8月 30

2016年の秋には、初めて仏教を学習した。『摂大乗論』に関する卒論の指導をする必要があり、
仏教に向き合わざるを得なくなった。
これまでは、仏教についてはなかなか本気になれないし、その経典や概説なども読む気にならなかった。
ヘーゲルが仏教を抽象的普遍としてバカにしているし、私自身も従来の日本の葬式仏教への軽蔑の念があったからだ。
もちろん、仏教(大乗)が中国、朝鮮、日本へと伝播していき、日本において空海、最澄、栄西、道元、日蓮、親鸞
を生んだことを重く重く考えなければならない。それは当時の日本で思想という名に値するごくわずかの成果だった
のだから。鎌倉時代の仏教の沸き立つような時代を思うと、仏教の根源を理解したいという思いはあった。

さて卒論指導だが、本人が仏教の宗派の中では唯識に関心をもっており、卒論の計画では最初は比較思想の観点から
カントと唯識を比較するなどしてお茶を濁す予定だった。『仏教の比較思想論的研究』の中の東大の玉城康四郎の
「カントの認識論と唯識思想」を下敷きに、実際にカントと唯識を比較して、意見をまとめる。
しかし、玉城の論考はあまりおもしろくなく、本人のやる気に火をつけることができなかった。
そこで、最終的には本人が強い関心を持っていた唯識の経典『摂大乗論』をしっかりと読むことにした。

『摂大乗論』は4世紀にインドのアサンガ(無着)によって書かれた大乗仏教の概論、総論の書である。
当時の新思想である唯識の立場から仏教を総括し、唯識の初期の段階でその立場を打ち立てたものである。
仏教の経典中の最高峰との評価もあり、これを読むにあたっては最低限の準備が必要だった。
中央公論社の『世界の名著』シリーズから「原始仏教」「大乗仏教」の巻の解説と収録された経典を読み、
『仏教の思想』シリーズから、2巻『存在の分析<アビダルマ>』 、3巻『空の論理<中観>』 、4巻『認識と超越<唯識>』と、
中村元の『ナーガールジュナ』(人類の知的遺産 講談社)などの概説書、橋爪大三郎と大澤真幸による『ゆかいな仏教』
(サンガ新書)などを読んだ。
 その上で『摂大乗論』を読んでみた。そこで考えたことをまとめておく。

■ 目次 

「悟り」の根本矛盾 (仏教を考える)

1.唯識と『摂大乗論』
(1)仏教の展開史における唯識
(2)アサンガの『摂大乗論』
(3)三性説
(4)アーラヤ識
(5)後得智と不住涅槃
(6)ブッダと中観と唯識
※ここまでを本日掲載。

2.仏教とユダヤ教・キリスト教
(1)言葉への不信
(2)人格神の意味 内的二分と外的二分の関係
(3)「悟り」の矛盾 3段階の発展 
3.比較宗教学、比較思想
(1)比較思想の難しさ
(2)『ゆかいな仏教』は自由にしてくれる
(3)宗教と哲学や科学とは何が違うのか
※ここまでは明日に掲載。

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「悟り」の根本矛盾 ?仏教を考える?

1.唯識と『摂大乗論』

(1)仏教の展開史における唯識

 仏教は全体としては次のような展開をした。

ブッダ→ 小乗仏教→ (アビダルマ)
       大乗仏教 (中観派 唯識派)→ インドでは完成
                           中国、日本に伝来

ブッダ(紀元前5世紀)の教えは弟子たちにより編集され経典としてまとめられ、その布教活動は継承された。
その人生観、世界観、悟りの方法は、法(ダルマ)として整理されたが、その詳細な分析と体系化が僧侶たちの
中のエリート集団によって数世紀にわたり進んだ。その体系をアビダルマと称するが、それは実在論的であり、
スコラ哲学的な抽象的形式主義が支配的である。
それを小乗と批判し、自らを大乗と称した一派が現れる。そこから2,3世紀に「空」の思想の中観派(ナーガールジュナ)、
さらに、4,5世紀に唯識派が生まれた。「空」の思想はアビダルマの実在論を徹底的に批判し、それを継承した
唯識は仏教のインドでの展開の完成と言える。
その後7,8世紀から9世紀にかけて派生的な密教が栄えたが、それを最後に、12世紀には仏教はインドでは消滅した。
しかし、仏教は中国、朝鮮から日本に伝来し、新たな展開をもたらすことになった。7世紀の中国唐において、
日本では12,13世紀の鎌倉仏教などで大きな発展を見せた。

