11月 05

2019年の夏の学習会では
 前半の2日間はヘーゲルの原書購読。小論理学の本質論の112節から122節の本文と注釈(付録部分は適宜選択)
を読みました。
 
 この目的は、本質論における存在の運動とは何か、そこで明らかになる本質とは何か、
どうすれば認識は深まるのかについて、ヘーゲルの考えを確認することでした。
 本質論の最初に置かれる、同一、区別、根拠の展開の意味、本質論の前に置かれた存在論は何なのか、
そこで示される根拠とは本質一般のことだが、その後、現象論と現実性論で展開される本質とどう関係し、
概念とどう関係するのか。本質論が、関係の論理とされることはどういう意味か。
 これらを確認することが目的でした。それは達成できたと思います。

 その成果を掲載します。

■ 目次 

ヘーゲルの論理学における本質論  中井浩一

1.論理学の中で一番難しい本質論
2.本質論における反省論
3.根拠の立場の不十分さ
4.同一と区別の反省規定
5.根拠とは何か 
※ここまでを本号に掲載。以下は次号へ。

6.根拠を深めるには、区別を深めればよい
7.矛盾の立場と思考の諸段階
8.根拠の立場
9.全世界は自己同一であり、自己区別の世界である
10.本質論における現象論と現実性論

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ヘーゲルの論理学における本質論

1.論理学の中で一番難しい本質論

ヘーゲルの時代にあって、その当時の哲学や諸科学に対するヘーゲルの激しい不満は、その真理認識の不十分さにあった。その認識が偶然的なレベルにとどまり、必然的な真理を示せないでいることに対する不満である。
1つの現象に対する根拠(理由、原因)が複数挙げられ、そのうちのどれがなぜ重要なのかが示されない。しかも、対立する2つ以上の根拠がともに挙げられたりもする。それらの全体がどう関係するのかは不明なままで、そのどれがどのように正しく、どれがどのように間違いなのかは示されない。
 ヘーゲルがこの問題と闘ったのは、何よりも彼の論理学においてである。
 それは諸科学の問題の根底に、思考能力の低さ、そのカテゴリーの運用能力の低さ、つまり思考における悟性レベルの低さを見ているからであり、それを克服した理性レベルの思考を示すためである。
それは論理学のどこでどのように問題にされているのか。
論理学の全体は、存在論と本質論、概念論からなっている。その本質論こそが、この問題の主戦場である。世間や諸科学でなされていることはこの本質論が問題とする領域にほぼ重なるからである。
「本質論は論理学の一番難しい部分であるが、そこには、とりわけ形而上学と諸科学一般のカテゴリーが含まれている」(『小論理学』114節注釈)。
ここにヘーゲルが何と闘っていたのかが明示されている。敵とは形而上学と諸科学一般の考え方だったのである。
そしてそれは、ヘーゲルの論理学では、本質論に集約されているのである。それだけに、ヘーゲルはここでこそ闘った。それが「一番難しい」という言葉によく出ている。

2.本質論における反省論

ヘーゲルは本質論を3段階に分ける。「それ自身における反省としての本質」(今後「反省論」と呼ぶ)、「現象」論、「現実性」論である。
この現象論、現実性論は、哲学と諸科学の実際の認識が問われている。その前の反省論は、全体の序論として置かれ、問題のありかとヘーゲルの立場を明確に示している。
哲学と諸科学の認識に問題がある以上、問題がどのように生まれてきたのか、その過程の中に、その問題の克服の方法も示されている。
それは冒頭の反省論に端的に示されている。反省論の内部は、仮象論、同一と区別の反省規定、根拠となっている。ヘーゲルは仮象と根拠の関係から、同一性、区別の反省規定を導出し、その同一と区別の統一として根拠を示す。そして仮象と根拠の統一(根拠から仮象をとらえ直す)から次の現象を出す。
哲学と諸科学の問題とは一般的に言えばこの根拠の不十分さである。そして、根拠の立場に問題がある以上、その問題がどのように生まれてきたのか。その過程の中に、その問題の克服の方法も示されているはずである。これがヘーゲルの基本的な方法であり、これが発展の立場なのである。これらは序論として置かれた反省論で示されるはずだ。

