6月 15

親子関係はいかにあるべきか    親子関係の3段階の原理・原則  
                                中井浩一

■ 目次 

※前日からのつづき
2.第2段階  親=子どもの段階
(1)親子関係が親=子どもの段階
(2)社会人としての関係、結婚後の関係
(3)子どもの自立が真に問われる
(4)親不孝と恩返し
(5)親子のつきあい方は両者の合意に基づく

3.第3段階  親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階 (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある (4)死に方、看取り方 (5)どのような社会を目指すのか 4.ことわり(男女の役割分担について) ============================== 2.第2段階  親=子どもの段階 (1)親子関係が親=子どもの段階  子どもが就職し、社会人になれば、経済的に自立し、それは対等な大人同士の関係になることを意味する。 (2)社会人としての関係、結婚後の関係  対等な大人同士の関係にも2つの段階がある。 1.独立した社会人としての対等とは、親子の個人としての面であり、法的人格の平等と経済的自立による対等関係である。 2.その上で、子どもが結婚をすることで、夫婦としても、両親夫妻と対等な関係になる。 男女の夫婦関係は、根底に性関係があり、それは閉じた関係であり、他者がそこには踏み込めない領域を持つ。  親といえども、子どもの夫婦間のプライバシーには踏み込めない。 子どもも、両親の夫婦間のプライバシーには立ち入れない。  親子がそうした領域をともに持ち、それが自覚されることは、真に対等の関係をうながす。  結婚式は、親子の親子としての最終局面、それ以降は対等な大人同士の関係になるということだ。  本来は個人(社会人としての子ども)としての関係でも、性的な領域、信仰や信念、思想などで、 踏み込んではいけない領域、距離を置くべき領域はあるのだが、無視されやすい。 それが、結婚によって自覚されるという側面がある。 ※注釈  師弟関係は特別。弟子の夫婦関係にも踏み込むことができる (3)子どもの自立が真に問われる  親子が対等になった時点で、子どもの「自立」が真に問題になる。  なぜなら、子どもは、その生き方、物の見方、価値観において、無自覚ではあるが、両親の圧倒的な影響を 受けているからだ。  自立するためには、親の価値観や思想を相対化し、それに対置する形で、子どもは子ども自身の生き方、 物の見方、価値観(つまり自分の思想)を、自覚的に作っていく必要がある。 ※ここで、テーマと先生がどうしても必要になる。 (4)親不孝と恩返し  子どもは直接的には親に育てられ、教育され、一人前の社会人となる。その恩返しをどう考えたら良いのか。  子どもの本質は「未来の社会の働き手」である。親にとって、子どもは社会からの預かりものであり、 次の社会の働き手、その変革の主体として育て、教育し、社会へと返すものである。(以上は1.の(2))  子どもは確かに、直接的には親に育てられ、教育されたのだが、より本質的には、その教育の主体は社会なのである。  したがって、その恩返しも、まずは社会に対してのものでなければならない。親へのそれは副次的なものなのだ。  子どもは第1には、未来の社会の立派な働き手となり、人類や社会に貢献しなければならない。 そして、いつかは自らの子どもたちを生み育てる。それが次の未来への働き手となるように。それが社会への恩返しである。  親に対する「恩返し」は副次的である。もちろん、親への感謝や敬意は必要である。 しかし問題は、社会への貢献と親への恩返しの間に対立・矛盾が起こる場合があることだ。 その時は、親に反対されても、自分の信念を貫かなければならない。親の立場は過去と現在のものであるが、 子どもの立場は未来のものであり、現在の社会を発展させ、それを止揚した未来を作ることがその使命であるからだ。  親との対立や否定は、表面的、外面的には「親不孝」であろう。 しかし、親たちの世界や価値観を真に超えることが、真の「恩返し」である。 (5)親子のつきあい方は両者の合意に基づく  親子は、人生の節目節目で意見交換ができればよい  大学進学、就職、結婚、離婚、定年、遺言  その結果、親子の価値観の違いがはっきりと現れる場合もある。  政治的なこと以外に、生活上の礼儀や習慣でも、違うことが起こる。結婚観、人間観、社会観、つまり思想一般においても。  