ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか(つづき) 中井 浩一
■ 本日の掲載分の目次 ■
3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性
(1)外的必然性
(2)内的必然性
(3)概念(自由)の生成
(4)ヘーゲルの「現実性」を書き直す
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3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性
ヘーゲルの外的必然性と内的必然性とはどういう関係であり、内的必然性とは何のことなのか。
外的必然性と内的必然性とは、単に横並びの対立項ではないだろう。外的必然性が発展した段階が
内的必然性である。つまり、外的必然性の真理が内的必然性であり、外的必然性の中からのみ内的必然性は
現れる。内的必然性とは外的必然性の中にしかない。
(1)外的必然性
A→B、AからBが出てきた(ように見える)、AがBに変化した(ように見える)時に、そうした変化を変化と
してだけとらえている段階、つまりAとBがただ他者として、相互に無関係に並ぶだけの相互外在的な関係で
しか考えられない段階が、ヘーゲルの存在論の段階である。この段階の変化の運動をヘーゲルは「移行」と呼ぶ。
そうした変化に対して、なぜ、どのようにその変化が起こるのか、つまり変化の根拠、その必然性を検討する
段階になると、本質論の段階となる。
A→B、AからBに変化した時に、AとBはただの他者ではなく、BはAから生まれたのだから、Bの根拠がAである。
この時に、AをBの原因、BをAの結果と呼ぶ。これが因果関係である。
この根拠という考えをさらに深めると、Bは初めからAに内在していたのであり、Aの中にすでに潜在的に存在
していたBが外化したものであると考えられる。この立場からは、AをBの可能性とも言い、BをAという可能性
の実現、現実化とも言う。
このように変化の運動を、その根拠から説明するような2項の関係でとらえる時に、ヘーゲルは「反省」「反照」
の運動と呼ぶ。
この因果関係や、可能性から現実性への反照の運動を、ヘーゲルはさらに深めて相互関係の芽を見抜いていく。
AがBの原因であることは、 A→B によって確認され、Bが Aの結果であることも、 A→Bによって確認される。
つまり、A→Bの場合、Aの中にすでに潜在的に存在していたBが外化したのであるが、同時に、Aが自己内に反省
して(内化して)Bを見出したことをも意味する。かくしてAからBへの外化は、BからAへの内化でもある。
ここにAとBを契機とした全体が現れている。これが変化一般の本質的な姿なのだ。
しかし、これではどこまでいっても偶然性の関係である。なぜなら、確かにA→Bもあるのだが、B以外の場合もある。
A からは、C、D、E、F…も出てくるからである。
B以外のC、D、E、F…の可能性は排除されない。Bもあるし、Cもあるし、Dもあるし、Eもあるし、Fもある、…
こともある。Bでないし、Cでもないし、Dもないし、Eもないし、Fもない、…こともある。
さらに、B、C、D、E、F…は、Aからしか生まれないのではなく、A以外のP、Q、R、S、T…などからも生まれること
がある。
ヘーゲルはこのAとB(B以外でも同じ)にとってのこうした状態を「自らの根拠を他者の中に持っている」として
偶然性の段階とした。この段階がヘーゲルの外的必然性である。こうした場合は、A、B、C、D、E、F…は、相互に
内的と外的との区別はあるものの、存在論の相互外在的なありかたに止まっているのだ。
こうした偶然性の段階にあって、より必然性を追求しようとすれば、A→BのBだけが可能で、それ以外のC、D、E、F…
の出現の可能性が排除されればよい(B以外のC、D、E、F…でも同じ)。そこで、そのために必要な条件が問題になる。
そこで、A→B の条件、つまりAからBだけが生まれ、それ以外のC、D、E、F…が現れないための条件の検討が始まる
(それはB以外の、C、D、E、F…についても検討できる)。それにはAの内部の条件はもちろんだが、同時にAの外部
(A以外のP、Q、R、S、T…)の条件も必要になる。
