4月 06

ヘーゲル論理学の「現実性」について私見をまとめました。
この論考の準備にとりかかったのは2015年の正月でしたから、それからもう1年以上も過ぎたことになります。
その経緯については「はじめに」をお読みください。
本稿は長いし、難しいと思います。「3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性」だけでも読んでみてください。
何かを感じてもらえると思います。

■ 目次 ■

ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか 中井 浩一

はじめに
1.牧野紀之の改定案
2.牧野紀之の改定案への疑問と『弁証法の弁証法的理解』について
※ここまでを本日に掲載。

3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性
(1)外的必然性
(2)内的必然性
(3)概念(自由)の生成
(4)ヘーゲルの「現実性」を書き直す
※ここまでを4月7日に掲載。

4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」第3編「現実性」の役割
5.ヘーゲルの意図について
(1)ヘーゲルの意図
(2)代案の根拠
(3)ヘーゲルの側の事情
※ここまでを4月8日に掲載。

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◇◆ ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか 中井浩一 ◆◇

はじめに

2015年の正月は、ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」を読むことになった。
牧野紀之がこれに言及しているのを読み、それに大いに刺激を受けたからだ。
第3編「現実性」はヘーゲル論理学の核心だと思うが、牧野はそれの改訂という大胆な提案を行なっていた。
私が刺激を受けたのは、その大胆さだけではない。
なによりも牧野の提案のナカミが、私の考えとはずいぶん違っていたのだ。
私はこの際、自分の考えをまとめたいと思った。

その論考は2015年の2月には一応書き上げたのだが、外的必然性と内的必然性の区別、特に内的必然性の
理解が不十分なことを痛感していた。
偶然性と必然性の関係については、これまでに論理学の該当個所を何度も読んで考えてきた。しかし、今一つ
分からないままにあった。それが15年の夏の合宿で、ハッキリとつかむことができたように思う。

ヘーゲルは、偶然か必然かを、自己の根拠を自己の中に持つか、他者の中に持つか、で区別している。しかし
本当の核心は、その根拠をその対象内に持つか、否か、なのだとわかった。
それは言い換えれば、「内に」か「外に」かであり、それは「自己の中」か「他者の中」かの違いと言える。
だからヘーゲルの表現は間違っていないのだが、私にはその表現ではわからなかった。それが今回はわかった。

例えば、ヘーゲルの『小論理学』第24節の付録3では創世記の失楽園の物語が取り上げられるが、そこに
「原罪があるから救済が必要だ」といった表現が出てくる。これは普通の言われ方なのだろう。しかしそれは
まさに偶然性の立場である。必然性の立場なら、「原罪の中にこそ、そこからの救済がある」と言わねばならない。
救済と原罪は別のものではない。相互外在的に存在するのは偶然性である。
悪と善も、別のものではない。悪でないこと、悪がないものが善ではない。悪があって、善もあるのでもない。
悪があるから善があるのでもない。悪の中にこそ、善はあるのだ。善の中にこそ、悪はあると言っても同じだ。
これは神がつくった世界の中になぜ悪があるのか、という問いとも関係する。神はなぜ悪を作ったのか。
この世界を、自ら発展して自己実現していく主体的なものとしたかったからだろう。偽や悪の中に、真理も善も
あるという、世界観だ。

こうして、1年がかりとなったが、2016年の正月に自説の骨格をまとめることができた。慶賀である。
それに肉付けしたのが本稿である。

1.牧野紀之の改定案

牧野のブログの「私の研究生活」(2014年10月24日)には以下が書かれている。
寺沢恒信訳『大論理学2』(本質論初版)の「付論」で寺沢は「〔本質論の〕再版が書かれていたらどうなって
いただろうか」という問題を立てた。寺沢の結論は「再版が書かれたとしても『現実性』は初版とほとんど違わ
なかっただろう」。寺沢がヘーゲルに追従的であるのに対して、牧野はヘーゲルの本質論初版の展開を批判し、
それに代案を出す。

第1章はスピノザ論だとし、それを第3部の最初に置いたのは「ヘーゲルとしては、スピノザの実体・属性・様態の
概念をどこかで扱いたいというか、扱わないわけにはいかない、と考えたのでしょう。しかしどこにどう位置づけ
たらよいか、自信が持てなかったので、ここに置いたのだと判断しました」。第1章を軽く見る点では、私も大きな
違いはない。

問題は第2章(可能性と現実性、偶然性と必然性)と第3章(実体性と因果性と相互作用)の順番と関係なのだ。
牧野は「再版でどうなったか」は分からないと断った上で、牧野なら第3編「現実性」を偶然性と可能性と必然性に
三分し、最後の必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く、と言う。そして、相互作用から
「世界の一般的相互関係」を引き出して、「概念(の立場)」を導出する、と述べている。

牧野が、必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く理由は、「ヘーゲルは因果等の必然的関係を
どうしたら証明できるかと考えた」からだ。そして、「カントの答えでは満足できなかったヘーゲルは、
『1つのものの2つの部分ないし側面』と理解しなければ『必然的関係』は証明できないと気付いたのです
(一番分かりやすい例を出しますと、作用と反作用は1つの力の2つの発現形態ですから、同じになるに決まっている
わけです)」。