(2)アサンガの『摂大乗論』

4世紀のアサンガ(無著)の『摂大乗論』は、唯識の初期段階において、その基礎を打ち立てたものだ。
後にアサンガの弟ヴァスバンドゥ(世親)は、『摂大乗論』を基にして細部まで体系化して、ここに唯識は確立した。
『摂大乗論』は、唯識の立場を初めて打ち立てた重要な経典である。今回私が読んだのは長尾 雅人(訳)
『摂大乗論─和訳と注解』 (上下) (インド古典叢書 講談社 1982/06)である。
『摂大乗論』の理論編から読んだのだが、最初の方は非常に難解に感じた。しかし、ところどころ、
わかるように思う箇所があり、そこでは感心した。そこにヘーゲルの発展観と近いものを感じたからだ。
ヘーゲルの発展、矛盾とそれゆえの運動、悪の運動といった考え方と、よく似た考え方だ。4、5世紀の段階で、
発展の考え方と人類の普遍的運動、つまり真理を実現する運動をとらえ、それに自分が参加して生きる生き方を
説いていることに感心した。
しかし、他方で、聖書(旧約と新約)の強烈な面白さと比較すると、これはずいぶん退屈な本だとも感じた。
その理由は、ここには現実のリアルな問題が出てこないことによる。教団、組織、金(財源)などの話題がない。
自分たち内部にもたくさんの汚染や矛盾があっただろうに、その具体的な描写は全くない。中世のスコラ哲学の
神学論争のような雰囲気(坊主主義)がある。カースト最高位のバラモン階級の出身のアサンガによる坊主イデオロギー
ではないか。
 ただし、面白くないと感じながらも、この唯識と『摂大乗論』が後に果たした大きな役割のことも考えた。
仏教(大乗)は元々のインドでは12世紀に滅んだが、中国、朝鮮、日本へと伝播していく。当時の日本では、
およそ思想と言えば、仏教の関係者以外からは生まれていないのではないか。であれば、ここには坊主主義以上
のものがなければならない。

(3)三性説

『摂大乗論』は全体が理論編と実践編に分かれる。
 その第1章と第2章が理論編で、3章以下最後の10章までが実践編である。
理論編の第1章は人間の意識の構造、第2章が三性説の説明で、世界・社会の構造を説明している。
 第2章では、この現実世界を3種の実存(三性)として示す。それは現実世界という実在する世界であるが、
その認識世界でもある。ここには存在論と認識論との明確な区別はない。両者は混然一体となっている。

      妄想
依他起
      成就

依他起とはいわゆる「縁起」のことであり、世界の相互関係であり、これが世界の根源的な相、基底的な実存である。
この実相が人間によって「分別構想」され、人間がそれに執着すると妄想・迷いの世界が現れる。(3節)。
その妄想が払しょくされると成就の悟りの世界が現れる(4節)。

