10月11日から14日まで、福島県の、被災時の状況、復興への取り組みを取材しました。
高校現場、県教育委員会、福島大学を取材しました。
成果は、雑誌や本で発表する予定です。
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高校現場、県教育委員会、福島大学を取材しました。
成果は、雑誌や本で発表する予定です。
大修館書店の『国語総合』(国総035)を指導する先生方を対象に、この教科書の評論教材に対する指導書(先生のためのアンチョコ)『論理トレーニング指導ノート』をまとめた。
その目的は、心ある先生方との「協働」を希望しているからだ。
4月からの授業の中で、私の方法が全国の高校生に届くことを期待している。
その「まえがき」にあたる部分を掲載する。
以下の目次の
5.先生方との「協働」を希望します
に先生方との「協働」への夢を書いた。
このブログの読者の中に該当者がいれば、
実際の授業の中での疑問などをお寄せいただきたい。
3.「指導ノート」の使い方
では、
「教科書信仰」を批判し、教科書との正しい付き合い方を提案している。
それは批判的に読むこと、他者の思想を媒介にして自分の思想を作ることだ。
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『論理トレーニング指導ノート』について
1.「論理トレーニング」の指導を
2.方法
3.「指導ノート」の使い方
4.「指導書」との関係
5.先生方との「協働」を希望します
1.「論理トレーニング」の指導を
この『論理トレーニング指導ノート』は、大修館書店の『国語総合』(国総035)を指導する先生方を対象に、その評論教材の論理的把握の指導に役立てていただくために作成したものです。
私は国語専門塾「鶏鳴学園」で、高校生を主な対象として、三〇年近くにわたり国語(日本語)の指導を行ってきました。そこでは読み、書き、聞き、話し、考える、このすべての言語活動を指導していますが、その基礎にあるのは「論理的思考」の能力です。そして、その「論理トレーニング」を行うために、もっとも重要なのは読解指導です。特に評論読解は「論理トレーニング」そのものに他なりません。
私の読解方法は『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)で公開しましたが、その方法はごくごく簡単なもので、わずか三つの論理しかありません。その三つの組み合わせで、すべての論理が読み解けます。大学受験指導でも威力を発揮してきました。
この「指導ノート」は、その『日本語論理トレーニング』の読解方法で、大修館書店の『国語総合』(国総035)の評論教材のすべてを読み解いたものです。
先生方の『国語総合』の授業の中で、この「指導ノート」を生かしていただき、効果的な「論理トレーニング」が行われることを願っています。
2.方法
この「指導ノート」で使用した読解方法と使用した記号を、簡単にご説明しましょう。
(1)3つの論理(※省略)
(2)実際の文章の読み方
では、こうした三つの論理を駆使して、実際のテキストをどう読んでいったらよいでしょうか。その手順は、次のようにまとめられます。
ステップ1 論理をおさえる 論理の3点セット(対・言い換え・媒介)
ステップ2 文の流れをおさえ、そこに論理を読む
ステップ3 テキストの全体を読む
ステップ4 主体的に読み、自分の考えを作る
ステップ1では、各段落内部で3つの論理をおさえます。
次にステップ2で、段落内部の文の流れをおさえ、そこに論理を読みます。この段階では「傍流」の理解が必要です。簡単に説明します。文の流れには「本流」と「傍流」の区別があります。「本流」とは、結論に向かって論理を前に進めていく流れです。それに対して「傍流」とは、論理が前に進まず、その場にとどまる流れで、直前の語句の注釈になっていますので、それを考える必要があります。この「傍流」は( )でくくって示しました。この範囲は読み飛ばすことも可能です。
ステップ2までが基礎の部分で、ステップ3はいよいよ仕上げの段階です。テキストの全体の立体的構成(各段落の相互関係)を読み、テキストのイイタイコト、つまりテーマ(問い)と、その問いへの答え(結論)をまとめます。これは※に示しました。
この「立体的構成」の図示でも「対」の箇所は次のように示しています。
さて、ステップ3までで、読解は一応終了です。大学入試の読解対策ならばこれで万全です。しかし、ここまででしたら、他者の考えを理解したにすぎません。ここからが本当の始まりだと思います。それがステップ4で、テキストを批判的に読み、他者の思想を媒介にして、自分自身の思想を作ることです。