ここでは、そもそも最初に置かれるAとは何か、AとA以外の区別とその関係が問われる。一方ではAとA以外の2つを
「部分」(契機)とする「全体」が意識され、他方でAを全体とした時のAの部分(諸要素)の相互関係、またAも
入れた全体の相互関係が問われるようになる。そしてさらにA→B の条件では、A に含まれる可能性としてのB、C、
D、E、F…の相互関係、Aも入れたそれらの可能性群全体の相互関係が問われるようになる。相互関係の諸要素は
全体の契機となっており、ここでは全体とその契機としてとらえられることになる。これが実体と偶有性の関係の
段階である。
この時に、A→B の条件が示され、その条件が満たされていればBが現れ、 B以外のC、D、E、F…は現れない。
しかし、Aから何が生まれるかは、Aの内的条件と外的条件に依存しており、そうした条件に依存しているという意味
では、「自らの根拠を他者の中に持っている」ことは変わらない。したがって、その意味ではこの段階も依然として
偶然性の段階であり、外的必然性の段階なのである。
(2)内的必然性
A→Bの場合、Aの中にすでに潜在的に存在していたBが外化したのであるが、同時に、Aが自己内に反省して
(内化して)Bを見出したのである。AからBへの外化は、BからAへの内化でもある。
ただし、Aの中に潜在的に存在していたものはBだけではなく、B以外のC、D、E、Fもあり、だからこそ、
それらも外化してくるのである。これが偶然性の段階であった。
そのAが「全体」とされ、B、C、D、E、F…がその「諸要素」として区別され、それらの相互関係が明らかになっても、
それらの関係には偶然性がまだ残されている。
しかし、そうした諸要素の中に、Aにとっての中心的(本質的)なものとそうでないものとの区別が明らかになる段階
が来る。そうした区別は、変化の中には中心的変化があるということがわかってくる段階に対応する。
Aの多様な変化の中に、その全体を貫く運動があることがわかり、それこそがAの本質の実現の運動であることがわかる。
その時、Aの中に潜在的に存在していたB、C、D、E、F…は、Aの中心的なもの(本質)の現れであるものと、
そうでないものとに明確にわかれていく。
つまり、全体を形成する諸要素には明確な本質(中心)があり、その本質の外化を中心とした運動がある。
A→BのBがAの本質(中心的なもの)であった場合は、変化一般とは全く異なる運動が現れてくる。
その運動とは、A→B→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aという運動である。これは、Aの中に潜在的に存在
していた本質が、B からB’、B”、B”’、B””、B””’…と外化していく過程で、同時に、Aが自己内に反省
して(内化して)B からB’、B”、B”’、B””、B””’…へと深まっていき、最後はAにもどることになる。
このB→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aの全体を本質の外化、本質の全体ととらえ、その本質にとってB→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aはその必然的な過程であり、その契機なのである。
ヘーゲルは発展の例によく植物の成長過程を出す。植物の種(胚)から芽が出て、成長するにつれて根や茎や枝が
伸び、葉が茂り、花が咲き、果実が実り、種ができる。植物の種(胚)には後に現れる根、茎、枝、葉、花、果実、
種(胚)などが潜在的に、可能性として含まれており、植物の成長とはそうした可能性が外化し、実現していく
過程なのだ。こうして終わりが始まりに戻ることになる。これが、ヘーゲルの発展であり、
A→B→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aの具体例なのだ。
ヘーゲルはこの運動を「自らの根拠を自己の中に持っている」として必然性の段階とした。
この段階がヘーゲルの内的必然性である。
またこの運動をヘーゲルは発展とし、「発展は本質に帰るような変化のこと」とした。
これは存在論の移行(=変化、外化)の運動と、本質論の反省(=本質に帰ること、内化)の運動を統一した
運動が発展であることを意味する。
