6月 12

高校作文教育研究会(高作研)の6月例会(6月24日(日))について、御案内します

高校作文教育研究会は、中井が関わっている高校段階を中心とした表現指導の研究会です。
年に3・4回の例会を開催し、夏には全国大会の高校分科会を運営しています。

高作研に関心のある方は、以下のブログから、研究会の活動の詳細を知ることができます。
また参加申し込みもできます。

高校作文研究会ブログ
http://sakubun.keimei-kokugo.net/

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6月例会(6月24日(日))の案内

6月の例会では二つの報告と、その討議があります。
一つ目は、茨城の菅井さんの実践報告です。長編小説を読みあい、エッセイを書きました。どのように指導され、どんな作品が生まれているのか、たいへん楽しみです。
二つ目は、運営委員の一人、宮尾さんの報告です。今は、若者たちの保守化が問題にされますが、自衛隊や戦闘機などに関心の高い「右翼少年」がとても多いのです。こちらも今ぜひ考えたいテーマです。

例会の時間が午後になっています。ご注意ください。

1 . 期 日   2018年6月24日(日)13:00?16:30

2. 会 場  鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F
ホームページ https://www.keimei-kokugo.net/
 ※こちらで地図をご覧ください

3. 報告の内容
(1) 同時代・純文学小説の読解とエッセイによる表現の可能性
茨城 太田第一高校 菅井洋実

論理的な文章の読解と、推論に基づいた論理的表現の重要性が再認識されている一方で、文学の担う役割はますます重要になってきているのではないか。
人生を真摯に生きていくなかで、ときには断言て?きず決然たる立場を取り得ないことや、語り得ないことについて沈黙することか?、知的誠実さて?あるような局面も現に存在するのて?はないか。
論理と論理の狭間で明確に形を結ばないものを、有意化しようとする言説の過程で、どこにも回収されずに漂っている、未言語で一見無意味に見える「あわい」ものを、切り捨てず語らせることは、国語教育に関わる者の本来的な使命のひとつではないか。

昨年度、高校1年次の国語総合(現代文)の授業で、後期10週19回にわたり導入の時間を使い長編小説(『淵の王』舞城王太郎著)を読破させた。
生徒が同時代純文学の魅力に触れて成長するようすを、生徒のエッセイ作品を通して報告し、 論理的な文章の読解と表現だけでは得られない、豊かな文章表現の広がりと可能性を考えたい。

(2) 18歳選挙に見る生徒の姿から生徒の学びを考える
?「右傾生徒」をどう考えるか?
東京 正則高校 宮尾美徳

選挙権を手にした高校生による新聞読み比べ作文には、これまで見たことのない高校生の本音が現れた。彼らの生活の現実とその政治感覚がまったくつながっておらず、総じて右傾化している。それはなぜなのか? 3年間で何を学ばせるべきなのか? 生徒の作文から考えたい。

4. 参加費   1,000円(会員無料)

5. 参加をご希望の方は、下記、高校作文教育研究会ブログ内のお問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/sakubun-contact/postmail.html

5月 02

高校作文教育研究会の再出発
1998年に我々高作研が発足してから20年、2016年には『「聞き書き」の力』を大修館書店より刊行し、活動の成果を一応形にすることができました。一区切りついたところで、昨年の秋以降半年ほど、今後の方針を巡って、運営委員で話し合いを続けてきました。
高校3年間を貫くような指導体系、基礎となる経験作文の意味や諸問題、高校段階のゴールとしての論理的な文章の意味や諸問題、そうしたことをテーマにして、共同研究を重ねていきたいと思います。

以下、5月例会は、そうした方針をもっての最初の例会になります。

高校作文教育研究会5月例会
2つの報告と討議があります。

1つめは、古宇田さんによる、表現指導の入門期の指導についての報告です。入門期の指導は重要です。始まりがその後のすべてを決めるからです。どういう考えで、どういう指導をしていったらよいのでしょうか。それを古宇田さん自身の若かりし日の実践を題材にして検討します。
古宇田さんは、長く日本作文の会の常任委員を務めてきました。その古宇田さんの「初心」が聞ける貴重な機会になると思います。