牧野は自分の代案について、「要するに、『弁証法の弁証法的理解(2014年版)』の第4節(この「第4節」は
「第2節と第3節」の間違いだと思う。中井)のように」するのだと言っている。この点を確認するために、
牧野の『弁証法の弁証法的理解(2014年版)』も読んでみた。ここでは必然性に2種類あり、それは外的必然性
と内的必然性だとする。そして、外的必然性=相対的必然性=偶然性=可能性=根拠とし(「要するに、外的必然性
と偶然性と可能性と根拠とは、どれもみな、同じ一つの事態を別々の角度から見たものにすぎない」)、
それに内的必然性=絶対的必然性を対置する。外的必然性で考える立場は「悟性」=「有限な思考」であり、
内的必然性で考える立場が「理性」=「無限な認識能力」だとする。
「内的必然性とは何か。『AがあればBが結果する』というのが外的必然性であった。それは又『Aがあっても
同時にCがあればBは結果しない』ということでもあった。従って、或る事物の『内的必然性』とは、もはや、
或る対象の存在を前提してその原因を探るのではない。それの存在する必然性を追求するのである。或る原因が
あればその対象が生まれるだろうというのではない。その対象が自分の内なる本質によって『必ず生成する』と
いうのである。即ち『生成の必然性』である。だからこそ、それは又因果の必然性のような相対的必然性との対比
では『絶対的必然性』とも言うのである」。
「それはどのようにして可能なのか。もちろん、その対象と関係した全ての事柄を見る以外にない。
部分を見ただけでは、それの生成を妨げる他の要因を見落とす可能性があるからである。しかも、『全体を見る』
と言っても、それを『静止した全体』としてではなく、『歴史的に発展する統体』として見なければならない。
即ち、歴史的な見方であり、同時に一元論的な考え方である。二元論や多元論では或る事柄の生成の必然性は
絶対に証明できない。従ってヘーゲルの弁証法はその本性そのものによって相対主義や多元論とは無縁である」。
以上が牧野の説明である。

2.牧野紀之の改定案への疑問と『弁証法の弁証法的理解』について

外的必然性と内的必然性の理解において、私は牧野には賛成できない。それについては後述するが、
『弁証法の弁証法的理解』を読み直して、その叙述方法にも疑問を感じた。その叙述が悟性的なものではないか
ということだ。必然性に2種類あることを述べ、外的必然性に内的必然性を対置する。しかし本来は、外的必然性
から内的必然性を必然的に導出するのが「生成の必然性」にかなった展開ではないか。4節の能力の話も、3節までの
展開からの必然的な導出になっていないと思う。
それは牧野が「私の研究生活」で示した代案でも同じで、そこに発展の論理の説明がないのは不十分だと思った。
それでいて、突如として「発展」という用語が出てくる。「『全体を見る』と言っても、それを『静止した全体』
としてではなく、『歴史的に発展する統体』として見なければならない」。これは恣意的で偶然的な叙述であり、
必然的な展開ではない。

「私の研究生活」の代案でわからなかったのは、牧野の2つの必然性の理解と、第3編「現実性」を「偶然性」
と「可能性」と「必然性」に三分し、最後の「必然性」の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く
という考えの関係だ。外的必然性=相対的必然性=偶然性=可能性に、内的必然性=絶対的必然性を対置する牧野は、
第3編「現実性」の「偶然性」と「可能性」をどう展開するのだろうか。その両者が外的必然性を成しているなら、
内的必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置くことになろう。しかし因果性を牧野自身は
外的必然性=相対的必然性としている。牧野の提言の内容がよく理解できない。

それにしても、今回『弁証法の弁証法的理解(2014年版)』を見て、「2014年版」とあるのに驚いた。
旧版の「弁証法の弁証法的理解」は、1971年に『労働と社会』に収録され、その30年後の『西洋哲学史要』
(波多野精一著、牧野再話。未知谷刊、2001年)にも転載されている。30年間、その基本の考えに変化がないと
いうことだろう。それが今回改訂された。「2014年版」は「特にその第四節に満足できなく成りましたので、
そこを主にして書き換え」たものだという。
何が変わったのかが気になり、旧版との違いを確認した。内容は大きくは変わっていない。2節と3節がそれぞれ
外的必然性と内的必然性に対応しているのは同じだ。最後の4節に「能力としての弁証法」を詳しく書いたのが
大きな変更点だ。ついで3節の内容が詳しくなっている。
私は旧版をこれまでに何度も読んできた。この約40年も前に書かれた文書の内容が、今も大きな変化なく、
牧野の基本的立場の宣言書であり続けていることにまず感心する。それほどに、牧野は早いうちから完成していたのだ。
それは逆に言えば、その後に大きな変化・発展がないとも言える。しかし、2014年版を出したことは、今も改訂
し続ける姿勢を持っていることを示す。

なお、「私の研究生活」で、牧野はヘーゲルの「現実性」における「実体」と言う用語にも言及している。
「この『現実性』には2つの『実体』が出てきます。これをどう考えるかも問題ですが、そう難しくはありません。
スピノザ的実体は、『宇宙の実体は何か。物質的なものか精神的なものか』といった場合の『実体』です。
これを『宇宙論的実体』と名付けましょう。もう一つの『実体』は『機能』に対立する実体です。機能や性質の
担い手としての実体です。Substanzen(諸実体)という複数形が出てくるのはそのためです。これを『個物的実体』
と名付けましょう」。
こう指摘されると、私にはこの区別があいまいだったことがわかる。ここからは学んだ。

つづく。

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