「テキストを批判的に読む」とは、まずはテキストの「立体的構成」を検討し、場合によっては代案を出すことです。それによって、当然ながら著者の「テーマ(問い)」と「答え(結論)」も批判することになるでしょう。また、高校生自身が、テーマに関連する自分自身の経験を出し合い、それをみなで考える中で、テキスト理解を深めさせたいと思います。そうした作業の中で、「他者の思想を媒介にして、自分自身の思想を作ること」が可能になっていきます。
このステップ4で、読解のすべては終了です。この段階は大学入試では小論文に対応します。
3.「指導ノート」の使い方
ステップ1とステップ2の段階の論理は、テキストに記号で示し、下段で説明しました。なお、「対」と「言い換え」と「媒介」は無数に指摘できます。ですから、テキスト理解のために重要なものだけをとりあげています。
ステップ3の段階は、テキストの上部に※で示し、詳細は※にまとめて示してあります。そして、ステップ4の参考にしていただけるように、※では「コメント欄」を用意しました。
「コメント欄」ではテキストの立体的構成や論理展開について批判しましたが、あえて辛口のコメントにしました。高校生が教科書の文章を鵜呑みにすることなく、それを相対化し、批評的に読む(クリティカルリーディング)ための観点を例示したわけです。これは小論文指導にも役立てていただけるでしょう。
なお、「教科書のテキストは完全でなければならない」「批判が不可能なようなテキストを選ぶべきだ」といった考え方が一部にあるようですが、私はそうした考えに反対です。そもそもこの世界にそうしたテキストは存在しません。教科書のテキストは水準以上であれば良いのです。私たちはそれらのテキストを自由に批判しながら、その「正しさ」「大きさ」「豊かさ」「公平さ」「強靱さ」などからだけではなく、「間違い」「不正確さ」「あいまいさ」「弱さ」「偏り」などからも、学ぶことができるのです。
4.「指導書」との関係
「指導書」は、教科書の「内容」を中心に解説したもので、この「指導ノート」はあえて「形式」と「論理」に特化して解説したものです。教材数が多い教科書なので、速読の指導にも役立つと思います。
指導書にも論理や論理展開についての説明がありますが、それらとの調整はしていません。教材の読み方は多様であり、それで良いと考えているからです。私が示した読みも、絶対のものではありません。
5.先生方との「協働」を希望します
先に述べましたように、この「指導ノート」で提示した読み方が唯一絶対とは考えていません。疑問やお気づきの点などがあれば、遠慮なくご指摘ください。実際の授業で高校生を教えてみれば、教えにくい箇所や疑問点が出てくるはずです。
筆者としてはこの「指導ノート」が、現場の先生方と教材の読みを巡って対話をする契機となることを願っています。そうした対話を踏まえて読みを深め、「日本語論理トレーニング」の方法をさらにブラッシュアップしていきたいからです。
私たち国語の教師は、日本の高校生が論理的に読み書きをし、深く現実と闘っていく力を養成しなければならなりません。その使命の達成のために、志を共有する先生方と「協働」していきたいと思っています。
今回、大修館書店から「指導ノート」執筆のご依頼があったとき、お引き受けすることを決めたのは、先生方とのそうした「協働」作業ができると思ったからです。
最後に読者の先生方に辛口のコメントを一つ。
論理能力の指導には、指導者自身の論理能力の高さが前提です。そのためには、先生方御自身の「自己教育」こそが必要になります。
本書を活用していただく上では、拙著『日本語論理トレーニング』を熟読していただき、御自身の論理能力向上のために、日々のトレーニングをお願いしたいと思います。
なお、本書は鶏鳴学園の同僚であり、同志である松永奏吾と共同討議をへて作成したものです。
暦日会の収録スタジオで、10人ほどの方の前で、80分ほどの講演をしました。
タイトルは「日本語論理トレーニングで思考力を鍛える」。
今年の2月に刊行された拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)の内容を踏まえて、問題提起をしました。
これは暦日会の「講演 CD・カセット」のためのもので、数千人の会員に配布されます。
この会員はビジネスマンを中心とし、年齢層は50台がおおいそうです。
あるビジネスマンから、私の2月20日(2009年)のブログ(拙著『日本語論理トレーニング』の第1章)の感想をいただきました。それを紹介します。