2つめは、中井さんによる意見文、小論文の指導の実践報告です。クラブや部活、文化祭や体育祭などの行事作文や、それに関する意見分はよく書かれていると思います。そこには様々な問題が出てきますが、本来はどういう観点からの、どういった指導が必要でしょうか。それを検討したいと思います。
中井さんは、『日本語論理トレーニング』や『脱マニュアル小論文』などの著書があり、そのエッセンスを聞く機会です。

みなさんにとって、すぐに参考にして授業に生かしていただけるとともに、表現指導をさらに本質的に考えていくヒントにもなると思います。どうぞ、みなさん、おいでください。

1  期 日   2018年5月27日(日)13:00?16:30

2 会 場  鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F        
 TEL 03?3818?7405
 FAX 03?3818?7958
ホームページ https://www.keimei-kokugo.net/   ※こちらで地図をご覧ください
       
3 報告の内容

(1) 初めての実践「今でも忘れられないことを、出来事の通りに、詳しく書いてみよう」を
書かせた時のこと
茨城 古宇田栄子

1973年、教師2年目で初めてやった作文の授業を報告します。

当時、班日誌の指導に行き詰まっていた私は、「あったことをあったとおりに、事柄を押さえながら詳しく書いていく展開的過去形表現」の方法で、
「長い間の生活の中で、今でも忘れられないある日ある時のことで
喜んだり 悲しんだり 苦しんだり 腹立ったりしたことなどを
よく思いだして、時間の順序に生き生きと書く。」(高校2年)
を指導しました。
その時生まれた生徒作品「私の胸に輝く日々」が今でも私を励ましてくれます。事柄をふまえて書くこと、がすべての文章表現指導の始まりであると思います。

自分が書きたいことは何か、を考えさせること。
事柄をふまえて書く、詳しく書くということはどういうことか。
誰でも実践できる入門期の指導をやさしく詳しく報告するとともに、それが若い先生たちと今時の生徒たちに通用するのか、どう役立たせることができるのか、を皆さんとともに考えたいと思います。

(2) 個人の問題と組織(ルール)の問題
                                      東京 鶏鳴学園  中井浩一
 
鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活、文化祭や体育祭などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。しかし読んでいておかしいと思うことが多い。組織の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織(ルール)が問われることがほとんどない。現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
鶏鳴学園では、組織のルールと個人の関係を整理し、生徒には問題への原則を提案し、それに基づいた問題解決をうながしている。

昨年秋の高校2年生への意見文とこの春の小論文講習での指導から、生徒の認識の深まりや、実際の活動や考え方の変化を報告したい。意見文や小論文指導の意義や役割についても考えてみたい。

4 参加費   1,000円(会員無料)

連絡先  田中由美子 (鶏鳴学園)
メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

2月 15

高校作文教育研究会(高作研)主催で、
北海道立高校教諭として33年の教師歴を持つ池田考司さんに、
これまでの実践とそれを支えた理論を振り返ってもらう学習会を企画しました。

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◇◆ 実践報告「生活綴方教師にあこがれて歩んできた高校教師としての33年間」高校作文教育研究会臨時学習会 ◆◇

このたび、北海道の池田考司さんが高作研の学習会に参加してくれることになりました。
池田さんは、さまざまな困難を抱えた生徒たちと向き合って、温かくも、積極的な実践をされている方です。
池田さんは書いています。生徒たちには、「試行錯誤する権利」と「未来に対する権利」がある。そしてそれを行使できる主体に育っていく権利がある。
「倫理」の授業では、そのような課題(目的)を授業のテーマに位置づけ、書く力や話し合い、発表する力をつける機会を作ってきた、と。
池田さんの実践には、感動があります。池田さんは「研究」と「実践」を大切にされている方です。
今回は、池田さんご自身の教師としての歩みをふまえつつ、実践報告をしてくれることになりました。
池田さんの実践報告から、さまざまなことを学べる、またとない機会です。
どうぞ、みなさん、お出でください。参加費無料です。

