2013年に中井ゼミで考えたこと その2
1 逃げ場としての「哲学」
ゼミの参加者に、長くフリーターの生活をしているA君がいます。もう30歳を過ぎますが、
正社員の経験はなく、バイトの経験しかありません。そして藤田省三や鶴見俊輔の全集を持ち、
それらを読むことを生きがいにしています。周囲をバカにして、「オレには学問という
よりどころがある。いつかは学問に専念したい」と考えています。
彼には次のような批判をしました。
2013年2月10日
「現実・実践」と「理論・思想」(本を読むこと)で、後者の本質的な高さにあこがれ、
それをめざす気持ちが、A君を支えたのだと思う。
実際の「現実・実践」や、世間や周囲は絶対的にはとても低く、問題をたくさん持つ。
A君はそれをバカにし、否定して、「引きこもり」生活に入った。そして、その生き方を
正当化してくれるものを本に求めた。
A君にも正しい面はある。「世間や周囲は絶対的にはとても低く、問題をたくさん持つ」
は事実であること。その否定を続けて、妥協しないで生きてきたことを評価してもよい。
だからピュアで無骨で愚直な良さがある。
しかし、周囲を否定して、「引きこもり」生活を続けることは、それ自体が低い生き方
(相手に依存して、それを自己正当化に利用している情けなさ)。正しくは、その低さ・問題と
直接に戦い、それを変えていくことだった。また、「引きこもり」にはモノローグしかなく、
ダイアログ(弁証法=思考)が生まれなかった。
その低い生き方の正当化に、本を利用するのは問題。「現実・実践」や世間や
周囲の低さや問題を的確にとらえた本や思想は存在する。そこから、自分が漠然と感じた
気持ちを言葉にしていくことは正しい。そうした理解を持つことは、世間一般よりも上の段階。
しかし、それは現実の場で正しく戦うため。
A君は「理論・思想」を悪用している。自分の引きこもり生活を正当化し、現実の場で
戦わないことの「言い訳」に利用した。
そもそも「理論は実践の反省形態」でしかない。現実とそこでの実践が根源である。
現実の中で低いながらも一生懸命に努力している世間や周囲の中には、深い真実がある。
そこに理念が隠れている。そこ以外には、現実も理念も存在しない。
それを、A君は無視、軽視し、切り捨てた。
現実の場で「労働」し、そこでの自他の問題、人間関係の問題、社会の問題としっかり
戦うことが基礎。理論、思想、本を読むことは、その現実の場での戦いを支えるためにある。
A君は、その自覚が持てずに、今に至っている。したがって、「労働」をせず、現実の場での
実績もほとんどないままである。
また、「理論・思想」のトレーニングも受けていないし、その正しい練習もしてこなかった。
本の読み方も知らず、書評すらかけない。ここでも地味な積み重ねをしてきていない。
※「理論は実践の反省形態」は牧野紀之から学んだ考えである