そもそも、私たちに本質が問われるようになるのはどういう時だろうか。
 それは感覚の世界への疑いが始まった時だろう。感覚でとらえたものが、実際とはズレていることを知ったり、感覚でとらえる世界が確かなものではないことを自覚した時。
存在するものの世界は無常であり、ただ変化していく。生まれ、変化し、消滅する(これは変化する多様性の世界、区別の世界である)。その中に変わらないものがあるのではないか、感覚を超える世界(これは変わることのない同一性の世界である)があるのではないか、それが本当に確かなものなのではないか、ととらえた時に、私たちは本質論の入り口に立つのだろう。
 その時、感覚の無常な世界と、感覚を超える世界、変わらない世界との関係が問われる。
 それが無関係ではなく、変化しゆく、移ろう世界は、変わらない世界の何らかの現れではないか、ととらえた時に、本質論のただ中に、私たちは立つのである。
こうした関係において、一般に前者が外的な現れ、「仮象」と呼ばれ、後者が内的本質、「根拠」と呼ばれており、ヘーゲルもそれを踏襲する。この根拠とは、普通には理由であり、原因結果の因果関係としてとらえられる考え方である。

3.根拠の立場の不十分さ

ではこうした根拠の不十分さとは何か。
根拠の立場は、対象を内化させ、その内的根拠を探せばよい。対象を二重化させ、その根拠に媒介されていればよい。それがこの根拠の立場であり、それ以上のことは根拠では問われない。ここにその限界、根拠の不十分さがある。
ヘーゲルは次のように批判する。
「事物の根拠を問う時には事物をいわば二重に、まずはその直接態において、次にはその直接的なあり方ではない根拠において〔根拠から媒介された姿において〕、見ようとしているのです。事物は本来媒介されたものとして考察しなければならないということにすぎません」。
「論理学の仕事とは、たんに表象されただけであるが故に概念で捉えられておらず証明されてもいない観念を、自己規定しゆく思考の諸段階として示すことでして、それによってそれらの観念が概念で捉えられ証明されるのです」。 
「根拠というものはいまだ絶対的に規定された内容をもっておらず、したがって、ある物をその根拠から理解しただけでは。その物の無媒介の姿と媒介された姿との形式上の区別を知ったにすぎないということです。ですから、例えば、ある電気現象を見てその根拠を問い、その根拠が電気だと知らされても、それは、目の前に無媒介に与えられた同一の内容が内的なものへと翻訳されたにすぎないのです」。
「根拠は単に単純に自己同一なものであるだけではなく、〔自己内で〕区別されたものでもあります。ですから同一の内容について複数の根拠を挙げることができます」。「同一の内容に対してそれを肯定する根拠と否定する根拠とが挙げられるということになります」。
(以上『小論理学』121節付録から)

4.同一と区別の反省規定

根拠の立場に不十分さがあるのならば、それは仮象と根拠との関係に不十分さの原因がなければならない。またそこにその克服の道も示されるはずである。
したがって、仮象と根拠との両者を結ぶ、同一性と区別の反省規定が核心になる。

根拠とは、何らかの存在の内的本質(変わることのない同一性)であり、仮象とは根拠の外的現われ(多様な区別)のことである。しかし、この同一性と区別の2つの側面は切り離せないし、2つで1つなのである。1つの対象が2つに分裂、区別され、しかし、その2つは、1つの対象の2つの側面であるから、同一なのである。だからヘーゲルはここに自己同一性と自己区別を見ていく。
 この区別は自己から自己を突き放すこと、つまり1つの自己が分裂した状態がここにおける区別、つまり自己区別であり、だからこそ両者はそもそも同一、つまり自己同一(自己と自己との同一性)なのである。
 だからこそ、根拠の同一性とは、単なる抽象的な同一性ではなく、同一と区別という対立・矛盾を自己内に2つの契機として含み持った、より具体的になった同一性なのである。

