2013年に中井ゼミで考えたこと その6
5 表現の的確さと人格の尊厳
相互批判の中で、ある人の言動に対して、「気持ちが悪い」というコメントがあった。
具体的な説明は避けるが、その場合、それは感覚的には的確な表現だったと思う。しかし
「気持ちが悪い」と言われた側は「傷つく」だろう。
「オカシナ点がある」といえば、穏やかだが、的確さでは、はるかに劣る。
いじめなどで、加害者が被害者に「キモい」という表現が使われるらしい。これも、
発言者の印象を伝えるには、実に的確だと感じているのではないだろうか。しかし
そう言われた側は傷つくことだろう。
感覚や感情を表現することを避けるのは、それが人格の尊厳性を侵しかねないことを
恐れるからだ。
「なじむ」という表現も出てきた。これも発言者には一番自分の気持ちにふさわしい表現
だったのかも知れない。でもこの表現は、それこそ気持ちが悪い。
認識の始まりが感覚や感情であることを認めるならば、それを的確にとらえることが
重要なことはすぐにわかるだろう。感覚や感情はただ表出されればいいのではなく、
できるだけ的確に表現することが必要なのだ。だから、そうした表現を許しあうしかない。
しかしそれを認めるのは「始まり」としてはそこから始めるしかないからで、そこに
止まっていてはならない。その感覚や感情が引き起こされた意味・「含み」を思考によって
言語化することが重要だろう。その過程で他者理解や自己理解がいっそう進むからだ。
こうした過程では、互いに「傷つけあう」ようなことも確かに起こる。もちろん、
目的は「傷つけあう」ことではなく、他者理解と自己理解、相互理解の深化にある。
しかしそれへの過程としては、間隔や感情の表明は避けて通れない。だから、
「傷つけあう」ことを互いに許しあい、引き受けあうべきだと思う。
ただし、これが可能な場には条件がある。
相互に最低限の信頼関係があることだ。それは私のゼミでは同じ人を先生としていることから、
つまり自分の成長のために努力しているという「仲間」であることから生まれるものだ。
そして、その前提の上に、確実に相互理解が進むと言う成果が積み重ねられることが条件だ。
ただの「傷つけあい」に終わることが続くなら、その場からみながいなくなるだろう。
つまり最後の保障はトップの力量である。