家庭、親子関係を考える その3 「依存」と「自立」と 10月の読書会から
斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)をこの秋にも読書会で取り上げた。この本は親子関係が子供の人生に決定的な影響を与えることを示した点で、またアダルト・チルドレンという命名で、この問題にわかりやすいイメージを与えた点で、社会的に大きな影響力を持った。悪い親子関係は、その子供が親になることで拡大再生産されること、アルコール依存症や暴力に関して、夫婦間での依存関係を明らかにしたことなど、本書の功績は大きいと思う。
もちろん、そこには大きな限界もある。アルコール依存症や家庭内暴力などの「悪い」特殊な親や家庭だけが問題になっていて、一般化ができていないことだ。しかし、一部の「悪い」親や「悪い」家族関係だけが問題なのではなく、「良い」ケースも含めて、すべての親子関係で、親の子供への影響力が圧倒的に大きい(9割は親の影響ではないでしょうか)ことが核心的な問題ではないか。そこでは、良くも悪くも、親子の一体化が起きている。子供は親からの影響をどう相対化し、自分の生き方を選択できるのか。それが真の「問い」であり、真の課題だ。本書の例はその特殊例でしかない。
しかし、今回言いたいのは、そのことではない。「依存」「共依存」の用語法についてだ。これが一見わかりやすいようだが、誤解を与える表現ではないかと思うようになった。
これは、「アルコール依存症」という用語から来ているとおもうが、この本では「依存」即「悪」、「共依存」即「悪」、であるかのような使用法が行われている。
「依存」と「自立」は確かに正反対の言葉だが、実際の関係性においては、両者は対立するだけではなく、深く結びついてもいる。「アルコール依存症」からして、「依存」即「悪」なのではなく、「自立」の面が大きく損なわれた特殊な「依存」症状を問題にしているだけなのだ。
人間はそもそも「社会的な動物」なのだから、すべての人間は社会に、つまり他者に依存して生きている。また、「恋人」「夫婦」などの社会から一応は「閉じた」二人の関係でも、「依存」と「自立」はもちろん切り離せない。「依存」即「悪」といった用語法やイメージは、この面を見られなくするのではないか。
自立した関係とは、依存していない関係ではない。むしろ相互に正しく依存していることが、相互に自立できていることに他ならない。自立と依存は切り離せないのだ。
「依存」か「自立」か。この問題設定は間違っている。「どのような依存が真の自立につながり、どのような依存が自立につながらないのか」。これが正しい問題の立て方だ。
甘え合い、依存しあうことが問題なのではない。その関係が、病をますます悪化させていること、例えれば、デフレスパイラルに陥って抜け出せないような状態になっていることが問題なのだ。それは「間違った」依存関係だから「間違い」なのだ。
この2人の「自立」と「依存」の関係が、家族としては社会に対して「開かれた」家族か、「閉じた」家族かの問題に重なる。ここでも、家庭や夫婦関係が社会から「閉じる」ことが問題なのではない。その「閉じ方」が、正しく社会に「開かれる」ことにならないような関係が問題なだけなのだ。
こうした間違いは、ソ連の社会主義革命の初期にかなり広がったし(ライヒの『性と文化の革命』参照)、1970年代の共同体運動にもかなりあった。
斎藤環が『社会的ひきこもり』で、家族内の個人、家族、外の社会の3者を3つの円でとらえたシステム理解図は大いに有効だと思うが、それはこの3者の他の2者への「開かれ方」=「閉じ方」の全体を見渡す視点を提供したからだ。閉じていることは大前提で、その上に「開かれ方」=「閉じ方」を問うている。
私は、しばしば母子一体化の問題を取り上げ、そこでの共依存関係の問題を指摘する。親には「子離れ」を求め、子どもには「親からの自立」を求める。しかし、母親が子供を生きがいにすることが即悪いのではない。子どもが親に依存していることが即悪いのでもない。その反対の悲惨な例が「児童虐待」である。大切なのは、今の視点と共に、子育ての全体の過程を通して、子どもの自立のあり方を考えることなのだ。そこで問われるのは、そもそも「子どもとは何か」「家族とは何か」「夫婦とは何か」「その目的は何か」である。こうした本質論抜きに、状況や方法だけを論じていてもダメなのだ。
問題を、「依存」か「自立」かといったスローガン形式で示すのはわかりやすく、問題をはっきりと自覚するために有意義に見える。しかし、その結果全体を見失い、両者の根底的な関係とその本質を見失えば、かえって混乱が大きくなるだろう。問題を的確な表現で捉えなければならない理由がわかっていただけるだろうか。善意か否かには関係なく、低い論理能力は低い結果しかもたらさないだろう。