「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第4回
江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第4回。
現状維持ではなく問題提起を目指せ (下)
―中井ゼミの原則から振り返る― 江口朋子
■ 本日の目次 ■
B.各項目について
2.目標達成の方法、大きなプロセス
(2)先生を選べ、学ぶ姿勢の確立
(3)民主主義の原則
3.原則に対する態度、立場の問題
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(2)先生を選べ、学ぶ姿勢の確立
6年前に中井さんと師弟契約を行い、「先生を選べ」の原則でやってきて、この原則の威力の大きさを改めて実感する。一言でいって、自分が途中で潰れることなくここまで自分の関心を広げ、深め、ひとまずのテーマをはっきりさせるところまでこれたのは、「先生を選べ」を実践してきたからだと思う。その時々の課題をはっきりさせ、自分でやってみて先生の意見を聞いて自分で考えるということが、少しずつではあっても着実に先へ進むプロセスになっている。それは、他のゼミ参加者をみていてもわかる。
「先生を選べ」の原則と、学ぶ姿勢の自分でやって結果を出した上で批評を聞くというやり方は、今後の自分の指針になっている。例えば、短歌を作るために、あるいは和歌の歴史を学ぶために、自分一人でやるだけではなく、先生を選んで学ぶべきことを学ぼうと自然に考えるようになった。自分が何に困っているのか、何を求めているかをはっきりさせることが必要だし、先生について黙って聞くだけではなく自分でやって考えなければ自分の成長にならないということも、同じ先生から学ぶにしても、意識しているかいないかでは、得るものが大きく違うと思う。
また、誰かを評価する時にも、そもそもその人が先生を選んでいるか、それだけの強いものを持っているかどうかが一つの基準になっている。
ただ、自分が今まで経験したのは本当の意味での「先生を選べ」ではなく、その前段階として、テーマをはっきりさせる、作るための「先生」だった。本当の意味で先生を選ぶ
段階のことは今あれこれ考えても仕方ないと思うが、少なくとも自分を成長させるためのプロセスとして、先生を選ぶこと、選べるだけの疑問や課題を自覚して実際にやっていくことが必要不可欠であると学べたことは、大きな糧になっていると思う。
(3)民主主義の原則
自己理解が他者理解と一体であることは、文章ゼミを通して、ゼミの1年目から考えてきた。他人に対して何か意見を言う時、そこにはそっくり今の自分が反映されてしまう。だから、特に批判的なことを言う時は、自分にもそれが当てはまらないか考えるということには比較的注意してきたが、むしろ今の自分にとっての課題は、慎重になり過ぎて批判や疑問を積極的に言うことを避けがちであることだと思う。自分を含めて、他人に対して、全体に対して常に問題提起するということが課題だ。
感情的な言動への対応も含めて、この民主主義の原則は、鶏鳴の場では半ば当たり前のように提起され、実践されているが、他の組織ではむしろここまで自覚されていないのが普通だろうと思う。だから、例えば歌の結社のように、これから自分がどこかの組織に所属した時、この原則を頭において実行していくことが必要になってくると思う。
3.原則に対する態度、立場の問題
立場の問題も、ゼミの場で繰り返し問題になってきた。本人の自覚の有無はともかく、どんな人もある立場からしか物をみることはできない、そして多くの場合、事実上は親の立場に立っているということも、言葉としては理解しているつもりだが、しかし本当のところ、立場の問題は自分にとってまだまだ曖昧なところが多い。それは、自分がまだ本当には立場を問われたことがなく、この問題に心底悩んだことがないからではないかと思う。
ただ、「発展の立場」という言葉から思い浮かぶことが2つあるので、それについて述べたい。
1つめは自分自身のことだが、私は師弟契約をしてゼミで学ぶようになってすぐ、地球の進化に興味をもち、それについて書いた文章で中井さんから「発展を問題にしている」と言われた。その後も同じことを度々言われたが、自分では「発展」という言葉をどこかで避ける意識があった。今思うと、発展するということは、矛盾が露わになること、問題が起こったりそれに伴う苦しさから避けられないが、そうした自分に迫ってくるものから逃れたいという気持ちが強かったのだと思う。
