5月 09
5月以降の読書会と文章ゼミの日程はすでにお知らせしたように、以下です。いずれも午後5時開始。料金3千円(文ゼミのみの場合は2千円)。場所は鶏鳴学園です。
5月25日 文ゼミと「現実と闘う時間」
6月8日 読書会と「現実と闘う時間」
6月22日 文ゼミと「現実と闘う時間」
7月6日 読書会と「現実と闘う時間」
7月20日 文ゼミと「現実と闘う時間」
このメルマガの読者で、参加を希望する方は事前(初めての参加者は2週間前。2回目以降の参加者は文ゼミは2週間前、読書会は1週間前)に連絡ください。
keimei@zg8.so-net.ne.jp
今回は、6月の読書会テキストと7月の予定のお知らせをします。
(1)6月テキスト
6月はマルクス『経済学批判』(岩波文庫)に付録として入っているマルクスの「経済学批判序説」(286?329ページ)を読みます。
同じく、エンゲルスの書評(254?268ページ)も参考にします。
今、原書購読の時間にマルクスの「経済学批判序説」の「三 経済学の方法」を読んでいます。
丁寧に一語一語の意味を考えながら読んでいるのですが、マルクスの考察は根源的で刺激的で、久々に、わくわくするほどに興奮しています。
マルクスのヘーゲル理解の深さに驚嘆するとともに、それでいながら、それでもなお、
ヘーゲルを観念論者として切り捨てるマルクスの不思議さにも驚きます。
そこに、人間を深く理解する鍵があるようにも思います。
今回は、マルクスの「経済学批判序説」の全体を読むことで、
「三 経済学の方法」を読んで考えてきた疑問点を、
さらに深く、さらに広い時代背景からも、考えてみたいと思います。
(2)7月のテキスト
7月の読書会では、マルクスの方法を検討するために
許万元の『ヘーゲル弁証法の本質』(創風社版で入手できます)を読むか、
経済学自体を考えるためにアダム・スミスの『国富論』を読むか、
いずれかになると思います。
4月 12
ゼミの5月の読書会テキストと6月以降の予定のお知らせをします。
(1)5月11日読書会テキスト
◆5月は
フォイエルバッハの『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)を主テキスト、
エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)を副テキストにします。
マルクスにフォイエルバッハがいかに決定的な影響を与えているか、
を考えると、一度はフォイエルバッハをきちんと読んでおきたいと思います。
フォイエルバッハの思想について、マルクスは、ヘーゲル亡き後、
「真の理論的革命を内に含んでいる唯一の著作」(『経済・哲学草稿』から)
と評価しています。
ヘーゲル亡き後、一世を風靡した「ヘーゲル学派」は右派と左派にわかれて
対立します。その左派を代表するのがフォイエルバッハで、
唯物論の立場からヘーゲルを批判し、それをマルクスは継承することになります。
『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)には3つの著作が入っていますが、
「将来の哲学の根本命題」を取り上げ、他は参考テキストとします。
エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)は、
フォイエルバッハのマルクスへの影響をわかりやすくまとめていますから、
参考書としては最適です。余裕のある人は読んでください。
なお、フォイエルバッハの『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)は
現在品切れで、古書でしか入手できないようです。
アマゾンなどから購入できますから、早めに入手しておいてください。
図書館で借りられたら、それでも結構です。
(2)6月、7月のテキスト
以下を予定しています。
変更などがあるかもしれませんが、参加希望者はテキストを購入しておいてください。
延期はあっても、必ず読むことになります。
◆6月8日読書会テキスト
マルクス『経済・哲学草稿』(岩波文庫)
◆7月6日読書会テキスト
マルクス『経済学批判』(岩波文庫)からエンゲルスの書評とマルクスの「序説」
2月 18
◆3月の読書会のテキスト◆
3月の読書会テキストは、エンゲルス著『空想から科学へ』です。
テキストは牧野紀之の訳注がある
『マルクスの「空想的」社会主義』(論創社)を使います。
2月に前半部(1章、2章)を読みました。後半部(3章、英語版への序文)を3月に読みます。
参加を希望する方は事前に連絡ください。
なお、今後3月までのゼミの日程は以下になります。