しかし、これでは同一種の内部の、つまり同じレベルの繰り返しでしかない。本当の発展は、新たな種が生まれ、
そのレベルが高まることでなければならないだろう。それは植物の胚を例にした発展と何が違うのだろうか。
そうした発展のどこがどう深まったものなのだろうか。
それはA→BのBがAの現象的な否定ではなく、Aの本質そのものの否定である場合だ。つまりその時BはAの本質の
止揚となっており、これこそヘーゲルがBはAの真理だという本当の意味なのであり、それがAの概念なのである。
(3)概念(自由)の生成
これを理解するには、「自らの根拠を自己の中に持っている」として内的必然性とされた発展の運動が、
実は自己否定の運動であることを理解する必要がある。そしてヘーゲルの本当の凄味は、本質実現の発展の運動が、
自己否定の運動であると看破したことにある。
ヘーゲルは発展の運動(A→B)、つまり内的必然性において、BをAの真理と呼ぶ。それは、Aの現象面が否定され、
その奥にある本質が現れたものがBだという理解の上に立っているからだ。
この「否定」の運動という観点で、これまでの段階を振り返ってみるとどうなるか。
実は、一番最初の存在論の変化一般の段階にすでに「否定」の運動が含まれていた。A→Bへの変化とは、Aが否定され
Bが現れたことに他ならない。しかしそれはAとBがただ他者であり、無関係な横並びの存在としてとらえられている
にすぎない。AとBは外的な関係であり、他者として相互に否定し合って存在しているだけだ。
本質論の外的必然性の段階では、Aは自らの内的なBによって否定され、AとBは相互関係としてとらえられている。
Aは外的な他者にではなく、自らの内的なBによって否定されたのだが、他のC、D、E、F…もAの内的な存在であり、
それらによっても否定される。Aは自らの内的な存在によって否定されたのだが、それは依然として他者にとどまって
いるのだ。
それが内的必然性では異なる。Bは Aの内的本質であり、 Aの現象面が否定され、その奥の本質である Bが現れている。
Aにとってその内的本質Bとは自己そのものである。Aの現象面は、その内的本質(自己)に否定され、
その内的本質は外化されていき、ついにはAはその内的本質の全体を実現する。これはAを否定する運動だが、
Aの本質によるAの否定、つまり自己否定の運動なのだ。しかしただの否定ではなく、自己を否定することで
自己を実現(肯定)していく運動なのだ。だからヘーゲルは、Bを Aの真理と呼ぶ。それはAの本質の実現と
同じ意味である。
しかし、これでは同じレベルの繰り返しにしかならない。それは自己否定の運動なのだが、自らの本質という
範囲の内部での自己否定であった。
それが自己の本質そのものの否定にまで突き進んだ時、それは本質の単なる否定ではなくその止揚であり、
それは自己否定の完成であり、自己が滅ぶ時であり、自己を越えた新たな存在の誕生だったのである。
それが真の発展であり、自己を超える新たな存在を生むことがAの使命(Aの概念)だったのである。
「真理とは存在がその概念に一致すること」というヘーゲルの真理の実現がここにある。
こう考えるヘーゲルにとっては、Aの真の否定は Aの中からしか生まれない。ここには徹底的な一元論がある。
ヘーゲルの存在論から本質論、本質論から概念論への3段階(本質論内の外的必然性と内的必然性を入れれば
4段階)を振り返って整理すれば、発展とは存在論(外化)と本質論(内化)の運動を統一的にとらえたもの
であり、それは存在と本質の運動の真理であるとともに、外的必然性の真理であり、それがまずは内的必然性である。
実体(本質)は最初は根拠であり、原因である。そうした外的必然性の段階が深まり、内的必然性、
発展の立場にいたれば、それが実体(本質)の真理、実体の完成態であり、ヘーゲルはスピノザの実体を
この段階のものとしてとらえていた。
そして、ヘーゲルはここまでの運動の全体を「現実性」としてとらえている。これは現実性そのものが自己
運動をしてこの現実世界を形成した運動なのだ。そして最後に生まれる概念が、それらすべての真理という
ことになる。すべての始まりにその概念があり、その展開によって今、また概念にもどったということだ。
こうした全体の運動を、ヘーゲルは真理、概念、理念の自己実現運動、それを自己否定=自己肯定の運動として
