中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文(卒論)「三性説の研究」についての
中井による評価「問題意識を貫いた卒論」を掲載します。
この卒論のどこがどう模範的と考えるかを説明しています。
「問題意識を貫いた卒論」では【1】【2】【3】などの記号が使用されていますが、
それは論拠となる卒論の個所を示すために、卒論の該当箇所につけた記号を指します。
その個所を参照してください。
■ 目次 ■
問題意識を貫いた卒論 中井浩一
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◇◆ 問題意識を貫いた卒論 中井浩一 ◆◇
塚田さんの卒論は、大学生の卒論としては上の部である。
それには2つの理由がある。
1つは、塚田さんが自分自身の経験から生まれた問題意識をもって、卒論の最初から最後までを貫くことを
目標にし、一応それができたからである。
塚田さんは、自身の経験から生まれた問題意識を深めるため、自分の経験を媒介として、テキストを読む
という姿勢を、徹底的に貫いている。これは立派なことだと思う。
そのことは、序論の「1 論文の目的」で宣言し、「2 筆者自身の問題意識」で具体的に述べている。
本論でも、ポイントでは自分の経験で考えることを徹底した。【4】【5】(「二 アーラヤ識説」の
「2『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討」から)、【8】(「三 三性説」の「2『摂大乗論』における
三性説の検討」から)でそれを確認しできる。
また、その立場から、アサンガがそうしていないことへの批判もきちんとしている(【2】「一『摂大乗論』の構成」
のラスト)。これは重要な批判だと思う。アサンガは自分自身と自分の教団内部の問題を具体的には一切語らない。
もう1つは、この重厚で難解なテキストに対して逃げることなく、自分の立場から一応とらえ返したことだ。
これはすごいことだ。
普通は、序論だけは自分の問題意識を貫いて面白く書くことはできても、本論では巨大な対象に押しつぶされて、
つまらなくなりやすい。それがそうならず、最後まで一応は自分の問題意識で考えている。
特に、「三 三性説」の「2『摂大乗論』における三性説の検討」で「ことば」の問題に言及している個所
(その始まりと終わりの段落の最後に【7】をつけた)には、本人の切実な経験と問題意識が込められていて力がある。
ただし、「四 無住涅槃」ではすでに力尽きた感がある。
以上に挙げた2点が、この卒論が模範だと思う理由である。
なお、塚田さんの大学における卒論審査の場でも、この卒論は教官に高く評価されたとのことだった。
では、模範的な卒論が書けたのはなぜか。
中井ゼミには明確な立場、つまり「発展の立場」(ヘーゲルの弁証法)がある。塚田さんはそれを学び、
それを拠り所とすることで、塚田さん自身の経験と『摂大乗論』をとらえ、位置づけることができたのだと思う。
例えば、間違いの自覚の問題(これはマルクスの「経済学批判の序言」を下敷きにしている。
序論の「2 筆者自身の問題意識」の始まりと終わりの段落の最後に【1】をつけた)や、
ところどころに出てくる「結果論的考察」を見てほしい。
しかし、問題はある。塚田さんが、中井と中井ゼミのことを一切伏せて、卒論を書いたことだ。
「運動」と言う言葉が多数出てくるが、これは本来は「発展の運動」「発展」とすべきだ。
「3」の数字の説明があるが(「二 アーラヤ識説」の「2『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討」
では【3】、「三 三性説」の「2 『摂大乗論』における三性説の検討」では【6】)、これは弁証法から説明すべきだ。
それを隠したから、結論が曖昧になった。
今回の卒論では、「発展の立場」に依拠しようとしたから、何とか自分の問題意識を貫けた。
このことの意味をしっかりと理解するならば、今後はヘーゲルを本気で学び、自分のan sichな立場を、
自覚していくことが課題になるはずだ。
今回、塚田さんを指導して2つの感想を持った。
1つは、塚田さんの潜在能力の大きさだ。卒論の締め切り1週間前にはほとんど何も文章になっていなかった。
そこから1週間で書き上げる突破力は大したものだ。弓は引き絞れるだけ引き絞られていた。
しかし、これは逆に言えば、いつもは余裕こいていて、追い詰められないと何もできないことでもある。
「ウサギと亀」のウサギさんなのだ。
もう1つは、塚田さんが1年ほどの間に中井ゼミで学んだことが、大きく生かされたことだ。
中井ゼミで1年間学んできた内容を、卒論を手がかりにして、考え抜いたのが成功した大きな理由だろう。
塚田さんの学習能力は非常に高いが、それは彼女の問題意識が強烈だからだと思う。
この卒論を書き終えた後は、するべきことはもはや決められている。