価値観が違っても、それを認め合ってつきあうことは可能。 しかし、そのためには、その違いを表明し、それを受け入れ合うための話し合いの過程が必要。  それが不可能なら、親子関係を終わりにする(絶縁、絶交)ことも可能。親子は対等なのだから。  つきあうなら、どうつきあうかは、対等な関係として決まる。一方の要求だけではだめで、 両者の合意があった範囲のつきあいかたになる。  場合によってはルールを提示し、その合意を確認し合うことも必要。  「どうつきあうか」といっても、「つきあう」限りは、そこから生ずる義務・責務がある。 どういうつきあいかたをするかは、「つきあう」ということから生ずる最低限の責務の上にある。 「つきあう」こと自体が無理ならば、絶交するしかない。 3.第3段階  親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階  親の体力や知力が衰え、経済力がなくなるなど、自立が不可能になり、経済的な援助や介助や介護が必要になる段階。  力関係が逆転する。  親<子ども (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか  老人の尊厳性の根源とは、彼らがこれまでの社会の担い手であり、働き手であったことである。  したがって、老後の介護は、その子どもたち家族だけではなく、第1には社会全体が担う責任がある。 (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある  多くの人は、定年によって人生の目標を失う。経済的な問題や、老後の資金の問題もあるが、 生きる上で何よりも大きいのは、人生の目的やテーマを失うことであろう。定年後には、新たな目標やテーマが必要なのだ。  前半生での目標(仕事、社会的な目標、子育て、子どもの自立)は達成した。それが失敗だったとしても、 すでに終わったことである。  ではどうするのか。本当は、定年前から定年後のための目標やテーマを準備しておくことが必要なのだ。  この問題は、父親の場合も深刻だが、母親の場合はもっと深刻になりやすい。  これは本来は、親の自己責任である。  子どものできることは少ないが、アドバイスは可能。 (4)死に方、看取り方  親は、自分の生涯の最後の段階の過ごし方、最終段階では何のために生きるのか、 死の迎え方、それを静かに深く考えていく必要がある。  子どもは、介護が必要な親とどう関係するか、どう支えるか、死までの見送り方、それを静かに深く考えていく必要がある。  親の死の局面とは、親子関係の最終的な段階であり、それによって、その親子関係が何であったかが最終的に確認される。  親子関係は、第1段階から第2段階、そして第3段階と進んできて、その間に様々な問題が起こる。 その問題解決のために、何度も話し合い、原理原則を繰り返し反省してきたはずだ。  そして親の死の局面は、それらすべての意味、すべての是非や成否が確認され、確定される段階である。  互いの関係と互いの本質がそこで最終的に確認される。そのことを肝に銘じて、最後の局面で、どういう関わり、 どういう関係を持つかを決める必要がある。  それは「仕事を止めて自宅で介護する」から「施設に入ってもらう」、さらには「一切関わらない」までの 幅広い選択肢があり、そのどれが正しいということはない。現実に可能な範囲の中で、これまでの関係の終わり方として 適切なものを選択するだけのことだ。  この最終局面では、遺言や遺産相続などで、隠されていた家族間の関係や本質が明らかになることも多い。 そのすべてが、それに関わった関係者の本質の現れである。それから逃げることなく、しっかりと受け止めて、 自分の人生をしっかりと振り返るべきだろう。次の自分自身の終わり方の準備のためでもある。  (6)どのような社会を目指すのか  大家族制度は崩壊し、2世代家族(核家族)が中心になったが、3世代家族の見直しもありうる。  大家族制度や家制度が復活することはない。墓に関する制度は事実上崩壊している。  血縁関係にこだわらない集団生活もアリだ。  新たな社会の構想力、思想こそが必要だ。 4.ことわり(男女の役割分担について)  夫婦間の役割分担については議論がある。  専業主婦の在り方、男女の役割分担、そこでの子育ての役割分担。  それらについては、今回は触れていない。              2016年10月4日初稿、2018年6月11日増補改訂

2 Responses to “親子関係はいかにあるべきか   親子関係の3段階の原理・原則  その2”

  1. 美沙子 Says:

