ヘーゲルの論理学における本質論 中井浩一
■ 目次 ※前日のつづき
6.根拠を深めるには、区別を深めればよい
7.矛盾の立場と思考の諸段階
8.根拠の立場
9.全世界は自己同一であり、自己区別の世界である
10.本質論における現象論と現実性論
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6.根拠を深めるには、区別を深めればよい
さて、この根拠の深さには違いがあり、その発展段階の違いがある。それは根拠に止揚される区別の深まりに対応するのである。
「根拠が複数挙げられた状態は、〔差異→対立→矛盾と進んでいく〕区別の概念に従って、たんなる差異〔たんに根拠がいくつもあるということ〕から対立〔した根拠があるということ〕へと進み。〔さらに〕同一の内容に対してそれを肯定する根拠と否定する根拠とが挙げられるということ〔矛盾の関係〕になります」。(『小論理学』121節 付録)
「差異」の立場とは次のように説明される。
「日常の意識は区別された諸項を互いに無関係なものと見なしたりします。例えば、『私は人間であり。私の周囲には空気、水、動物。その他いろいろなものがある』という言い方がされます。このように言うと、すべてのものがバラバラになってしまうのです」。
その深まりとは、「対立」の段階に進むことである。
「哲学の目的は無関係性を追放し〔諸事物を無関係な並存にとどめておかないで〕、諸事物の必然性〔必然的関係〕を認識し、ある物の他者がその物固有の他者として対立して現われるようにすることです」。(以上、『小論理学』119節付録2)
この「対立」の関係でとらえていく段階では、肯定的なものと否定的なものとが対立するのだが、この具体例としてヘーゲルは自然科学の示した二極性を挙げる。
「肯定的なものと否定的なものとはその本質からして互いに制約しあっており、相互の関係の中ではじめて存在するものなのです。磁石の北極は南極なしにはなく、南極は北極なしにはありえません。もし磁石を切断しても、一方の断片に北極、他方の断片に南極ができるのではありません。電気の場合でも同様で、陽電気と陰電気とは独立して存在する二つの異なった流れではありません」。(『小論理学』119節付録2)
この二極性において、すでに矛盾が現われている。それは区別と同一の直接的な統一だからである。それは根拠に内在している矛盾の深まりでもある。
これが社会科学の例になると、矛盾は深まり、同一性が浮き出てくる。
「〔肯定的なものと否定的なもの〕には絶対的な区別があるかのように思われがちです。しかし、両者は本質的には同一のものなのです。ですから、肯定的なものを否定的なものと呼び、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできるのです。
例えば債権と債務とは、二つの互いに別々な特殊な種類の財産ではありません。一方の人、債務者においては否定的なものが、他方の人、債権者においては肯定的なものなのです」。(『小論理学』119節付録2)
ここでは対立は、その奥にある同一性を示している。根拠はこうした同一性にまで深まっていく。
さらに、根拠として、肯定と否定という正反対のものが挙げられるようになる。
「同一の内容に対してそれを肯定する根拠と否定する根拠とが挙げられる」(『小論理学』121節 付録)場合は、そこに矛盾があり、その関係が問われる。社会問題では、それは深刻な対立になる。
「たとえば盗みという行為を取上げてみますと、盗みというのはいろんな面をもった内容です。〔第一に〕それによって所有〔権〕が犯されるということ、しかし〔第二に〕困っていた盗人は盗みによって自己の欲求充足手段を手に入れるということ、更に〔第三に〕盗まれた人はその盗まれた物を正しく使っていなかった〔だから、その物にとっても盗人が使った方がよい〕という場合もありうること、などです。
〔これに対して〕ここでは所有〔権〕が犯されたということ〔根拠〕が決定的な点であって、他の根拠はこの根拠に劣るということは。たしかにそうでしょう。しかし、根拠の思考法則〔自身〕の中にはどの根拠を決定的とするかということは入っていないので〔あって、根拠律の立場ではどの根拠も同等なので〕す」(『小論理学』121節 付録)。
こうした複数の根拠は、相互に対立し、矛盾しあっている。この対立・矛盾は、人間社会における「所有」とは何か、の理解によってしか解決できない。それは人類史における所有の始まりから、近代社会の成立までに関わってくるだろう。
しかし大切なことは、ここで矛盾に気づくことがなければ、その先には進めないということだ。
「根拠の思考法則〔自身〕の中にはどの根拠を決定的とするかということは入っていない」。ここに根拠の限界の自覚が生まれている。このことが重要である。
さらに巨大な対立関係がある。
「例えば、無機的自然はたんに有機的なものとは別のものと考えられるべきではなく、有機界の必然的な他者と考えられなければなりません。両者は本質的な相互関係の内にあるのであって、そのいずれもが、他者を自己から排斥し、しかもまさにその排斥することによってその他者に関係する関係の中でしか存在しえないのです。同じように、自然も又精神〔人間〕なしにはなく、精神〔人間〕も自然なしにはないのです」。(以上、『小論理学』119節付録2)
