9月 13

この夏は、中井ゼミ、ヘーゲルゼミのメンバーとともに、牧野紀之編『ヘーゲル研究入門』のテキスト3つを読みました。

それに参加したゼミの仲間たちの感想を掲載しました。

集中ゼミの感想 

1 誰かの考えで弱さを隠す   鈴木 蕗子
2 自由への衝動        鈴木 明規
3 「自己肯定感」のまやかし  田中 由美子
4 哲学が哲学になっているか  塚田 毬子
5 悪だけが正解を立てられる  高松 慶

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◇◆ 1 誰かの考えで弱さを隠す   鈴木 蕗子 ◆◇

「精神の自由とは、静止した姿にあるのではなく、自由を否定しようと脅かすものを、たえず否定し続けようとする活動にあるのだ。自己を生み出すこと、自己を自己の対象とすること、自己を知ることが、精神の仕事である。」

 自由を否定しようと脅かすものに、私はこれまで自分の居場所を奪われるのが怖く従っていた。中井ゼミに入り、組織の長と対立し続け、親に初めて意見を伝えた。私は、私を否定するものから解放されたと思っていた。
 しかし、自分の中に私を支配している考えがあった。知らないうちに、これまでの生き方を繰り返していたことにしばらく経ってから気がついた。一つ、二つ闘っても得られるものでない。これはやって、あれはやらないと中途半端な生き方をしても得られない。たえず否定し続ける、そんな覚悟がないやつは、満たされることのない人生を送ればいいとヘーゲルに言われていると思った。
 自立を阻むすべてのものと闘う覚悟を持つのか、持たないのか。一方は、たえず否定に立ち向かい、問いを立て、自分の答えを出していく、他方は、否定から逃げ、反抗し、否定しないものと関係する。私は、覚悟を持たないで、否定から逃げて、自分の弱さを隠してきた。しかし、いつもそこには、自分の意志で生きられない虚しさがあった。私は、これまでの生き方をやめ、自立を阻むすべてのものと闘う人生を生きたい。

 そして、「自己を生み出すことが、精神の仕事だ」と誰が今までこんなことを言ってくれたか。ある思想を信じなさいと教える宗教は、いくらでもある。問いを出しても、言いくるめられ、縛られていく。自分の思想を作ること、そんなことがあっていいのか。他者の考えを借りるのではなく、意識的に自分の考えを作っていく、それをやらないとこれまでと同じく、風に揺られ漂ういのちで終わる。

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◇◆ 2 自由への衝動  鈴木 明規 ◆◇

 私はよく、なぜ中井ゼミに入ったのかということを考える。私は過去に3回、中井ゼミに入ろうとしたことがあった。1度目は、20歳で大学の看護学科を辞めたとき、2度目は、看護専門学校を卒業後に救命医療を目指して大学病院に就職したとき、3度目は、大学院を修了し総合病院の麻酔科医局で麻酔看護師として働いていたとき。なお、このうち前者2回は、中井ゼミの参加に必要な自己紹介文を書けずに参加を諦めた。

 3回のうち、いずれのときも私の意識の中にあったのは、鶏鳴学園で論理的思考を身に着ければいつかは医学部に入れるのではないか、たとえ入れなくてもどこかにたどり着けるのではないかという浅はかなもの。ヘーゲルは名前こそ知っていたが、その実態については何も知らなかった。しかし、3度目に中井ゼミに入ろうとしたとき、前の2回とは違うことがあった。つまり、私には、看護師として救命医療を目指す中で見えてきた問題意識があった。それは、救命医療の対象となる病気の背景に、そもそもその人の生活や社会の問題があり、その問題自体に対処するべきではないかということ。また、法律上、診療の補助行為にとどまる自身の現状、つまり、麻酔科診療の中では、自分で判断をし、自分で責任を取るということができないという私の現状に対する問題意識だった。今思えば、このとき既に私の中には自由の感覚、自分で押しつぶして潜在的になっていた自由への衝動があったように思う。