妄想の世界は否定されるが、3つの世界は別のものではなく、実は1つであり、妄想の世界が実はそのままに
清らかな世界であるとする。そこで、迷いの世界から悟りの世界へとの転換を促すのが、依他起つまり縁起の理解になる。
したがって、修業とは、この縁起の世界を理解し、迷いの世界の中に清らかな世界が実現しているを見抜いていくことになる。
この考えには引き付けられた。現象、偶然性、多様性の中に、必然性を見抜いていこうとする、
リアルな現実感覚があると思った。仏教は「否定」だけの「抽象的普遍」という立場だ、という私が勝手に
思い描いていたイメージは壊された。
なお、世界は本来はそのままに清浄の世界なのだが、人間が「分別構想」し、それに執着すると妄想・迷いの
世界が現れるとされる(3節)。しかしそもそも世界を認識するとは、それを「分別構想」すること、つまり
「ことば」によって世界を分裂・対立・差別としてとらえることである。『摂大乗論』はこの必然性を認めたうえで、
それを超える方法を考えているのであろう。
この「分別構想」とは、人間の思考の悟性的側面がとらえられているのではないか。それは人間の意識の内的二分であり、
それは人間と世界の分裂であり、世界の分裂でもある。
 また、迷いの世界、悟りの世界、依他起の三性の示し方が気になった。普通は迷いの世界→依他起→悟りの世界とされる。
それに対して、アサンガは依他起を最初から中心に据え、その2つの現れ方として迷いの世界と悟りの世界を示した。
これ自体は悟性的だが、ここにある示し方に媒介性の意識、3段階からなる発展というとらえ方の芽があると思った。

(4)アーラヤ識

この第2章の三性説を根拠づけ、その前提をなしているのが第1章のアーラヤ識説であると思った。迷いの世界、
悟りの世界、依他起(縁起の世界)との三性は、すべて人間の意識によって生まれているから、転換が可能か否かは、
その意識のあり方にかかっているはずだ。
第1章では、人間の意識には、五感と関係する普通の意識と、その根底にあるアーラヤ識(このナカミをとらえることは
できないとされる)があるとする。両者は因果関係、相互関係で結ばれている。つまり縁起である。
前者が感覚と思考による知であり、世界は現象としてとらえられる。そうした意識でとらえたものが、
アーラヤ識に蓄積され(巨大な貯蔵庫)、それが人間の意識の根底を作り、それが世界の現れとつながっている。
こうした「アーラヤ識」という考え方は、唯識が初めて出したものらしい。
これを人間の無意識とか集合的無意識と考える現代の研究者もいるようだが、私は普通の意識を相対化し、
妄想の世界から清浄な世界への転換を可能にするためのフィクションであり原理的な装置だと思う。
アーラヤ識という巨大な根源的世界を設定し、その現象的な表出として普通の意識を設定する。
するとそこに、可能性から現実性へと展開していく巨大な運動が現れてくる。
その運動によって、妄想の世界から清浄な世界へとの巨大な運動を保証しようとしたのではないか。
それは真理が人類史全体の中で実現していく過程であり、世界全体が真理へと実現していく過程の運動であろう。

以上のアーラヤ識説から、「唯識」という名称が生まれたようだ。
人間の識(意識)は働きであり、その成果が表象である。したがって世界は表象として現れる。
その意味で、世界は唯識でしかない。
しかし、その識(意識)の根底にはアーラヤ識があり、それは世界存在の根源であり、それが妄想の世界も清浄の
世界もつくっている。その世界存在の根源がアーラヤ識にあるという意味でも、この世界は唯識なのである。
これはアーラヤ識の発展を前提として、世界の変革の可能性を認めることである。
「唯識」の意味とは本来は後者の意味なのだが、前者の意味もその前提、契機となっているのであろう。

(5)後得智と不住涅槃

さて、こうした理論編を踏まえて、その実践編が描かれるのだが、それは三性説の応用であり、その具体化である。
そしてそれは3段階からなる発展として現れて来る。
面白いのは、悟りへの修業過程の3段階である。8章では次のように説明される。
加行智(世間智)→根本無分別智(いわゆる悟り)→後得智(世間智だが清浄)
                        世間に向かって働きかける
同じことが9章では、涅槃→不住涅槃として説明される。悟った涅槃の状態にも執着せずに利他行のためにあえて
世俗の世界で働くことが求められる。