彼は「外資系の経営コンサルティング会社に勤務し、海外での仕事を多く経験してき」た人です。その彼は、海外で日本の一流大学、大学院出身者がまるで通用しない事実を知って愕然とします。日本人の論理力の圧倒的な低さです。
そして、その理由を考えていきます。そして、日本の国語教育の酷さに行き着きます。
まったく違う仕事をしてきた二人が一致した結論に到るというのは面白いものです。
経験から感じた疑問を、執念深く考え続けている彼の姿勢は、とても立派です。実は、論理よりも、こうした姿勢こそが重要なのだと思います。論理力はその結果でしかないと思います。
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中井浩一様
ブログで日本語論理と国語教育に関する文章を拝読し、私と同じ意見をお持ちの方を発見したことに感激し、メールをさせて頂きました。
日本人の論理力と日本語教育に関して全く同意見です。私の場合、教育を通してではなく、ビジネスの現場を通して同様の意見を持つようになりました。私は長年経営コンサルタントとして、外資系の経営コンサルティング会社に勤務し、海外での仕事を多く経験してきました。ご存じかと思いますが、経営コンサルティング、特に欧米で経営戦略コンサルティングと言われている分野は、情報、データの分析と言語による論理構築とプレゼンテーション技術を含む説得が標準的な方法論です。
欧米の経営コンサルティング会社は、所謂経営大学院(MBA)卒の多国籍エリート集団であり、日本人もすべて東大を中心とした日本の一流大学、大学院出身者です。また、彼らは日本人の秀才の中でもかなりの倍率の入社試験を勝ち抜いてきた人たちであり、理系の修士、博士修了者も含まれています。外国人の同僚との共同プロジェクトやトレーニングを経験する機会がありますが、残念ながら日本の秀才は、文系理系を問わず言語的論理構成力がかなり劣っています。更に、英語のコミュニケーション力不足も加わり、残念ながらグローバルな環境での知的競争力が全くありません。また、当然のことながら、英語に堪能で英語を論理ツールとして利用し仕事が出来る日本人は非常に限られています。
一方、日本人は数学に関しては能力が平均的に低いわけではなく、記号論理としての論理力に関しては問題があるわけではないようです。以上のような経験を繰り返すうちに、日本人は言語操作を使った論理には非常に弱いのではないかという仮説を持つように至り、なぜそのようなことになるのかを疑問に思う日々を過ごしてきました。勿論、欧州言語に比較し日本語は情緒的な面、曖昧な面が多いように感じることもありますが、それも世界に多くの言語がある中で日本語のみが極端に非論理的な言語かはどうかは疑問が残ります。ちなみに、韓国、中国出身者に関しては、そのようなことが言われることは少ないと思われます。
そのような日本人の傾向の起源が何となく理解できるようになったのは、3年前から娘が就学し学校の国語の教科書を見るようになり、国語の先生と話をするようになってからです。まず、教科書がご指摘のように日本的価値観、日本的情緒の教育に極端に傾斜しています。私のようなビジネス界の人間から見ると実生活ではほとんど役に立たない言葉の羅列にショックを受けました。グローバルな時代になり、国語学者或いは行政府の反動であるかと思えるほど極端に見えます。また、国語教師と話して理解したのは、教師が“論理”というものを全く理解していません。あまりの理解の低さに、会話を止めたほどでした。要するに、言語が思考の基礎であり、論理がユニバーサルな思考のツールであることが理解されていません。国語教師は、語彙と漢字と日本的情緒と価値観を教えればよいと思っているように見えてしまいます。
想像ですが、国語の教科書を書いている人たちも、“論理”を理解していないのではないかと思います。日本語の語彙研究、文学研究は、思考のツールとしての“論理”、コミュニケーションツールとしての“論理”は無縁であろうし、また、日本という研究環境でのみ生きている日本語学者たちに、生死がかかるような厳しい“論理”の世界は理解不可能でしょう。しかしながら、現在の日本人が置かれているのは経済的にも政治的にもそのような環境であり、決して日本的情緒、価値観に逃げ込むことはできなくなっています。