ここには巨大な矛盾がある。自然から人間が生まれ、自然から精神が生まれる。その生成は、同一律や矛盾律からすれば、とんでもない矛盾である。そして、そうした生成の中でも、人間が生まれ、精神が生まれたこと以上の謎はない。その根拠を考えるならば、自然史的な関係、人間とは何かを正面から問うことになっていく。それが人間の概念であり、自然の概念である。
7.矛盾の立場と思考の諸段階
以上の例を踏まえて考える時、ここには対立から矛盾の関係への深まりがあり、それが認識の不十分さを自覚させ、その先へと認識を推し進めることが理解できる。
こうとらえるヘーゲルにとっては、矛盾とは世界の運動の核心であり、したがって矛盾は認識の上でも核心である。
「一般に世界を動かしてきたものは矛盾である。矛盾が考えられないというのは笑うべきことである」(『小論理学』119節付録)。
矛盾を中心に据え、すべての根底において考えようとするヘーゲルの基本的立場がここに宣言されたのである。しかも、悟性的な考え方の中から、その内部の対立と矛盾によってそれが崩壊する中から。
実は、この矛盾による運動と、それによる矛盾の克服という展開は、ヘーゲルの論理学の最初から最後までを貫いている。この関係の深まりが、実は発展であり、その思考の諸段階をその順位に従って示すことが、ヘーゲルにとっての課題だったのである。
ヘーゲル哲学はだから、矛盾を根底に置いた哲学であり、それゆえに「弁証法」と呼ばれる。
ちなみに、この矛盾による運動と、それによる矛盾の克服という方法を、認識の上での最大の武器としたのが、マルクス、エンゲルスの唯物史観であり、唯物弁証法であった。そしてその成果が、階級闘争の理論と社会主義社会の到来の必然性の証明である。その最終結論は間違いだったが、その認識方法は人類への巨大な貢献である。
矛盾による運動と、それによる矛盾の克服という展開、この関係の深まり、発展にしたがって、思考の諸段階をその順位に従って示すことが、ヘーゲルにとっての課題だった。
「論理学の仕事とは、たんに表象されただけであるが故に概念で捉えられておらず証明されてもいない観念を、自己規定しゆく思考の諸段階として示すことでして、それによってそれらの観念が概念で捉えられ証明されるのです」。(121節 付録)
だから、ヘーゲルは、ライプニッツが充足理由(根拠)律(すべてのものはその十分な理由を持って存在する)を主張したことを、論理学全体の発展の中に位置づけようとする。
「ライプニッツが十分な根拠ということを主張したが、ライプニッツが主張した考え方は、概念的に認識することが求められている所でたんなる根拠を持出して事足れりとするような形式主義の正反対のものです。これについては、ライプニッツは作用因と目的因とを対置し、作用因にとどまっていないで目的因にまでつき進めと主張しました。この区別で考えると、例えば、光、暖かさ、湿りけは植物の成長の作用因ではあるが、目的因と見なさるべきではなく、この目的因は植物の概念自身にほかならないというようなことです」。(121節付録)
ヘーゲルは、作用因も目的因も、その他の根拠とともに、まずは根拠として取り上げ、その上で、作用因を本質論の中核に位置づけ、目的因を概念論の中核に位置付けていく。
8.根拠の立場
矛盾の立場、発展の立場に対して、「根拠」にとどまり、先に進もうとしない態度が「根拠の立場」であり、それをヘーゲルは批判する。「根拠」そのものが問題なのではない。
人がすべての変化する現象の中にあって、永久に変わらないものを問題にし、現象の理由を問うこと、そこからすべてが始まるのである。その時、理由として挙げられるすべてがまずは、根拠として取り上げられる。すべては根拠の段階から始まる。
問題はそこにとどまるか否かだけである。
根拠の不十分さを最初から分かっている人はいない。その不十分さ、問題点に気づき、それを克服していけるのは、何よりも、その不十分さ、問題点に気づいたからなのである。
どのように気づいたのか。区別の深まりによって、対立するものが根拠にされ、矛盾が起きているからである。
しかし、実際は、哲学や諸科学のほとんどは、根拠の立場にとどまっている。うすうすは問題に気づいているのだが、「もまた」によって誤魔化し、開き直るのである。ヘーゲルが批判しているのは、そうした態度である。それは真理に対する不誠実さだからである。
9.全世界は自己同一であり、自己区別の世界である
反省論で示された自己同一と自己区別とは、一般に比較が原理的に可能な根拠なのであり、同一律などの根拠なのだが、さらに根源的には、この世界に関係があること、すべての存在は相互に関係し、それらの複数の内的根拠もまた相互に関係しあうことの根拠になっている。
私たちの世界では、すべての存在するものが相互に関係しあっており、それぞれはその関係の中で相互の本質を映し合っている。こうした関係を、ヘーゲルは「反省」とか、「反照」とかと呼び、これを本質論段階のすべてにおける運動としてとらえている。