仏教の本来の修業の目的とは、妄想の世界から清浄な世界への転換を果たすために、「悟る」ことである。
悟ることによって、迷いのない清浄な世界に生きることができる。それが「根本無分別智」である。
ところが、ここではそこに止まっていてはならないとする。
妄想の世界から清浄な世界への一大転換を果たした人、つまり悟った人も、そこに止まっていてはならない。
清浄な世界そのままに、清浄な世界から妄想の世界へとの転換を果たさなければならない。悟り、つまり迷いの
ない清浄な世界に生きるだけなら、そこには分裂はないが、不動で世間に働きかける力を失う。
悟りからは世間に向けて動き、働きかけ、世間自体に本来の清浄な世界を表さなければならない。
これは「悟り」には根本的な矛盾があることを示したものであろう。しかもこの転換は、最後の悟りの段階にだけ
起こる大転換ではないとされる。修業の日々の生活で、それが無限に繰り返される過程だとする。

私はここでうなった。これはすごい。無限の発展の運動をわかっている。それは各自の日々の小さな成長から、
人類と世界大に拡大され、その発展にまで到る。
人は清浄の世界からそのままに、妄想の世界で生きなければならないのだ。それが真理への到達の道であり、
真理を生きることなのである。それは認識だけで終わるのではなく、その実現に参加し、実際に自分自身がその契機
とならなければならない。世界の変革は、自己の変革と一体のものである。
ここを読んで、初めて仏教がわかったように思った。
また、ブッダが、悟ったのちに、しばし迷いの中になったことの意味が分かったように思った。
「悟り」を目標にすることの究極の矛盾がそこにあったのだろう。

ブッダは、個人が自らの悟りの段階に留まることを許さず、あえて世間に戻ること、世間にとどまって、
そこで仕事をすることを求めている。個人の悟りではなく、人類全体の悟りのための仕事をすることだ。
『摂大乗論』によって、ブッダの真意が初めて明らかにされたと、アサンガは思っていただろう。
これが大乗仏教の核心だろうか。

(6)ブッダと中観と唯識
 
唯識は中観派を発展させた立場だと言われる。それはどういう意味なのだろうか。
中観は2,3世紀に、インドのナーガールジュナが打ち出した思想である。
「空」の思想は「色(世界)即是空。空即是色」で有名であるが、それには、唯識の三性説とよく似た構造がある。

     存在(有る)
「空」
     無(ない)

これは、単に世界の存在を否定したのではない。世界がその現象のままに存在するということを徹底的に否定した。
しかし、それは世界存在そのものの否定ではない。世界は無ではなく存在する。しかし、現象のままではない。
この矛盾を直視することを求め、存在と無のいずれかを切り捨てて安住することを諫めているのではないか。
それが「空」の立場であり、それが「中道」ということなのでないか。中村元の概説書を読んで、そのように理解した。
「色(世界)即是空」。世界はただちに空である。しかし、これは前段に過ぎない。後段は「空即是色」。
空がそのままにこの世界である。この両面を統一的にとらえなければならない。
そうであるならば、これは唯識の三性説と似ていることがわかる。

ブッダの考えを、中観、唯識が発展させたとするならば、それは何をどのように発展さっせたのだろうか。
ブッダは、世界の根本的な矛盾を見ていた。その矛盾に耐えられない場合は、いずれか一方を取って他は切り捨てる
ことになる。また「悟り」の地点に止まり、世俗を否定して終わるだろう。しかしブッダは、矛盾に耐えよ、
そこで耐えて仕事をせよ、それが生きることだ、と伝えた。それが中道であろう。
 小乗では、その理解が浅かった。
 それに対して、大乗仏教が生まれた。そしてその矛盾の意味を深めたのだろう。
中観の空は、ただの否定ではない。世界を存在するとも、無であるともしない。その矛盾の中で、矛盾のままに
生きることを求めているのが、空の立場である。これはブッダの中道をより具体化したものだろう。
唯識の三性説も同じである。しかしそれにアーラヤ識の考えを導入することで、これをさらに空間的に全体性としてとらえ、
時間的に発展していく運動としてとらえようとしたのだと思う。
矛盾を深め、それが必然的に3段階の発展の形式になっていく。

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