ご存じの通り、欧米には言語による論理の学としての哲学の伝統があり、歴史の差があることは否定できません。しかしながら、今だに言語における“論理”の存在にすら気づいていない日本の国語教育界には失望を感じます。更に、コミュニケーションツールとしての英語教育も惨憺たる状況であり、思考のツールとコミュニケーションツールを欠いた日本人は、今後どうなるのか心配になります。また、英語教育の問題が指摘される度に、まず正しい日本語を勉強することが重要と言われます。それは正しい議論だと思いますが、英語コミュニケーションの基礎としての日本語とは、当然思考ツールとしての母語という意味が重要だと思います。残念ながら、今の日本語教育は、外国語教育の基礎にもなり得ない母語教育だと思われます。ぜひ、中井様には、日本語における論理の方法論を日本に教育界に広めて頂き、次の世代がグローバルな世界で希望を持てるような時代にして頂きたいと思います。
本日、拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)が書店に並びます。本書は、私塾で四半世紀にわたり試行錯誤しながら開発してきた、読解方法の紹介です。これは評論の読解、論理トレーニングの本なのですが、日本における国語教育、大学の一般教養教育、国語学や言語学を批判する、問題提起の書でもあります。
ぜひ、書店で手にとって見てください。参考までに、「第1章」を転載しておきます。長いですけど、興味のある方はお読みください。
「論理トレーニング」と「国語」教育
1 「国語って、勉強してもしなくても変わらない」
読者の皆さんは、小学校、中学、高校と長い期間に渡り「国語」を学びました。さらに大学で本や文献の読み方を学び、レポートや論文の書き方を学んだ人もいることでしょう。しかし、それらが現在の生活に役立っているでしょうか。ほとんど何の意味もなかった。そう思っている人が多いと思います。
「国語って、勉強してもしなくても変わらない」。私は主に高校生を対象とした国語専門塾を主宰していますが、こうした声が中学生や高校生からよく聞かれます。いや彼らだけではなく、社会一般の圧倒的多数の声と言っても良いでしょう。
まったく、国語くらい重要だと言われながらも、バカにされている教科はありません。小学校では「主要四教科」、中学・高校では英数とならんで「主要三教科」と言われながらもです。事実、英語や数学のためには塾や予備校に通っても、国語はほっておかれています。
「現代国語は勉強法がまったくわからない。数学とか英語だったら、こうやればこう伸びるという予想がつくけど、現代文に関しては何をやればいいかわからない。がむしゃらに問題集を解いてもできるようにならなかった」。こんな声も多いのです。
その結果、「国語ってセンスでしょ」とか、「本を読んでないから読めない」とかと言った俗論がはびこるのです。また、他教科は実用的で、現実と関わっていると思われていますが、国語は全く実用的でないと思われています。せいぜいが「教養」になるぐらいです。
私は二〇年以上に渡って、高校生を中心に、中学生や大学生・社会人の方々に文章や本の読み方を指導してきました。その経験を踏まえて申し上げるのですが、こうした俗論はすべて間違いです。国語にセンスは関係しても、それは無視してよい程度です。本をどんなにたくさん読んでいても読めない人はいます。いやほとんどの人がそうです。国語には本当は正しい方法があります。そして、国語はすべての他教科の基礎なのです。それは実用的どころか、現実と深く切り結び、みなさんの悩みを解決し、この社会を変えるために威力を発揮します。
2 国語力って、本当に「能力」?
しかし、私のような意見が広がることはありません。世間の大声、大合唱に圧倒されてしまっています。なぜでしょうか。
実際の教育現場で、本来の国語の指導がなされていないからだと思います。そこには国語教育のきちんとした「方法」が存在しないように見えます。どうしてそうなってしまうのかと言えば、国語とはどういう能力を養成する教科なのか、それがはっきりしていないからだと思います。
「えっ、国語って能力なの」。ほら、読者のみなさんは驚かれるでしょう。しかし国語は立派な能力なのですよ。では現国の能力とは何でしょうか。それは一言で言えば、思考力のことです。つまり論理の運用能力です。
「国語」というとあいまいですが、「日本語」と言えばハッキリするでしょう。日本人は、日本語で考え、日本語で生きているのです。その能力が問われているのです。それがはっきりすれば、その「トレーニング方法」とは、先ずは「思考トレーニング」、つまり「論理トレーニング」に他ならないことがわかるはずです。
このことは「国語」と他教科との関係を考えればはっきりするはずです。国語の教科書を広げてみて、そこにどんな種類の文章がはいっているかを調べてみましょう。評論、報告文、紀行文、インタビュー、ルポ、手紙、コラム、エッセイ、小説など、ほとんどあらゆるジャンルがあります。しかし、注意してほしいのは、そのテキストのナカミです。その内容を見れば、ほとんどすべての教科に関係していることがわかります。例えば異文化理解や人権をテーマにした社会科のナカミが入っています。自然との関わり方やエコロジー等の理科も入っています。数の不思議やコンピュータ言語などの数学もあります。日本語と外国語の比較をする言語学のナカミもあります。音楽も美術も保健体育も家庭科もあります。