1 期 日    2018年3月18日(日)13:00?15:30

2 会 場   鶏鳴学園

3 実践報告
「生活綴方教師にあこがれて歩んできた高校教師としての33年間」
北海道 池田考司

(概要)1985年3月に明治大学を卒業し、北海道立高校教諭として勤め、33年が経とうとしています。
大学生時代、教育系サークルを立ち上げ、民間教育研究団体の実践家・研究者と出会い、具体的な理想の教師像を思い描き、学校現場に入りました。
 しかし、当時の高校は校内暴力の真っ盛りで、激しく「荒れる」生徒たちとのやりとりが教師生活最初の10年間でした。そこで考えたこと、生徒との関わりの切り口は、「なぜ、この生徒は荒れているのか?」「この生徒は何を訴え、何を求めているのか?」ということでした。そのような発想には、学生時代に読んだ生活綴方教師の著作も大きく影響しています。村山俊太郎、石田和男等の言葉を時々読み返して、「荒れた」生徒と向き合ったことが何度もありました。
 地方2校での勤務を経て、札幌の後発進路多様校に移り出会ったのは、休み時間に廊下でじっと立っている生徒、「人を信じられない」という生徒など、傷ついた心を持つ生徒たちでした。生徒の抱える「悲しみ」「生きづらさ」を聴き取り、寄り添い支援していく。その取り組みを学習指導の中で行っていく。それが札幌圏での2校18年間の日々でした。その時、考察と実践の土台になったのは、大学院での師でもある田中孝彦氏が立ちあげた臨床教育学でした。
 そして再び、地方の高校に出て4年勤務し、昨春、札幌圏の現任校に異動しました。どちらも「教育困難」校です。家庭が崩れ、愛されずにいる生徒たちの尊厳と生活をどう守り、支援していくのか。生活環境の再編をどう他職種の専門職とともに行っていくのか。そのことがこの5年間の中心テーマになっています。
 私の教育実践史と、底流にある生活綴方教育・臨床教育学についてお話しできればと思っています。

(池田考司プロフィール)
 北海道野幌(のっぽろ)高等学校(社会科)。大学非常勤講師。教育科学研究会副委員長。日本臨床教育学会事務局次長 【著書】◆『18歳選挙権時代の主権者教育を創る』(佐貫浩・教育科学研究会編共著)新日本出版社、2016年。 ◆『子どもの生活世界と子ども理解』(教育科学研究会編共著)かもがわ出版、2013年。 ◆『ジュニアのための貧困問題入門』(久保田貢編共著)平和文化、2010年。 ◆ 『教職への道しるべ』(姉崎洋一編共著)八千代出版、2010年。

4 参加費無料

8月 26

中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文(卒論)「三性説の研究」についての
中井による評価「問題意識を貫いた卒論」を掲載します。
この卒論のどこがどう模範的と考えるかを説明しています。

「問題意識を貫いた卒論」では【1】【2】【3】などの記号が使用されていますが、
それは論拠となる卒論の個所を示すために、卒論の該当箇所につけた記号を指します。
その個所を参照してください。

■ 目次 ■
問題意識を貫いた卒論 中井浩一

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◇◆ 問題意識を貫いた卒論 中井浩一 ◆◇

塚田さんの卒論は、大学生の卒論としては上の部である。
それには2つの理由がある。

1つは、塚田さんが自分自身の経験から生まれた問題意識をもって、卒論の最初から最後までを貫くことを
目標にし、一応それができたからである。
塚田さんは、自身の経験から生まれた問題意識を深めるため、自分の経験を媒介として、テキストを読む
という姿勢を、徹底的に貫いている。これは立派なことだと思う。
そのことは、序論の「1 論文の目的」で宣言し、「2 筆者自身の問題意識」で具体的に述べている。
本論でも、ポイントでは自分の経験で考えることを徹底した。【4】【5】(「二 アーラヤ識説」の
「2『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討」から)、【8】(「三 三性説」の「2『摂大乗論』における
三性説の検討」から)でそれを確認しできる。
また、その立場から、アサンガがそうしていないことへの批判もきちんとしている(【2】「一『摂大乗論』の構成」
のラスト)。これは重要な批判だと思う。アサンガは自分自身と自分の教団内部の問題を具体的には一切語らない。