    初めてコメントします、美沙子と申します。宜しくお願い致します。
    私は今海外の大学に通っています。その際に考えるようになったのが些細な文化の違いでした。文化の違いと言っても様々な種類の違いはあるのですが、今回私は中井さんに文化の違いから生じる親子間の対立についてお尋ねしたくてここにコメントさせて頂きました。
    私は昔からピアスやタトゥーといったものに興味がありました。それは私の中ではメイクをすることと同じように、そのようなアクセサリーが自分の一日にエネルギーを与えてくれていました。これを身につけたら、自信が付くのです。そして私は鼻にもピアスを開けました。このことを母には言いませんでした。
    ある時に、母に鼻のピアスの存在がばれたときに、「あなたのやってることは、日本では通じないし、周りがどんな目であなたのことを見るか分からないの?日本に帰ってくるなら、日本の基準に合わせなきゃダメなのよ。たとえ海外の沢山の人がそれを着けていても、自分が常識的に考えて日本だったらおかしいってわかるでしょ。そんなアホなことをするんだったら学費なんて一切払わない。親が嫌だって分かってて、そういうことをするんだったら、親への裏切り行為だよ、家の敷居もまたがないで。とにかく、鼻ピアスとかヘソピアスとか大嫌いだから。」
    と言われました。母親がピアス、ましてや鼻のピアスを好きじゃないことは分かっていなかったわけではないのですが、私はピアスがすごく好きでした。そのため、私は母親の言っている理由に疑問を持ったので尋ねました。
    「お母さんの言ってることは、私が例えば同姓愛者が好きだったことをカミングアウトして、それをただ理由もなく嫌いだから、家から出ていけと言っていることと同じだよ。人の美徳的な観点はそれぞれであって、私はそれがピアスだったし、オーストラリアでは受け入れてくれる。日本に帰ってから、人が私の見た目をどうジャッジしようと私は構わない。自分は自分、他人は他人であって、私を見た目だけで判断する人間は私はそういう人間なんだで終わらせられる。今お母さんがしてることは、見た目で人を判断する差別主義者だよ。」
    と言ったら、母親は私に、
    「そうやって理屈的なことで返してこないで。親と話すときに哲学的観点から物事を話さないで。とにかく日本じゃ鼻ピアスなんてアホみたいだし、誰もあんたのことを見て、そのはなぴあすかわいいなんて思わないよ。日本じゃそういうボディピアスとかタトゥーは通用しないから、日本の基準に合わせなきゃダメなの。海外に行かせて、そんな風になるんだったら、もう学費は払わないから自分でなんとかしなさい。」と言われました。
    私がここで、疑問に思ってしまうのは、日本の固定概念に縛られて、ピアスやタトゥーが不徳なものだとみなされていることです。また、みんなと同じようにしていないといけないことがすごく窮屈に感じてしまいます。さらに、子供が親に資金援助をしてもらっているということを利用して、それを喧嘩の最終手段に出してこられたらこちらは何も言い返せないのです。
    お金を出してもらっている限り、私は”母親の理想像”にならなければいけないのでしょうか?皆と同じであることが当たり前とおもわれてしまっている日本社会の中では、私は自分の好きなものを隠して、みんなと同じようにしなければいけないのでしょうか?因みに母親は、海外では通用しても日本じゃ変だと思われることはしてはだめだと言っています。文化の違いというのは何が正解ということが無いので、難しいです。道徳的基準はどこに置かれたらいいのでしょうか?母親に資金援助をしてもらっている限り、母親の価値観に合わせていかなければいけないのでしょうか?
    これは、一例であって、母親は私に、母親の理想に合わなかったときにいつも私の価値観を無視して頭ごなしに怒ってきます。そして最後は毎回お金の話を出してきて脅してきます。こうした母親の私への依存に息苦しさを感じてコメントさせて頂きました。中井さんの意見をお聞きしたいです。

  2. 中井 Says:

    美佐子さん

    君の不満や怒りはもっともです。

    しかし、肝心なことは、人生のテーマと問題意識です。

    人間が自立するには、経済的なことではなく、
    自分の人生のテーマがあること、自分自身の問題意識を明確に持って生きていることが必要なのです。

    だから、今の君は、それを何としても作っていくことが必要です。

    それをする覚悟があるならば
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