しかし、3年目あたりに、一度自分の関心がわからなくなってそれまでを振り返るような文章を書いた時、自分がやってきたことについて、脈絡なくただ関心の向くままにやってきただけで、全体を一貫したものとして見るような書き方にならなかった。その時中井さんから、「発展に関心を持っているのに、自分のやってきたことを発展的に理解していない、しようとしていない」と言われた。その言葉は自分にとって重かったし、今でも重いまま残っている。要するに言っていることとやっていることが違うということだが、発展云々以前に、いくら言葉を重ねても、自分の言動やものの見方にその人のありのままの立場がそっくり出てしまい隠しようがないということを、身を以て経験した。
牧野さんも、ヘーゲルの言葉を「弁証法とはこういうこと」というように知識として、言葉だけで知っているのではなく、弁証法的に読んで理解できる人がどれだけいるのかという批判を述べているが、知識としていくら立派そうなことを知っていても、それを能力として身につけ自分で使えるようにならなければ意味がないということを考えるきっかけになった。
もう一つ「発展の立場」という言葉から思い浮かべるのは、鶏鳴のゼミ全体のことだ。私は今のようにゼミが行われるようになった最初の頃からゼミに参加してきたが、本当に変わってきたと思う。私の師弟契約の話が出た最初の時点では他に一緒にやっていく人がおらず一人で、その時中井さんが、一対一でやるよりは、他にも何人か一緒にやる人がいた方がいい、組織でなければできないことがあるという話をしていたが、自分にはぴんとこなかった。しかし今の状態を見ると、確かに組織となって、横のつながりもないとできないことがあるということがわかる。それは相互作用とも言えるかもしれないが、文章や報告の意見交換を通じて、参加者同士のその後の行動や考え方を変えてしまうということが実際に起こっている。
なぜゼミの場が充実するようになったのかと考えると、今まで何か問題が起きた時にそれをうやむやにせず、一つ一つ取り上げて考えてきた、その積み重ねではないかと思う。例えば2007年頃だったと思うが、中井さんがゼミ生各自の成長はあっても、ゼミ全体についてはほとんど成長していないと言ったことがあった。そしてその後に、本質論の重要性の話から、報告の仕方も改めて、そもそも報告とは何のためにあるのか、報告の目的、今の課題や実際の取り組みを整理して書くように指導したことがあった。その成果は、すぐには形になって見えてこなかったかもしれないが、報告に対するゼミ生の意識を改めて、各自の成長につながっていっただろうし、結局ゼミの参加者一人一人が成長しなければ、いくら指導者が力を入れても全体の成長はなかなか実現しないと思う。
もう一つ印象的なのは、感情的な言動に対する対応をゼミの場で話し合ったことだ。普通の組織でも、意見交換や議論の場で感情的なやり取りが行われることはあるが、それを敢えて問題にすることはない。むしろ見ないふりをしてやり過ごすか、適当にごまかして終わらせると思う。だから中井さんがこの問題をわざわざ取り上げ、感情は抑える必要はない、そこに隠れているふくみを丁寧に考えればいいという話をしたとき、本当にこの場で起きている生の問題を考えていること、実は大切で誰もが本当は気にしているけれどうやむやにされてしまう問題こそ丁寧に考えていることの意味を改めて強く感じた。端的に、こんなことをしているゼミは他にないと思った。
要するに、世間的に言えばまずいこと、厄介な問題が起きた時、むしろそこにこそ成長を促す大切なものがあると考え、その意味を全体でオープンにして話し合うということをしてきた。その場ではすぐに大きな変化は見えなくても、その積み重ねが今の相互作用の活発な状態を生んでいると思う。逆に、今一見順調なように見えても、見えないところで何か問題が起きつつあって、それがいつか表に出てくるかもしれない。ゼミという組織も個人と同じ生き物で、問題が起きたり、順調に過ぎたり波があるものだ。そして、矛盾や衝突、問題点にこそ、その先の成長の芽があると考え実践できるのは、このゼミが、正確には指導者の中井さんが発展の立場に立ち、そこからゼミで起きる一つ一つを見ているからだと思う。
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