およそすべての教科の「内容」がそこにあるわけです。しかし、そうであるならば、なぜその内容を、わざわざ国語科で学習しなければならないのでしょうか。それはそれぞれの教科でやれば良いはずです。
では、国語の時間に学習しなければならないこととは何でしょうか。それは文章の「形式」を読むということです。すべての文章はその固有の「内容」を、それに相応しい「形式」で表現しています。その形式にはジャンルということも含まれますが、その核心には「論理」があります。その形式と論理を学習することこそが、国語科、日本語の学習に固有の目的です。
3 「道徳教育」と「文学教育」
ところが、こうした根本の点が曖昧にされているだけではありません。むしろ、その正反対のことが、国語教育の名の下に行われているのです。一言で言えば、「道徳教育」と「文学教育」です。
国語が道徳教育になっていることは、石原千秋さんが『秘伝 中学入試国語読解法』で喝破した通りです。小中の国語の時間は、道徳のすり込みに特化していることが多いのです。文章の「形式」を丁寧に読むよりも、その道徳的結論がわかれば良いことになっています。つまり、ナカミが読めればよいと言う内容主義です。そして、それを逆手にとって、内容的にパターン化した方法で、受験問題を説いて見せたのが石原さんの方法です。
しかし、道徳で何が悪いのでしょうか。それが国語と違うだけなら、それほどの問題はないかも知れません。しかし、道徳はある意味では国語の対極にあるのです。むしろ、道徳教育は国語力を伸ばすことを妨げるのです。実際に教育現場で行われている「道徳」ではきれいごとが支配し、建て前を読みとることしか求められないからです。そこでは本音や現実の蔭の部分が切り捨てられます。しかし、本来は現実に深く切り込み、現実と徹底的に格闘することこそが、国語力なのです。本音や蔭の部分にも目を向けることで、立体的な現実像が得られますし、それによって、現実をしたたかに生きていく力を得られるはずです。そこでこそ「論理」が鍛えられるのです。
国語が文学教育になっていることも、良く知られています。小中の国語の授業では、物語や小説に多くの時間がさかれています。それも、道徳教育に関係します。子どもたちにとって身近でわかりやすい物語を教材にすることが、道徳教育には有効だからです。
全体として日本の国語教育は、評論などに比べて文学の比重が大きすぎ、その指導のナカミでもテキストの分析や論理性よりも感性的で「文学」的なことに偏りすぎ、しかも道徳を教えればよいと言う内容主義になっているのです。病は重いと言わざるを得ません。
この傾向は、小中だけではなりません。高校でも国語は事実上、文学教育と道徳教育になっていることが多いのです。それは、教員の補給源に大きな問題があるからです。
高校で国語を教えている先生方は、大学で何を学んだ人たちでしょうか。論理でしょうか。文学でしょうか。多くの先生方は、国文科の出身で、文学を研究してきた人なのです。人間は自分の知っていることしか教えることはできません。論理を学んでいない人が論理を教えることはできないのです。
そして、もう一つ言っておきましょう。国語が道徳教育になっている理由についてですが、それは世間や行政からそのように要請されているだけではないのです。基本的に、今の学校(大学も含む)の教員には、道徳しか教えられないと言う事情があるのです。なぜなら、彼らのほとんどは、学校や大学などの世界しか知りません。しかし、これらの世界は現実の矛盾や厳しさから隔離され、守られてきた場なのです。そうした、現実から浮いた世界しか知らない人には、現実の建て前や表面は教えられても、その厳しい側面は教えることはできないのではないでしょうか。
しかし、国語力が論理力だと言うと、すぐに、では文学は教えなくてもいいのか、という反論が出てくると思います。日本人は、日本語で考えるだけではなく、日本語で「感じて」もいるのだ、というわけです。そのトレーニングはどうなるのか、というわけですね。
小・中ならかまいませんが、高校の国語までが文学中心である必要はないと思います。それは、音楽や美術と同じく、「文学」という選択科目であるのが妥当だと思います。必修ではないと言うことです。すべての日本人、高校生が必修として学ぶべきなのは「文学」ではなく、先ずは思考力であり、論理の運用能力に他なりません。文学を読む上での基礎にも、やはり論理があるのです。それは音楽や美術の基礎にそれがあるのと同じことです。