 中井ゼミに入った翌年、中井さんに指導を受ける中で、私の潜在的な衝動が息を吹き返した。父に手紙を書いたことで、私が医療の道に進むきっかけになった母の死が、父の言う交通事故死ではなく、産後うつの末の自殺であることが分かった。私は、それまで目指していた身体的な意味での救命を反省し、患者の病気や死の背景や、それらが周囲の人間に与える影響をも含めた全体を対象とした医療をやりたいと思うようになった。そう思い、松永さんに指導を受けながら受験勉強をしたことで、医学部にも受かった。中井ゼミでヘーゲルを読む中で、コロナ感染患者の看取りの問題に向き合う中で、自由を感覚や衝動で感じるのではなく、意識的に考えるようになった。

 今思えば、私は無意識に、親の価値観から自立し、自分で自分のやりたい医療を作りたくて中井ゼミに入ったのだと思う。ヘーゲルの言う本当の自由、民族精神、世界精神を認識するにはまだほど遠いが、自分の中にある不足、限界と意識的に向き合いながら、自分のやりたい医療を1歩1歩作っていきたいと思っている。

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◇◆ 3 「自己肯定感」のまやかし  田中 由美子 ◆◇

 私はText3、『精神哲学』序論の第5節のゼミを中心に取り組み、また、Text2、『小論理学』24節のゼミにも参加した。

 今回私にとって最も切実だったことは、私たちはヘーゲルの示す成長、発展の三段階の、さいごの三段階目まで進めるのかどうかという観点だった。それは何より直接私自身の成長の問題であり、また、私はエンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』を起点に、家族が社会との関係の中でどこから来てどこへ向かうのかというテーマに取り組み始めようというところだが、中井さんは、マルクス、エンゲルスはその三段階目に結局は届かなかったと見ているからだ。現実をリアルに科学的に暴いた彼らにして。
 ヘーゲルの成長の三段階とは、まず、親や世間と一体の、無垢で無自覚な第一段階から始まり、次に、区別、分裂が生まれ、個人が芽生え、自分の中での葛藤や他人との対立、闘争に至る第二段階、そして、その激しい闘争の最中で自らを真に自立した個人へとつくりあげるのが第三段階である。それは、個人が個人として生きられる社会をつくるための仕事ができるような段階ということでもあるだろう。
 中井さんは、人間の成長をこの三段階で示したこと、その三段階目を示したことがヘーゲルの最大の功績だと話した。ヘーゲルのように二段階目の次をとらえて示せなければ、結局は第一段階に戻るしかなくなるのだと。私たちは人間だから、もうその元の無垢へは決して戻ることはないのに。

 ヘーゲルは『小論理学』24節で、その三段階の必然性を旧約聖書の創世記から説く。人間は誰もが第二段階の分裂、自己内二分には至るのであり、それがキリスト教の「原罪」だという。中井さんの解釈も加えると、人間は神なる蛇にそそのかされて知恵の木の実を食べ、めでたく分裂して恥を知り、つまり人間になる。そして、一体性に閉じ込められた「楽園」からめでたく送り出され、労働して自立していく可能性を授けられ、つまり、神に大いに祝福されたのだと。人は内的二分により苦しみ、悪を為し、しかしまた、その内的二分、精神の労働によってのみ救われるのだという。
 また、性善説と性悪説の違いについての中井さんの話にも興味をひかれた。それは人間が生まれながらに善なのか悪なのかという違いではなく、性善説は、人間の成長を二段階で考える立場であり、性悪説は、それを三段階で考える立場なのだという。牧野さんやヘーゲルの文章の中にも時折のぞく、善悪を並列するとらえ方ではない。また、人がどの立場に立つのかは、その人の能力にかかっており、能力不足なら第二段階を超えられず、人間の概念とは無関係の、よりマシに、という小手先の話になってしまうのだと。耳が痛い。

