2017年の夏合宿の報告です。
感じられます。
それはそのままに、ヘーゲルやマルクスの学習を深めていきます。
6人の参加者の感想を掲載します。一部仮名です。
昨日に続いて
残りの3人です。
■ 目次 ■
4.人は自らの中に否定=限界を持つ 田中 由美子
5.自分の心の動きを意識する 黒籔 香織
6.存在論の中にある発展の論理 松永 奏吾
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◇◆ 4.人は自らの中に否定=限界を持つ 田中 由美子 ◆◇
合宿では、ヘーゲルの発展の論理を、論理学のはじめの存在論などから学び、
人はどのようにして成長することができるのかを考えた。
まず、自分が何者なのかということは、自分はこれこれの人間ではないということでもある。
どういう人間であって、どういう人間ではないのかというその限界が、その人が何者であるのかという規定である。
つまり、存在することのなかに否定や他者が含まれている。否定がなければ何も存在し得ないと言える。
そうして人は自らの中に否定を持ち、そこに矛盾があるから、他のあらゆるものと同様、必然的に運動し、
変化する。自分ではないものへと変化し、しかし、それは元々自分の中にあった否定的な存在、
まだ外化していなかった自分が引き出されたのでもある。
ただし、その変化がたんに偶然的で、納得づくのものではない場合は、人は同じレベル内を虚しくさまように留まり、
自分をつくり上げるような成長にはならない。
しかし、人はその虚しい悪無限という限界も超えていくことができる。自分の限界を自らに対してはっきりさせ、
つまり限界を納得づくで、自覚的につくり出していくことで、人は人として成長する。自分の中の自らそのもの
である限界を探り当て、引き出し、明らかにすることが可能だ。そうして自分の中から自らつくり出した限界だから、
人はそれを超えていくことができる。その矛盾の運動を、自分のゴールに向けて何回でも繰り返し、深めることができるのだ。
具体的には、何を目的やテーマとして生きて、そのために誰とどのように関係していくのかを、自分自身から引き出し、
その他者に現れた自分を超えていける。そうして自分自身、すなわち自分のテーマをどこまでも深めていける。
今回の学習から、そう理解した。
そのことをもとに、塾の仕事での現在の課題の一つを考えてみた。
生徒がおかしなことをしていたら批判をするが、腰が引けてしまうことがある。特に、生徒が自分の経験を
ていねいに作文に書いてきたときに、その内容、本人の言動に問題があっても、精一杯正直に書いたこと自体を
受けとめるところに偏りがちである。
世間には子どもをほめるべきだ、そのありのままを肯定すべきだという主張があふれているが、どう考えるべきなのか。
中井さんは、否定や批判がダメだという考えは、その否定が人間の外からのものだという誤解に基づいていると話した。
はじめに書いたように、否定や限界は人間の中にある。つまり、子ども自身の中に、今のままの自分では嫌だ
という思いがある。たとえば、子どもがいじめを正当防衛だと主張すれば、そのことに気をとられがちだが、
表面に表れていることの奥に、子ども自身の自らの否定、限界が生まれてきている。正に子どものその思いを
感じるからこそ、その上に強い批判は必要ないだろうと考えがちだ。しかし、その思いの意味をどれだけ深い
レベルで認めて光をあてることができるのかが問われるのだと思う。
◇◆ 5.自分の心の動きを意識する 黒籔 香織 ◆◇
1.合宿全体
2014年夏以来、3年ぶりに合宿の4日間すべてに参加ができた。予習をする余裕はなかったが、原書講読から
参加できて良かった。自分自身に対しても「合宿に4日間参加する」と意志を貫けて良かった。自分の中に
出てきた欲求、意志を周りに流されずに、捉えて自覚し、行動することを積み重ねていきたい。
合宿は、自分の中で竹の節のように区切り、制限(Shranke)を作る場で、自分の今の状況を確認する場として
とらえている。逃げ場がなく、自分自身を追い込める場との認識があった。自己確認の場として今回の合宿を
振り返ると、おおむね仕事としては順調であることが分かった。
一方課題としては、相手に分かるように的確に話をまとめられないことと、矛盾を捉えて、その矛盾を全面的に