もう1つは、この重厚で難解なテキストに対して逃げることなく、自分の立場から一応とらえ返したことだ。
これはすごいことだ。
普通は、序論だけは自分の問題意識を貫いて面白く書くことはできても、本論では巨大な対象に押しつぶされて、
つまらなくなりやすい。それがそうならず、最後まで一応は自分の問題意識で考えている。
特に、「三 三性説」の「2『摂大乗論』における三性説の検討」で「ことば」の問題に言及している個所
(その始まりと終わりの段落の最後に【7】をつけた)には、本人の切実な経験と問題意識が込められていて力がある。
ただし、「四 無住涅槃」ではすでに力尽きた感がある。

以上に挙げた2点が、この卒論が模範だと思う理由である。
なお、塚田さんの大学における卒論審査の場でも、この卒論は教官に高く評価されたとのことだった。

 では、模範的な卒論が書けたのはなぜか。
 中井ゼミには明確な立場、つまり「発展の立場」(ヘーゲルの弁証法)がある。塚田さんはそれを学び、
それを拠り所とすることで、塚田さん自身の経験と『摂大乗論』をとらえ、位置づけることができたのだと思う。
例えば、間違いの自覚の問題(これはマルクスの「経済学批判の序言」を下敷きにしている。
序論の「2 筆者自身の問題意識」の始まりと終わりの段落の最後に【1】をつけた)や、
ところどころに出てくる「結果論的考察」を見てほしい。

 しかし、問題はある。塚田さんが、中井と中井ゼミのことを一切伏せて、卒論を書いたことだ。
「運動」と言う言葉が多数出てくるが、これは本来は「発展の運動」「発展」とすべきだ。
「3」の数字の説明があるが(「二 アーラヤ識説」の「2『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討」
では【3】、「三 三性説」の「2 『摂大乗論』における三性説の検討」では【6】)、これは弁証法から説明すべきだ。
それを隠したから、結論が曖昧になった。

今回の卒論では、「発展の立場」に依拠しようとしたから、何とか自分の問題意識を貫けた。
このことの意味をしっかりと理解するならば、今後はヘーゲルを本気で学び、自分のan sichな立場を、
自覚していくことが課題になるはずだ。

今回、塚田さんを指導して2つの感想を持った。

1つは、塚田さんの潜在能力の大きさだ。卒論の締め切り1週間前にはほとんど何も文章になっていなかった。
そこから1週間で書き上げる突破力は大したものだ。弓は引き絞れるだけ引き絞られていた。
しかし、これは逆に言えば、いつもは余裕こいていて、追い詰められないと何もできないことでもある。
「ウサギと亀」のウサギさんなのだ。

もう1つは、塚田さんが1年ほどの間に中井ゼミで学んだことが、大きく生かされたことだ。
中井ゼミで1年間学んできた内容を、卒論を手がかりにして、考え抜いたのが成功した大きな理由だろう。
塚田さんの学習能力は非常に高いが、それは彼女の問題意識が強烈だからだと思う。
この卒論を書き終えた後は、するべきことはもはや決められている。

8月 25

中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文「三性説の研究」を全文掲載します。

今号は最終回。

卒論につけられている注釈は掲載していません。出典の引用箇所を示すためのものがほとんどです。
卒論に【1】【2】【3】などの記号がついているのは、すべて中井によるものです。
中井の「問題意識を貫いた卒論」の根拠となる個所を示すためのものです。

■ 塚田毬子著「三性説の研究 『摂大乗論』を中心に」の目次 ■

※前日からのつづき
四 無住涅槃
 1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ
 2 『摂大乗論』における無住涅槃
結論
参考文献

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◇◆ 三性説の研究 『摂大乗論』を中心に  塚田毬子 ◆◇

