
男性もまた「会社人間」としてしか生きておらず、人間として生きていないのではないか。

女性の問題と男性の問題は1つの問題の裏表である。
したがって、この女性たちの問題は、
女性が男性と同じように外で働くこと、男性と同じことをするだけでは解決されない。
「会社人間」「モーレツ社員」「企業戦士」が増えるだけのことだ。

こうした完全分業制は、生産力を飛躍的に高めることに成功したし、生産性が上がる限り続く。
しかし、そこには自己矛盾があり、その成功ゆえに崩壊していく面を持つ。
日本は高度経済成長で豊かになった。家庭には家電製品があふれ、家事の負担は大幅に軽減される。
その時、女性たちには時間的余裕が生まれ、改めて「生きがい」が問題となってくる。

工業化は公害を生み、環境保護が初めて意識される段階が現れる。
高度経済成長も終わりを迎える。
女性と同じことが「モーレツ社員」「企業戦士」たちにも起こる。
彼らも改めて「生きがい」の問題に直面したのだ。
その時、そこに「空虚さ」しか見いだせない人たちが大量に現れた。

梅棹の予言はまさに的中した。
しかし、それは現実の半分だけだ。
男性側の問題がそこには完全に抜け落ちていた。

(4)人類学の意義と限界

改めて、梅棹の先見性と、その一面性を考えたい。

梅棹の先見性はどこから生まれたのか。
梅棹は「社会人類学」や「文化人類学」を仰々しくふりかざしているが、
それはサラリーマンと武士との現象的類似を指摘するレベルのものでしかない。
この専業主婦の問題は、本来は、近代化や資本主義経済の基本的な枠組みからのみ理解できることなのだ。

しかし、経済学や政治学の研究者、社会主義運動の理論家や実践家からは
梅棹のような問題提起が生まれなかったのも事実である。
彼らには主婦や母たちの問題が見えていなかったのだ。

梅棹のように、世界中の民族を比較研究する中で、
家庭や女性や結婚のありかたを比較研究する視点からしか、
女性の問題は見えなかった。
男性社会であり、工業化社会であり、
その中に埋没して生きている限り、それを超える視点は持てないからだろう。
そこに梅棹の先見性があった。

しかし、一方で、近代化や資本主義経済の理解が不足している梅棹には、
男性側の問題の指摘はできなかった。
しかし、それこそが問題の中の問題、核心的問題だったはずだ。

「女自身が、男を媒介としないで、自分自身が直接に何らかの生産活動に参加することだ。
女自身が、男と同じように、ひとつの社会的な職業を持つほかない」

これでは何も問題は解決しない。そのことを、今、私たちは知っている。

                          (2015年7月5日)

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