4 大人のための「日本語トレーニング」
幸いにも、本書の読者は大人の方々です。子どもたちではありません。日々、リストラの危機やグローバリズムの嵐に巻き込まれながら闘っているサラリーマンの方々です。行政改革、公務員改革、地方分権などでもみくちゃになっている行政マンの方々です。老人介護や家庭内離婚、子育てや子どもの受験で悩みを抱えている主婦の方々です。皆さんは酸いも甘いもかみ分けられる大人の方々です。社会にもまれ、現実の裏も表も見てきています。人間関係の難しさも良く理解し、本音と建て前の使い分けにも習熟されています。それでこそ、国語のスタートラインに立てるのです。今こそ、大人のための「日本語トレーニング」を始められます。
「道徳国語」とはさようならです。学校の試験や入試のために勉強する必要もありません。もはや建て前で発言したり、人の顔色を見たりする必要はありません。本当に自分自身のために、現実を深く理解するために、家庭や社会を深く理解するために、リアルな認識を持つために、真の国語を勉強するのです。
本当に、幸いなるかな、です。それでこそ、本当の学習を始められます。国語は言葉を駆使して、思考力でもって現実を認識するためのものです。私たちは現実と向き合っていますが、それを媒介するのは言葉であり、思考力だからです。私たちは他人とコミュニケーションをしますが、それも言葉によるのです。この他人とのコミュニケーションの一つが文章を読むこと、書くことです。言葉によらないコミュニケーションもありますし、直感力も大切です。しかし、最後には、やはり言葉を駆使し、思考力でまとめてこそ認識が確かなものになります。身体的コミュニケーションや直感力も、言葉によって磨かれるのです。
5 シンプルで簡単な方法
さて、以上を理解してもらったとします。しかし、その先がまた問題です。「形式」を学ぶこと、「論理」を学ぶことの重要さはわかったとして、それはしちめんどうで、ムズカシいのではないか、と不安にならないでしょうか。もう何度も「論理」トレーニングに挑戦したが、結局ものにならなかった。結局は「机上の空論」で役立たなかった。そうした苦い思い出もあるでしょう。
そもそも日本の教育現場において、「論理トレーニング」はどこでどの程度行われているのでしょうか。国語教育のほとんどは道徳教育や文学教育です。中学や高校の社会科や国語科の一部などでディベートが取り入れられるようになってきました。模擬裁判なども行われるようになっています。「国語」の枠内でも、大学受験対策は論理的な読解が問われますし、予備校などで行われるマニュアル的な指導の中にも「論理トレーニング」的な要素があります。多くの支持者を得ている参考書もいくつかあるようです。「小論文」のマニュアル的指導にも「論理トレーニング」的要素が含まれます。
では大学ではどうなのでしょうか。ほとんど何も行われてこなかったと思います。有名になった東大の野矢茂樹氏の『論理トレーニング』は、そうした現状を打破するものだったからこそ、話題になったのでしょう。
彼は大学の現状への批判から始めています。大学の「論理学」の授業は「記号論理学」一辺倒で、そのままでは「ただの珍奇な代数」で、現実には役立ちません。そこで野矢氏は、記号論理学はもちろんのこと、ディベートや「反論」に関する本を読んだり、大学の教員が毛嫌いしそうな「受験参考書」にも丁寧に目を通し、模索した末に、たどり着いたのが「論理トレーニング」でした。
『論理トレーニング』の最大の価値は、その実践性、実用性にあったはずです。だからこそ評判になり、かなり売れたのでしょう。大学生よりも一般サラリーマンが読んでいるようです。
こうした現状を見れば、日本社会全体に少しずつ「論理」の意味やその「トレーニング」法が意識されてきていると思います。私は、これらの試みを地味に追い求めてきた方々の努力に敬意を払う者です。
しかし、それもまだまだ途に付いたばかりだと思います。こうした流れを、よりしっかりとした巨大なうねりに高めたいものです。今回、私の方法を公表するのもそのためです。
私の方法はごくごく簡単なものです。わずか三つの論理しかありません。反対の関係の「対」、同一の関係の「言い換え」、橋渡しをする「媒介」です。この三つの組み合わせで、すべての論理を読み解くのです。
それは中学生以上のすべての人がやっていけるような簡単な方法です。そして、そのトレーニングによって、論理の能力を向上させ、複雑で難解な文章や本も理解することが可能です。そして、何よりもこの方法は、現実をどこまでも深く考えるために威力を発揮します。それは、本編で確認してみてください。