四 無住涅槃

1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ

ここまで『摂大乗論』の理論編を検討し、筆者の実践を理論づけてきた。
それでは、この実践にはどんな意味があるのか。問題の解決とは何を意味するのかを考察したい。
第8、9、10章では無分別智について述べられ、実践による結果が示されている。
第8章において無分別智の性格が説明され、それが第9章で二分依他の展開である無住涅槃として説明される。
第10章では、無分別智を仏の三身という点から述べている。本論文では、第8、9章について検討を加えてみたい。

2 『摂大乗論』における無住涅槃

 8章において、無分別智について言語でできる限りの説明が行われる。無分別智とは円成実性の達する智で
人法無我の智であり、真如に達する智である。無分別智の依り所は心ではないが、心から生じたものであり、
心というのは分裂を指し、依他起性から円成実性に至ることが示されている。
 16節において、無分別智を得た後に、後得智を得るということが述べられる。
後得智とは、涅槃にとどまらない無住涅槃の立場が示される。 無住涅槃については第9章1節において簡潔に述べられている。

  菩薩たちの〔障害の〕断除は、〔声聞たちと同じく涅槃であるが、ただし涅槃には〕止まらないという
  涅槃(無住涅槃)である。それを定義づけるならば、およそ汚染を捨離すると共に、輪廻は捨離しない
  〔という、この二つの〕ことへの依り所があり、すなわち依り所の転回(転依)なるものがあることである。
  その中で、“輪廻”というのは、汚染分に属するかの他に依る実存であり、
  “涅槃”〔すなわち煩悩など汚染の捨離〕とは、清浄分に属する同じ〔他に依る実存〕である。
  〔この二つのことへの〕“依り所がある”とは、これら二分あるものとしての他に依る実存そのものである。
  〔依り所の〕“転回”とは、他に依る実存が、それ自体に対する対治が起こされたとき、
  汚染分であることを停止して清浄分に転回することである。(『摂大乗論』第9章1節、長尾 1987, pp.298-299)

ここでの菩薩とは、知らるべき真実をその対象とする大乗の菩薩である。煩悩を滅して涅槃に入ることは、
それに向かって進むべきものだが、最終目標ではない。『摂大乗論』においては、最終目標は設定されない。
その最終目標が設定されない状態を何というかというと、無住涅槃と呼ばれる。
涅槃に達して、そこから出てこないことは、涅槃に執着しているとみなされる。
無住涅槃は、涅槃に達していながら、どこにも安住しないあり方だ。変化があるのは分裂の中だけであるから、
分裂の中に身を置いて、ひたすら分裂を深め続けることを行う。ひたすら運動をおこし続けることを、
自ら選択することである。それこそが真の意味での涅槃であるとした。
これが、『摂大乗論』においてアサンガが示す、問題を解決することの意味である。
しかし、無住涅槃で菩薩が運動を起こしているにもかかわらず、衆生が救われないのはなぜかと問いが立つ。
その答えが第8章23節に述べられている。

  (1)それらの衆生には〔財宝や地位などを与えようとする菩薩の神通力を〕妨げるような業がある
  と見られるからであり、(2)もしその財富の施与がなされることとなれば、〔そのことが彼らにとって〕
  善事をなすことへの妨げとなることが見られるからであり、(3)〔逆に財富が与えられないならば、
  彼らは貧困に苦しみ〕この世を厭う思いがまのあたりに起ることが見られるからであり、
  (4)もしその財富が与えられることとなれば、〔そのことが却って〕悪事を積み重ねることの原因となる
  ことが見られるからであり、(5)またその財富が与えられたことそのことが、それ以外の極めて多数の
  衆生に損害を与える原因ともなることが見られるからである。
  それ故、貧窮に苦しむ衆生が現にあるとみられるのである。(『摂大乗論』第8章23節、長尾 1987, pp.294-295)