 そして、『精神哲学』序論の第5節に、ヘーゲルがその第三段階の自立を説明する箇所がある。精神、つまり人間は、自らが媒介されているように見える他者、つまり自然や親、師などの恩を堂々と忘れてすべてを止揚、併合し、それがたんに自らによって存在しているに過ぎないものへ引き下ろし、完全に自立するのだと。自立のなんと厳しいことか。
 また、同じ第5節の別の箇所では、成長、発展の三段階が、「肯定」、その「否定」、そしてその「否定の否定」として表現され、その第三段階の絶対的否定性こそが自己自身の無限の肯定だとする。
 この自らの無限の肯定、「die unendliche Affirmation seiner selbst」の箇所を読んだときに、世間で長らく流行っている「自己肯定感」への違和感の意味がはっきりした。「自己肯定感」が大切だと言ってみたところで、また、それが幸運にも幼少期にどれほど大切に育まれることがあったにしても、人間は思春期にいずれ分裂するのであり、他人とも対立する。その中で自分で自分自身を否定し、その否定の否定として代案を出すことをやり遂げ続けるのでなければ、自分を本当に肯定することなどできないのだ。自分が苦しんだ、家庭や社会の問題と闘うこともできない。

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◇◆ 4 哲学が哲学になっているか 塚田 毬子 ◆◇

 今年8月に行われた集中ゼミで、牧野紀之の『ヘーゲル哲学入門』テキスト2を読んだ。ヘーゲルの『小論理学』24節が引用されたテキストだ。悪について書かれ、面白く読んだ箇所だと記憶していた。今回の集中ゼミでは、中井さんからヘーゲルに対する批判が今までになく目立った。
 ここではヘーゲルが自分以外の考えを否定するところから始まる。しかし、その限界を内在的に示すのではなく、それに自分の考えを対置していくやり方に留まっている。これはヘーゲルが否定する悟性的なやり方そのものであり、相手と同じ土俵で戦っているに過ぎない。これへの中井さんの批判を聞くと、ここでのヘーゲルのやり方は間違いだとわかる。それは、ヘーゲルが自身の哲学の立場に反することを行っているからだ。
 ヘーゲルがやっていることが何かおかしいとしても、当のヘーゲルがこう展開することを選択した、それには必ず理由があるのだからその理由を考えろと思うことがあるかもしれない。他人の仕事を評価するとき、他人がした選択に疑問を持つとき、しかし他人はこの選択をしたのだ、それには意味があるはずだと考えることも必要ではある。これを全くやらなくて良いというわけではない。しかし、これを単に尊重すると多様性の立場に陥る。この考えは、哲学として行われているものはすべて哲学だという前提に立っていて、つまるところこれは哲学だから正しいのだという結論しか出せない。「哲学とは何か」が問題になれば、それに合わないものは間違っている。なぜなら、哲学という名目で哲学ではないことをやっているからだ。ヘーゲルはまさにこの点を問題にしたはずであるにもかかわらず、その問いに自身が答えていないのだから、間違いだと言うべきであり、哲学になっていない哲学を批判しなければならない。
 このレベルの批判は、ヘーゲルと同じ以上の問題意識を持つ人間にしか出来ないことであり、中井さんという先生の補助線をもってヘーゲルを読んでいることでとんでもない楽をしているような感覚を覚え、しかし中井さんが問題とすることを理解できるようにはなってきた自分に成長を感じた。
 「哲学とは何か」という問いは、主語を変えてすべてのことに当てはまる。自分のやる仕事が、その本来の姿に食らいつくようなものでありたい。

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◇◆ 5 悪だけが正解を立てられる  高松 慶 ◆◇

 私はこの夏に4年勤務してきた葬儀社を終えて、「研究者」になるための学習・活動に集中している。私が根本とする考えは、ヘーゲル哲学であり、発展である。その学習の始まりとして、今回の集中ゼミでは『研究入門』3つのテキストすべての学習会に参加した。
 