ヘーゲルがここで導出した同一と区別とは、一般にはAとBを比較して、AとBは同じだとか、異なっているとかという際の、同一性(同等性)や区別(不等性)としてとらえられる。それがさらに抽象化され、同一律(A=A、AはAである)、排中律(ある物はAか非Aであり、第3者は存在しない)、矛盾律(Aは同時にAかつ非Aであることはできない)として意識されている。これらは思考の3大法則と呼ばれ、すべての人が従っているものであり、これゆえに比較が可能になっているとされている。
しかし、それは原因ではなく、結果でしかない。ヘーゲルは、それらの思考法則が成立するように見える根拠として、自己同一と自己区別をここで提示しているのである。つまり、比較の際の同一や区別を言うことが可能なのは、そこに最初から自己同一の関係があり、同時に自己区別でもあるからなのである。
このことは、世間でもある程度理解されており、比較が可能なのは、根底には同一性があり、その上での違いがとらえられるからだと言われているのである。(『小論理学』118節付録)
ライプニッツが問題にした「不可識別者同一の原理」(すべてのものは異なっている、完全に等しい2つのものは存在しない)をヘーゲルは取り上げて、その真意を「ある物はそれ自身で異なっている、それ自身の規定によって異なっている」という意味だと説明し、それを「自己区別」の主張だと言う(以上『小論理学』117節の注釈と付録)。それは「自己同一」の主張だと言っても同じことなのである。

こうしたライプニッツやヘーゲルのとらえ方は、もちろん、同一律・排中律・矛盾律への批判として出されているのである。
いわゆる同一律・排中律・矛盾律と、自己同一と自己区別とは、根底において全く対立し、矛盾する。ヘーゲルはここで、こうした思考法則を悟性的な低さとしてとらえ、それが哲学や諸科学の根底にあるがゆえに、その根拠の立場の不十分さを生むととらえている。
◆哲学や諸科学は、根拠を複数挙げることに躊躇ない。中には相互に対立するものを挙げても平気である。
「形而上学と諸科学一般のカテゴリーは反省的悟性の産物であり、反省的悟性というものは、区別された諸項を自立的なものとしながら、同時に又それらの区別項の相対性〔関係〕も認めるのだが、その時その諸項の自立性と相対性を並列的ないし前後的共存関係として、「もまた」というようなことで結びつけて終りとするだけで、これらの観念をまとめ〔内在的に関係づけ〕て、それを概念にまで統合することをしない〔から〕である」(『小論理学』114節注釈)。
この「もまた」ということをやめることから、哲学は、真の思考は始まるのだ。
では、その「概念にまで統合すること」、つまり、必然的な根拠、その全体を明らかにするにはどうしたらよいのか。

5.根拠とは何か

回答は、複数の根拠がただ並べられるだけの関係を、より必然的な関係へと深めていけばよい、となる。
その方法は、区別の関係を深めることによって示されている。
ヘーゲルは、反省論の反省規定で同一性と区別を取り上げ、区別の内部では、差異→対立→矛盾の順番に取り上げていく。この区別の進展に、ヘーゲルは関係の運動の深まり、発展を見ていく。
差異とは、ただの違いであり、直接的区別である。しかし違いが深まると「対立」関係が現われる。ここで対立しあう両者が反照しあう。「他者がある限りでのみ存在する」。「自己に固有の他者」を持ち(相互依存)、相互に排除しあう。「一方は他方との関係の内にのみ自己の根拠を持ち、他方に反省している限りにおいてのみ自己に反省する。他方もそうである」(『小論理学』119節)。ここに矛盾が始まるが、矛盾はさらに激化し、その中から矛盾を克服する運動が起こり、止揚される。

ここにヘーゲルが示す区別内部の深まりは、そのままに根拠同士の関係が対立し、その矛盾が深まっていく過程である。
そもそも、根拠とは同一性と区別という矛盾を止揚し、両者を自己の契機として含み持ったものであった。それは「総体性として定立された本質」であり、「矛盾として定立された対立の最初の結果が根拠である」(『小論理学』119節付録)。
根拠は自己内に同一と区別を含み持っている。だからこそ、1つの内容に対して複数の根拠を挙げることができるのである。
根拠は、実は仮象と根拠に分裂する以前の最初の同一性に戻ることであるが、最初の抽象的な同一性に対して、1つ上のレベルの具体的な同一性である。最初の同一性の中にあった、同一と区別を自らの両契機として止揚している同一性だからである。
根拠は、実は最初の同一性の中にあり、そこから区別として外化し多様な世界として現れるが、それらは対立から矛盾へと深まる中で運動をおこし、その対立や矛盾はその運動の中で止揚され、それらの根拠が現れてくるのである。
この対立から矛盾の深まりによって、根拠に戻るというとらえ方が、ヘーゲルの矛盾観であり、これが実は発展そのものの論理である。

明日へつづく

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