 ここでアサンガは、衆生が救われないのは菩薩のほうに問題があるのではなく、衆生のほうに問題があるとした。
これは正しいと思われる。外側から働きかけても、内側が追いついていなければ反応できない。
自分の中に根があるものにしか反応できないのである。外側から与えられれば救われるというものではない。
では、どうやったら衆生の内面は追いつくのか。それは、自分で何とかするしかないが、自分の意志では
何ともすることができない性質のものである。意識下の分裂の深さは、自分で認識することも、
コントロールすることもできない。そこで『摂大乗論』では、その根本原因を業であるとした。
それは先天的で、選べない。輪廻でしか説明することができないものであるとした。
以上、問いを解決することの意味と、その困難に対するアサンガの思想を確認した。
無住涅槃は、涅槃にあっても執着を許さず、汚染された現実世界の中に身を置き、
分裂を深め続ける無限の運動であることが理解された。

結論

本論文では、筆者自身の問題意識を唯識説を媒介にして深めることを目的として、
筆者自身のこれまでの実践を唯識説で理論付け、『摂大乗論』を検討してきた。
なぜ人間は問題を自覚し、それを解決しようとするのか。そして問題を解決することは何を意味するのか。
それは、以下のように結論付けられる。
人間は内面に分裂を持ち、それが反映した世界で生きている。これが現実世界のあり方である。
分裂は絶えず運動を起こしているから、人間は外界と常に関係し、関係は絶えず変化している。
意識下で分裂が深まると、それが意識上に外化し、問題となって自覚される。なぜ問題となって自覚されるのか。
それは、現象を認識で把握することには限界があり、純粋な理解というのは不可能であるからだ。
人間は問題を自覚すると、自分の意志で問題を解決するために行動を起こすことができる。
そして他者にはたらきかけることによって、関係を変化させることができる。
それは、関係し合っている自分と他者を変化させることになる。それにより、問題が解決に向かうと、
自分自身が以前より明確になっていく。より自分自身に迫ることができる。そして、より分裂が深まり、
また外化して、次の問題が自覚される。以下、無限の繰り返しである。現実世界から分裂は無くならず、
真如に到達することはできない。ただ、分裂を深め続けることによって、自分自身に無限に迫っていくことができる。
その性質を持つのは人間だけであり、これがもっとも人間的な生き方と言える。
分裂があるという人間の本質が根源にあり、それが人間の生き方を規定する。
そしてそれを生きることにより、再び人間の本質に迫っていくことができる。
人間は自らの意志で、変化しようと思って変化するのではない。
そうではなく、変化する性質を持つ存在であるから、変化することができるのである。
人間はその性質として分裂を持ち、その分裂が運動を起こしている。
運動は意識的に起こそうと思って起こすものでも、起こさなければならないものでもない。
運動は分裂が決めるものである。運動により分裂が深まると、問題が外化する。
問題が自覚されたら、人間は行動によってその問題を解決に向かわせることができる。
そこで初めて、人間の意志がはたらく。問題が外化されるのは分裂の仕組みによるものであり、
運動が起きるのも分裂の仕組みによるもので、その問題は意識下でどの程度分裂が深まれば外化するのか、
認識では把握できない。それは自分自身で意志することのできない領域である。
何をしたら分裂が深まるかは分からない。次に自覚される問題が、行動の結果を示す。
行動している間は、それが正解かはわからない。筆者は自分の内面を直視しないという自分の問題を自覚し、
引きこもりを辞めるという行動をとったが、これがどのような結果をもたらすかは、次に自覚される問題が示す。
人間は分裂に乗っ取られ、分裂に突き動かされて生きている。分裂こそが人間の本質である。
人間は分裂の深さにより、それぞれに違う問題を持っている。それを選択することはできない。
問題を選択できないのは、自分を選択できないのと同様である。自分は自分から離れることができない。
自分が自分に生れてきたことは全くの偶然であり、生まれ、育ち、名前、身体、環境などは先天的なものである。
そして自分の問題は、自分が関係した現実世界の中から生まれた、自分だけにしかない特殊なものである。