 今回テキスト2で「善悪とは何か」がゼミで取り上げられた。ヘーゲルは善と悪を全く区別された形で最初から存在するものであるかのような書き方をする。つまり、人間が葛藤するときは、目の前に分岐点があり、一方に光り輝く善があり、他方に悪が手ぐすねを引いて待ち構えている。その分岐点が自分自身の中にもあり、自分の自然な欲求は悪に向いているのを、なんとか善に社会性などの理由で引っ張っていく。こうヘーゲルはイメージしている。
こうした善と悪とを相互外在的にとらえるやり方を、中井さんは批判している。最初に善悪があるのではない。人間が葛藤する過程は、悪そのものであり、圧倒的であると。

 まず、自分の生き方について、二者択一の選択をしなければならない時、その選択をする過程において、葛藤がある。この選択段階でどちらが善か悪かは、その人にとって本当の意味で明らかになっていない。わかっているとしても一般論レベルであり、個々人の人生でどちらを選ぶのかという点では、2者は全くの等価であり、ゆえに揺れる。これが悪である。
 そして選択をしたら、その選択をもって社会を生き、社会に対立を起こす。この対立、矛盾が、悪である。他者との対立が引き起こされ、自分自身の選択が検証される。その対立の末に結果として社会が前に進んだというとき、ようやく1つの善が実現しているといえる。
 
 中井さんは以上のように代案をまとめていた。善悪は本来最初に目に見える形で存在しないのに、するかのように考える人はおかしい。たとえば、「正解」を予め設定し、そこに自分の身の振り方をあてはめる、更には他人にその正解を押し付けるのはおかしい。
 本当は、善と悪とは最初から区別されているものではない。私たちは悪から始めるしかないのだ。それが大変だと思った。

 私が葬儀屋に入ったときの問題意識は、端的に書けば「人が節目を節目として生きるとはどういうことか」だった。その問題意識から問題提起、提案を行った。たとえばコロナによる死亡者でも葬儀を行っていいと厚労省ガイドラインで示されていたのに、都内の葬儀社や火葬場が自分たちの責任ではなくガイドラインのせいにして葬儀や火葬の立会いを認めていない、であれば認めているところを参考にした学習会をせめて開くべきではないかということ。学習会組織の提案はいずれも却下されたがやり切った。
 だが、それらの提案を一応、何回かやりきったいま、この提案した思いを活かし、更に自分で学習会を組織していけるような能力を作っていこう、そのために会社を辞めて勉強に専念しようという局面になったとき、当の私は揺れた。本当に自分はやりたいのか、やれるのか、わからなかった。分からない中で、中井さんからの批判もあって、会社を辞めた。
 こうした葛藤はもちろん学習会を提案した際にも都度自覚し、また中井さんから批判を受けてきた。だがこの葛藤が、自分の生きる場所を自分で作るか、他人が用意した場所に乗っかったままで生きるかという選択のレベルで、現れた。結果として、自分で生きる場を作る道を選んだ。だが本当に選んだだけで、実際どこまでやれるかは、今わからない。
 ここまで踏まえると、問題提起をしていた際も、葛藤の乗り越えはまだまだ小さいまま、私の中で「正解だ」と思うものに私が身の振り方を当てはめていき、他人にも私の考える「正解」に従うことを求めてきたことが分かる。覚悟も小さく、能力も低かった。大きく見れば、今もその葛藤を胸の内に抱えている。
 だが、ではほかに自分を作っていくやり方があるのか。ない。いまの自分では「正解」なるものがそうでないものと等価でしかないことを自覚し、そのうえで、なぜ自分は正解なるものを選ぶのか、その答えを出していくこと。これしかない。
 葛藤を一応持てる人が、とりあえずでも正解を出そうという運動を起こすことができる。そこからしか始まらない。「正解」を自分に当てはめていくことの何が問題かと言えば、自分がどう転ぶかわからないにもかかわらず、自分が正解そのものを生きているかのような顔をすること、葛藤の自覚がないこと。

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