押し出して展開した文章を書くこと。そもそもこの矛盾を捉えることがまだまだできない。矛盾を捉えられないから、
話を的確にまとめられない面もあると思う。今回中井さんから「『心が動く』ということには、そこに矛盾がある」
とのアドバイスを受けた。仕事や文章を書く上で心の動きを意識していきたい。
2.Shranke(制限)は乗り越えた後にはっきりする
中井さんが合宿で説明した「個々のGrenzeが1つのGrenzeとして捉えて理解が深まった時、絶望となり、Shrankeとなる」
という説明が分かりやすく、心が動いた。
私は一時期繰り返し自分がGrenzeに直面しているとの文章を書いていた。すなわち、周りからの評価ばかりを
気にする生き方では、私はやっていけないということを自覚し、それに代わる生き方をつかもうとしていた。
洋食屋のマスターに週1回話して、食やサービス業の一つ一つから、マスターの人や物事の見方を学んでいた。
日々の生活に大事なものがあることを伝えられる文章を書いていきたいと思っていた。当時書いていた文章は、
感覚的に心が動いたと思って書いたものでも、具体的にどの部分で私の心が動いたかを私自身、はっきりと
とらえきれていなかったのではないかと思う。コツコツと日常に大切なことを書こうとしてきて成果を出せた
今だからこそ、当時の自分を振り返られるのだと思う。
3.根本的な矛盾を捉える
存在論を丁寧によみ、ヘーゲルが「存在」(sein)と「否定」(nicht)から一貫してシンプルに論理学を展開
している点にヘーゲルの凄味を感じた。「存在」と「否定」という根源的な矛盾を捉えて言葉にしているからこそ、
その言葉が心に残り、自分の生き方や経験を振り返って考える行動を促す力があるのだと感じた。まだ矛盾を捉える
とはどういうことなのか、がわからない。心が動くということは、私の中で運動が起きているため、
何かしらの矛盾がそこにあるということだ。心の動きを手掛かりに、矛盾を捉えるとはどういうことかを
はっきりさせていきたい。そしてヘーゲルのように人の心に届く根源的な矛盾を伝えられる文章を書けるようになりたい。
◇◆ 6.存在論の中にある発展の論理 松永 奏吾 ◆◇
ヘーゲル哲学の体系の中で、「制限と当為」が、存在論の中にあること自体に驚いた。普通の意味で、
「制限」とは、人間の意識が捉える限界のことであり、「当為」とは、制限を捉えた人間がそれを乗り超える
活動のことである。かたや、存在論は、論理学の第一部であり、後に本質論から概念論へと発展していく、
そのはじまりの部分であり、論理の基礎のような位置付けである。制限と当為は、動物や植物には関係のない、
人間の主体的な活動レベルの話であると思っていた私は、論理のはじまりのところにそれが出て来るということに驚いた。
しかし、存在がただ変化し、移行するだけだったら、そこには発展がない。発展がないということは、
「進化」もない。中井さんの解説を聞きながら、私は昆虫の「進化」のことを思い浮かべて聞いていた。
トンボは、幼生期はヤゴとして、水中で生活している。ヤゴは、水中で脱皮を繰り返しては成長し、
羽化直前の終齢になると、羽らしきものを背負った姿になる。二つの複眼の間隔が狭まったトンボらしい顔つきになり、
餌を食べなくなり、水面から顔を出し、エラ呼吸が不要になりつつあることが分かる。これらはまさに「変化」であるが、
それは、トンボ類が水中生活から空中生活へと「進化」を遂げた歴史が、個体において繰り返されたものでもある。
水中生活の限界から空中生活へ、あるいは空中生活の限界から水中生活へと、生活を変えるべき諸問題が
そこにあったはずである。トンボにとっての諸問題は、トンボの外的環境の側にあったとも言えるが、
トンボの内的環境がそれを「制限」としたからこそ、トンボは変態を遂げ、「当為」を実現した。
人間はそれを意識を媒介にして行う、という点が異なるだけであり、植物、動物、昆虫の変化は、
制限と当為の論理そのものの実現である。存在論の中に、すでに生命のもつ論理が潜在的にある。
そしておそらくは、生命誕生の前、地球の活動の中にも制限と当為の論理はある。そこから生命が誕生し、
人間が誕生し、私が生きていることの意味もすべてこの論理の中にある。すべての存在の中に発展の論理がある。
合宿中にこういうことを考えた。