10月 17

「ちょっと違う」

よく、「ちょっと違う」という言葉が使われる。それがとても気になる。

注意してみると、その人はどこでも何に対しても「ちょっと違う」と言っていて、その「ちょっと違う」ナカミに迫ろうとはしない。
その人はいつまでも、何に対しても「ちょっと違う」と言い続けるだけなのだ。

確かに「違う」のだけれども、それは「ちょっと」だけだ。たいしたことではない。

しかし、実際は、何がどう違うのだろうか。その「問い」が本気で問われることはない。
本当は、どんなに小さな違いでも、その意味を深めるならば、絶対的な対立にまで至る。

これについては、以前に「『自分の意見』の作り方」として書いた(鶏鳴会通信233号)ので、
それを以下に再度掲載する。

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◇◆ 「自分の意見」の作り方 中井浩一 ◆◇

 よくマスコミなどでは、有権者の意向調査などを行い、その動向を報道する。
それが政治を大きく動かすこともある。また、テレビなどで、何か事件があると
街の人々にインタビューをして「どう思いますか」「どうお考えですか」
「賛成ですか、反対ですか」などを問う。

 問われた方は、真剣に、または笑いながら、または怒りながら、
何かを発言する。それぞれ、もっともな意見に思えるし、ある立場を
代弁していると思う。しかし「言わされている」「番組で求められている答えに、
合わせている」とも感じる。

 そこで語られる「意見」とは何なのだろう。
意向調査で出される「意向」とは何なのだろうか。
それは本当に、その人の「意見」「意向」なのだろうか。
否。それらの多くは、テレビで誰かがしゃべっていたことを
オウム返しで言っているだけのことだ。社会全体としての気分、雰囲気、
世間の多くの考え方を代弁するだけのことだ。もちろん、それにも意味がある。
それを否定しているのではない。ただ、それは「意見」「考え」と言えるような
ものではない、と言いたいだけだ。

 もともと「自分の意見」などを持っている人はほとんどいない。
「他人の意見」「親の意見」「世間の意見」でしかない。なぜか。

 「自分の意見」とは次のようにして生まれる。

 【1】「自分の問い」が立つ。
 【2】その「問い」の「答え」を自分で出す。
 【3】その「答え」を実際に実行し、それを生きる
 【4】その中から、次の「問い」が立つ
 
 以下、繰り返し。

 この繰り返しの中で、自分独自の「問い」と「答え」が生まれ、
それが次第に領域を広げ、深さをましていく。そうして、
「自分の考え」が生まれ、それがあるレベルにまで到達した時、
その「自分の考え」を「思想」と言うのだ。
「思想」というとずいぶん偉そうだが、ただ、それだけのことなのだ。

 多くの人には、「自分の考え」がない。「他人の考え」「親の考え」
「世間の考え」を持っているだけのことだ。
それはこの【1】から【3】ができないからだ。

 まず、「自分の問い」が立たない。
何となく問題を感じる。何となく疑問を思う。
親や恋人に、上司や先生にいろいろ言われ、問い詰められる。
これはすべての人に起こる。

 しかし、そこから、真剣に自分の答えを出そうとしない。
なぜなら、親や世間一般の考えを自分の考えとしていても、
とりあえず困らないからだ。または疑問を感じても、
それに代わる意見を出すだけの気力も覚悟もないからだ。
つまり、自分自身の「問い」を立てようとしないのだ。

 よく、「ちょっと違う」という言葉が使われる。
しかし、その人はいつまでも、何に対しても「ちょっと違う」と
言い続けるだけで、その「ちょっと」のナカミに迫ろうとはしない。

 もし、本気で「問い」を出したとしよう。すべてはそこから
始まるのだが、世間一般の考えのレベルを超えて、「自分の答え」を
出すのは簡単ではない(だから「先生を選べ」が必要になるのだが、
多くの人にはその覚悟はない)。そこで、世間レベルにもどって
それに屈服するか、答えが出ないままに保留し続けて、結局は問いを流してしまう。
そして言うのだ。「ちょっと違う」。けれど、「ちょっと違う」だけだ。

 さて、頑張って「答え」らしきものを出せたとしよう。
しかし、「答え」らしきものを出しても、多くの人には、
それは「遊び」であり、その答えを生きようとはしない。
「答え」を出すのを、ゲームのように楽しんでいるだけなのだ。
頭の良い人に多いが、その「答え」は軽やかで「知」と戯れたり、
「奇矯」だったりする。

 その人は、深まることはなく、バラバラの知識が増えるだけのことで、
「自分の意見」にはならない。

 もし、「答え」を出したら、それを「実行」し、そのままを
「生き」なければならないなら、それはしんどいし、
他者との対立が予測されるので怖くなるだろう。

 それが何となくわかるので、答えを出さなかったり、
そもそもの問いを出さないようにする人も多い。それが普通なのだ。

 もし、「答え」を生きなければならないなら、答えを出すときは
真剣になるだろう。そこから、本当の思考が始まるのだ。
それはぶかっこうだったり、不細工だったりするが、
圧倒的な力を持って迫ってくる。

 「答え」を生きるなら、必ず問題が起きてくる。
最初の「答え」はまだまだ狭く、浅いものでしかないからだ。
「生きる」ことは全体的で、すべてが密接にからまっている。
「生き」る限り、次から次へと問題にぶつかる。その問題から
逃げることなく、真正面から次の「問い」を立てるなら、
そこから1つ上の段階に進む。そして、その段階で次の
「答え」を出していく。

 先に述べたように、このサイクルをどれだけ、先に進められるか。
それだけが問題なのだ。
どうだろうか。あなたの意見とは「ちょっと違う」だろうか。

(2011年12月24日)

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