とらえ、この自己否定の運動を中心として、実体の全体が捉え直された時、それは実体の中心に自己否定する
運動を認めたことになり、その運動によって生まれる自己を止揚する主体性が現れたことになる。
それがヘーゲルの概念である。
これをヘーゲルは、「実体を主体として捉え直したものが概念だ」「実体の真理が概念である」と説明するのである。
ヘーゲルはさらに、必然性の真理が自由だとも言う。
ヘーゲルは外的必然性と内的必然性をあわせて必然性としてとらえ、それを「盲目」であるとする。それは結果
を事前に予測することはできず、結果から必然性を判断することしかできないからだ。また個々の存在は相互に
自立的に外的に存在しているからである。
しかし概念の段階になると、それはすでに「盲目」の必然性ではない。事前に結果を予測することが出来る。
それが目的的な活動であり、その存在(種)の本質が現れた段階で、古い種の終わり(概念)と次の新たな
種の始まり(本質)が現れてくる。
しかし、ここには、もう1つの主体が必要である。個々の相互に自立しているように見える存在の外観を壊し、
それらを契機として新たに生まれる全体を目的として、それを実現する主体である。そこで地球上に人間が
生まれ、目的的活動、つまり労働が始まったのである。
人間は、対象の本質から概念への必然的な運動を理解し、自らもその実現のための契機として関わっていく。
それが自由であり、それを担うのが人間である。
人間は他の動物のように意識を持つだけではなく、意識の内的二分による自己意識を持った事で、
過去と現在と未来を総合的にとらえる思考を獲得した。発展の論理を自覚し、必然性を理解し、
概念の実現を目的とした上で労働するようになった。それは最終的には、地球から人類が生まれた意味を
理解し、地球や人間の使命を理解でき、それにふさわしく自然と社会を変革していくことになる。
これが「盲目」の必然性が概念的に把握される自由の実現の過程である。
究極的にはこの地球の運動で実現するものが概念であるが、それを可能にする人間そのものが概念である。
人間はこの内化と外化の統一をまさに体現する。それが「自由」の実現である。それまでの外化の歴史が
結果的に内化、本質の実現を意味していたのに対し、人間はそれを自覚的に行う可能性を得た。
この使命の実現のために、人間は自らの認識能力を高め、自らを変革することを中心に置いた上で、
社会を変革し、自然を変革していかなければならない。
(4)ヘーゲルの「現実性」を書き直す
本質論の外的必然性から内的必然性、さらに概念への発展の過程を、私は上記のように理解する。
したがって、「因果関係・相互関係・実体の関係」と「外的必然性・内的必然性」との関係では、
「因果関係・相互関係・実体の関係」を「外的必然性」の内部に位置づけることが正しいと考える。
したがって、私はヘーゲルの「現実性」を次のように書き直したい。「現実性」の全体は、二部構成で
良いのなら、外的必然性と内的必然性とに二分し、最初の外的必然性の下位形態として実体性と因果性と
相互作用の3つ(第3章の内容)を置く。また、もし三部構成にこだわるのなら、実体(本質)を冒頭に置き、
外的必然性と内的必然性とで三分し、外的必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く。
いずれにしても、牧野がヘーゲルの「現実性」の第3章を核心とし、それに偶然性と必然性(第2章)を
止揚したのに対して、私は第2章こそを中核ととらえ、その第2章の外的必然性の内部に第3章の内容
(実体性と因果性と相互作用)を止揚したいのだ。
牧野が第3章を重視するのは、ヘーゲルの「現実性」の目的を「因果等の必然的関係の証明」にあると考えた
からだし、私は発展の論理と概念の導出が目的だと考えるから、第2章を重視する。牧野が言うように、
因果性と相互作用を「1つのものの2つの部分ないし側面」と理解した時に、「必然的関係」が証明できる。
「全体の契機(モメント)になっている」というありかたこそが、内的必然性の前提になるのはその通りだが、
だからこそ、それは外的必然性の段階ととらえればよいのだと思う。
以上、牧野の『弁証法の弁証法的理解』にある2つの必然性という考えに私見を対置し、
あわせてヘーゲルの「現実性」の改訂についても私見を述べた。
つづく。