反省というと、外面から内面に向かう関係だけをさすように思うかもしれないが、ヘーゲルが言っているのは、すべての関係は本来は「反省」「反照」の関係だということである。
この世界では、存在するすべては他者との関係の中にあり、その関係の中でその内的本質を表している。すべてのものは、すべてのものと関係し、そうした関係の中にすべての本質が現れている。関係とは、内的側面と外的側面とのものだけではなく、外的側面の多様な存在同士の間にも、内的側面とされる本質の諸側面の間においても関係している。すべてがすべてと関係している。これが私たちの眼前に展開する世界である。
この根拠は、すべては自己同一、自己区別の関係にあるということである。この世界は自己同一、自己区別の世界である。
すべてのものは、すべてのものと関係し、そうした関係の中にすべての本質が現れている。しかし、もしそうした関係性だけが絶対的なものならば、そこからは相対主義、多様性の立場しか生まれないであろう。
すべては、その相手次第、その関係次第で、変わってしまうことになるからだ。ヘーゲルがめざしたのは、関係の中に、絶対的真理が確固として存在することだった。それは「この世界は自己同一、自己区別の世界である」ということからしか導き出せないだろう。しかし、 このことはただちには、理解できないだろう。
これは、ヘーゲルの立場に立てば、神がこの世界を創造したからというキリスト教の世界観からの結論なのであろう。しかし、生物学者の今西錦司のように1つの地球からその後のすべてが生まれたのだから、すべては1つであり、そして多様な世界でもある、という主張もあり、これならマルクス、エンゲルスの唯物論の立場からも受け入れられるのではないだろうか。
この世界のすべてのものは、すべてのものと関係している。すべてはそもそも同一のものだからである。しかし同時に、分裂し、多様なものとなっているからでもある。そうした関係の中にすべての本質が現れている。外的世界と内的世界も、同一であり、区別でもあるからだ。
ここまでを、ヘーゲルとライプニッツは、同一と区別の規定からとらえている。
だから、最初からこの世界は1つであり、その1つが多様な世界になったのであり、それは1つの実体の多様な現れであり、必然的な関係がある世界に決まっているのだ。そしてその世界では、1つの実体、つまり中心があり、目的がある。それが私たち人間であることが後に明らかになっていく。
10.本質論における現象論と現実性論
以上がヘーゲルの本質論冒頭の反省論に書かれている。これが本質論全体への序論になっている。
ここでは、同一と区別を取り上げることで、形而上学の3大法則を批判し、根拠の立場の不十分さの指摘と、その克服の道を示すことになっている。それは矛盾の立場からの批判と克服であった。
そして、根拠の深まりを、哲学や諸科学において実際に具体的に展開するのが、反省論の後に置かれる、現象論であり、ラストに置かれる現実性論である。これが本質論段階での深まりであり、それを克服した概念論が続いていく。
関係を深めていくためには、それが部分的な関係から、より全体的な関係へとならなければならない。
それは空間的にも、時間的にもそうであろう。現象と本質の関係では、それが法則、自然法則や社会法則としてまとめられる。
それがさらに深まり、時間的にも、現在を大きく超え、最終的には生物の歴史、地球史の規模になっていく。そこでは1つの実体が、自己を実現していく。それが現実性論である。
存在するものが根拠からとらえ直された時、それが現象世界として現れる。これが現象論の段階であり、私たちの普通の意識に現れている世界である。
現象世界は存在論の世界が、本質論において、その内的根拠(本質)に媒介されて現れたものである。ここで現れる本質は、法則としてとらえられる。現象世界は多様に変化する世界だが、その中に変わらない本質、固定した本質としてとらえられたのが法則である。
この現象世界では、存在するものは相互に関係しあっている。AとBがある時、AもBも相手との関係の中で理解できる。自己に反省すると同時に他者に反省し、相互に根拠と根拠づけられるものとして関係する。相手によって初めて自分の存在を持つ。この関係が「反省」「反照」であった。
この段階の相関関係として、ヘーゲルは全体と部分、力と発現、内と外を示し、その内・外関係が1つになった段階として、最後の現実性を導出する。
現象世界が、世界の始まりから終わりまでを1つに貫く実体の現われとしてとらえられる時、そこに現実性論の段階が現われる。
現実性論は、世界をその全体として、1つの実体とその展開としてとらえる段階である。関係そのものがどのように生まれてきて、どうなっていくのか、関係そのものの発展が、可能性→現実性へととらえられる。反省論にあった根拠の立場とは、ここではまず可能性、偶然性として現れ、それの深まりが必然性、現実性として展開していく。
それは根拠の偶然性の克服が、まさにここで問題になっていることを示している。
この段階の相関関係として、ヘーゲルは実体とその現れ、原因と結果、相互関係を示している。
この段階を、ヘーゲルは必然性の深まりとしてもとらえ、それを止揚した段階として、次の概念論を出す。実体は主体としての概念に、必然性は自由へと止揚される。
2019年10月10日