いずれも午後5時開始。料金3千円。場所は鶏鳴学園です。
2月23日(土)文ゼミと「現実と闘う時間」
3月 9日(土)読書会と「現実と闘う時間」
3月23日(土)文ゼミと「現実と闘う時間」
2月 05
今年、私が社会人・大学生たちと行っているゼミで、
「階級」「階級意識」についての学習会を開くつもりです。
そのことでのご相談です。
今の関心は2点あります。
(1)今では、「階層格差」など、「階層」という用語が使用されることが多いですが、
なぜ、「階級」という言葉を使用しないのでしょうか。
この「階級」という用語を使用すると、その著者がマルクス主義の立場にあると表明することになり、
それを避けているのでしょうか。
そもそも「階層」とは何のことでしょうか。年収での格差のことでしょうか。
マルクスにあるような「社会関係」をも含めて考えていないように思うのですが、どうなのでしょう。
マルクス、エンゲルス、レーニンに「階層」という観点はあるのでしょうか。
(2)子供が自分の価値観を相対化するためには、自分を育てた親の価値観を相対化する必要があると思います。
それには、親の階級(社会関係)、その階級から生まれる価値観、物の見方や考え方、趣味などを考えることが必要だと思います。
マルクス、エンゲルス、レーニンの著書で「階級」を、その階級ゆえに生まれる価値観、意識から詳しく平明に説明した文献があるでしょうか。
以上、アドバイスいただければ、幸いです。
12月 28
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会
2.日本語研究の問題点
と掲載してきましたが
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。
(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)
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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)
関口にとって、人間の意識こそが中心であり、世界は意識に反映された限りで問題にするにすぎない。これが現象学の立場だから当然だが、ここで世界が人間の意識を規定するのか、人間の意識が世界を規定するのかが改めて問われるだろう。それには判断中止し、世界は意識に反映された限りで問題にするのが現象学の立場だ。
ここにこそ、関口と、ヘーゲル、マルクスの対立がある。もちろん、言語表現を直接の対象にしている研究者にとっては、それで十分だということはできる。それどころか、関口は言語に反映された限りで世界に迫り、そこらのヘーゲル、マルクスの研究者以上に、果敢に世界の本質に迫っている。
しかし、だからといって、両者の違いが大きいことも明らかだ。関口は言語世界の運動と現実世界のそれとの関係を語らない。例えば、名詞論の始まりで、関口はヘラクレイトスの「万物は流転し止まることなし」を受け、「これはまた少し違った意味で『言語』という現象にも通用する」(183ページ)と述べる。しかし「少し違った意味」とは何かが、説明されることはない。
なぜ名詞に無限のニュアンスが生まれ、無限の「含み」が生まれるかと言えば、根本的には世界そのものが矛盾し、それゆえに運動しているからだろう。その世界の矛盾と運動を、言語では静止したもの「として」もとらえなければならず、その矛盾が言語や名詞の無限のニュアンスや「含み」を生みだしているのだろう。しかし、世界の運動は、他方では人間を生み、人間の意識の世界をも生みだしている。その人間の自己意識の世界もまた、それ自体矛盾し運動している。その世界をも言語表現は静止した形で表現するしかできない。したがって「含み」が生まれるのは二重の意味で必然なのだ。関口の「含み」の理解は、このレベルにまで深めて理解すべきだろう。
ヘーゲルやマルクスならこう言うだろう。「人間の意識の矛盾や運動は、世界の運動の結果生まれた物であり、それが世界を反映することは最初から決まっており、その反映の仕方も、対象と同じく、矛盾と運動によるしかない」。こうした理解の上で、関口が「含み」を研究したらどうなっていただろうかと、想像しないわけにはいかない。その「含み」は人間を解き明かすだけではなく、この全自然の「含み」をも明らかにしただろう。それはそのままに全自然史の展開になり、ヘーゲル哲学に近い物になっていたのではないか。そうした夢想を引き起こすほどに、それほどに関口のすごさは圧倒的なのだ。しかし、一方で、それはどこまでもハイデガーの立場に身を寄せてもいる。これもまた、この世界の矛盾の一つでしかないのだろう。