人間は誰しも、その人にしかない特殊な問題を持っており、内的な深まりと外的なはたらきかけが一致した時に、
その問題を自覚し、解決に向かうことができる。内外のどちらが欠けても、転換は起こらない。
それは、人間が関係の中に生きているからだ。自分自身の問題を解決させようとして起こす行動は、
必ず他者と関係することになる。自他を分別して自分という存在があると思っていても、
自分一人で生きることは生命活動として不可能である。人は何かと関係しないでは誕生せず、
生命を維持することもできない。そして関係し合いながら、現実世界全体が変化を続けていく。
自分の問題意識を深めることは、他人に関係し、働きかけることになる。
人間は内的な分裂がなければ変化できないが、外的な分裂にも触れなければ変化できない。
それは分裂を自覚する際にも、解決のために行動する際にも当てはまる。
筆者が引きこもりを辞めようと思ったとき、筆者の内的な条件は意識下で揃いつつあったが、
それは他者からの批判によってはじめて意識上に外化した。そして問題を解決するため、
外界と関係することで今までの自分を壊そうとしている。では、外界とのどのような関係が転換をもたらすか。
それは、どんな関係においても転換が起るわけではない。関係する他者に自分と通じる問題意識が無ければ、
転換は起こらない。Aは筆者のあり方を問題だと思い、筆者を批判した。
それを問題に思わない他者から批判は出てこない。Aが問題意識をもって筆者の問題に切り込み、
筆者は自分の問題を自覚することができた。このように問題意識が共鳴する他者との関係において、
問題は深まると言える。
現実世界で、時として自分の中に否応なく響いてくるものと出会うことがある。
自分を引っ張り上げてくれるような対象に出会い、世界が見違えるような経験をすることがある。
そしてそれにより自分のあり方が変わる可能性が考えられる。それは何が響いているかというと、
問題意識が響いている。ある対象が持つ、自分が引き付けられる強さの正体は、その対象が持つ問題意識の深さであり、
自分の内面の分裂がそれに反応し、響き合っている。筆者が引きこもっている際に接していた音楽や本、映画は、
当時の問題意識に響き、筆者のあり方に影響を与えたものであった。
しかし問題意識が変化した今、それらは以前のようには響かない。
自分の問題意識が引き付けられる対象を感覚し、判断することで、自分自身が少しずつ変化していく可能性があると言える。
筆者が『摂大乗論』をテキストとして選択したことも、筆者の問題意識がそれに引き付けられたからである。
『摂大乗論』は、アサンガがアサンガの問題意識から書いたものであり、
これを検討したことで筆者の自分自身の問いが深まった。『摂大乗論』はアサンガが自身の問題意識に
対する答えを言語という表象をもって表現したものであり、それを玄奘が玄奘の解釈で訳し、
長尾が長尾の解釈で訳し、筆者が自分の解釈で理解した。何重にも分別が重ねられており、
純粋なアサンガの思考を理解できたとは言い難い。しかし本論文で『摂大乗論』を取り上げたことで、
筆者自身の問題意識はより深まった。本論文が明らかにした『摂大乗論』のテーマは、この世界がどうなっているか、
この世界でどう生きるかということである。そしてその答えとして、理論としてアーラヤ識と三性説を述べ、
実践編で修行の内容と、その結果が述べられていた。『摂大乗論』は瑜伽行派の哲学的な論書という面だけではなく、
現実世界で生きるための手引きという側面もあるように思われる。そのような側面を持つ本書おいて、
アサンガが自身の生き方に少しも言及しないのは、改めて本書の大きな欠陥であると言わざるを得ない。
しかし、本論文のテキストに『摂大乗論』を取り上げ検討し、自分の実践を理論付けたことによって、
筆者の問題意識は深まった。それは『摂大乗論』を書いたアサンガと筆者の問題意識が響き合った結果である。
自分自身の問題意識が深まったことは楽果であり、よって筆者の問題意識が『摂大乗論』を選択したことは
善因だと言えるのである。

参考文献

長尾雅人(1982)『摂大乗論 和訳と注解 上』、講談社
長尾雅人(1987)『摂大乗論 和訳と注解 下』、講談社
無著造、玄奘訳『摂大乗論本』(大正 No. 1594, vol. 31)