5月 17

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」の関係 中井浩一

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判断の「ある」と存在の「ある」の関係
                     中井浩一
目次
1.問い
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること
3.存在の「ある」
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた →本日5月17日
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた →本日5月17日
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見 →本日5月17日 

                                    
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた

ではこの存在の「ある」は、判断の「ある」とどう関係するのか。
上記の判断の形式は、結局、存在の「ある」から生まれた、というのが私見である。

Die Blume ist rot.    この花はある 赤い(赤く、赤)。 
Die Blume ist shoen.  この花はある きれいだ(きれい)。
Die Blume ist klein.   この花はある 小さい(小さく)。
Die Blume ist ein Rose. この花はある バラ。 

Die Blume ist(「この花は(が)ある」)とはDie Blume (「この花」)と同一なのだ。
そして、「この花」から外化した、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」などの諸性質、本質を「この花は(が)ある」の外に外化させる。これが判断の形式だ。
存在の「ある」を入れることで、分裂と外化を明示しているとも考えられる。
さきに、「ある」には具体的な内実はなく、その上に付け加わる「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」によって初めて具体的な諸性質が表されると述べた。これは、「ある」がその次に具体的な諸性質を誘導する役割を果たしているとも考えられる。
だから、極端に言えば、判断の「ある」はなくてもよいのである。事実、これがなく、主語と述語部をぶっつけて置く言語(ロシア語)があることを、世界的ドイツ語学者の関口存男は示している(『不定冠詞』249ページ)。

なお、日本語の場合を考えると、日本語の判断では「ある」が最後に置かれることだけが、西欧語と違うことがわかる。
この花はある バラ。と表現する西欧語に対して、
この花は バラ である。と表現するのが日本語なのだ。「この花」と「ある」の間に、「バラ」「赤い」「小さい」などを入れてしまうのだ。
 外にぶつける西欧語と、内に含みこもうとする日本語の違いだ。

                                     
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた

 今、特別な動詞「ある」について考えたが、他の動詞はどうなのか。

(5)Die Blume ist.
(6)Die Blume riecht.
(7)Diese Blume zieht Leute an.

(6)この花はにおう。
(7)この花は人を引き付ける 

(6)と(7)の動詞、動詞部分も、実は「ある」と同じなのだ。つまり、「この花」の諸性質が外化したものでしかない。普通はこれを判断とは呼ばないが、実は同じ分裂が起こっているのだ。ここからわかるのは、動詞であろうが、形容詞や名詞であろうが、述語部に来るすべての品詞は、主語に置かれた名詞からその諸性質として外化したものでしかないのだ。その意味では、動詞は決して特別なものではないのだ。

                                        
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見

関口存男は、判断の「ある」と存在の「ある」について『不定冠詞』で次のように述べている。
「真の基礎的な述語文と思われているSie ist schön, Ich bin muede.等にしてからが、実を云うと此のist,bin の素姓は、本当の繋詞的seinではなく、実は存在のseinなのである。Sie ist schönは、実は「彼女はschönとして存在する」のであって、その関係はSie bleibt schön, 「彼女はschönとしてとどまる」と同じことなのである」(『不定冠詞』249ページ)。
関口も、存在の「ある」から判断の「ある」が生まれたと主張しているのだ。しかし、関口は存在の「ある」がどこから生まれたのかを、説明できなかった。両者を名詞の分裂から統一的に理解することはできなかったのである。
(2013年4月19日)

5月 16

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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判断の「ある」と存在の「ある」の関係
                     中井浩一
目次
1.問い →本日5月16日
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること →本日5月16日
3.存在の「ある」 →本日5月16日
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見

                                      
1.問い

西欧語、たとえばドイツ語のsein(存在)には2つの意味がある。
A ist B. AはBである。
A ist.  Aが(は)存在する。Aが(は)ある。

この前者を判断の「ある」、後者を存在の「ある」と呼ぶことにする。
では、この両者はどう関係するのだろうか。この問いに私案を出しておく。

                                         
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること

まず、以下の6つの文例をあげておく。

(1)Die Blume ist rot.
(2)Die Blume ist klein.
(3)Die Blume ist schön.
(4)Die Blume ist eine Rose.
(5)Die Blume ist.
(6)Die Blume riecht.
(7)Diese Blume zieht Leute an.

(1)この花は赤い(赤くある、赤である)。
(2)この花はきれいだ(きれいである)。
(3)この花は小さい(小さくある)。
(4)この花はバラだ(バラである)。
(5)この花は(が) ある。
(6)この花はにおう。
(7)この花は人を引き付ける。 

このうちの(1)から(4)までが、いわゆる判断と言える。これらに現れるseinは判断の「ある」である。(5)のseinは存在の「ある」で、(6)と(7)は普通の動詞による文だ。

(1)から(4)の判断だが、普通の理解では、これらの判断を、主語の「この花」と述語部を人間という認識主観が外から結びつけたものととらえる。しかし、ヘーゲルは「この花」自身が、自らをなんであるかを示し、個別と普遍に分裂したのだと考える。そして、それを認識主観内に反映させたのが、いわゆる判断文だと言うのである。(ヘーゲルの論理学の判断論から)。
「花」に内在化していた諸性質が、外に現れたものが述語部の「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」等なのである。これは対象世界の「この花」の分裂であり、したがって、認識世界の判断文でも「この花」とされる名詞が主語と述語部に分裂し、また統合されてもいる。
このヘーゲルの考えを前提にして、以下を考えていく。

                                       
3.存在の「ある」

さて、では(5)「この花は(が)ある」をどう考えたらよいのか。
私は、これも先の判断文と同じで、「この花」の分裂の1つだと考える。「ある」も「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。
しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。
なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」とは「この花はある」ということなのだ。(以上は、ヘーゲルの論理学冒頭の「存在」「無」の展開と同じだと思う)
以上のことを逆に言えば、「この花」と提示することには「ある」も前提されており、その上での「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」なのだ。しかし「ある」には実は、具体的な内実はない。それは「ある」というだけで、その具体的な諸性質は、その上に付け加わる「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」によって初めて表されるのだ。

5月 15

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方 →本日5月15日

                                     
10.関口の生き方

私は、関口の本当の凄さがよく出ているのが、「第三章 温存定冠詞(概論)」の以下の文章だと思っている。ただ一人で人跡未踏の新大陸にいどむ、そんな男の姿がここにある。

 「意味形態はもちろん決して万能ではなく,辞典の隅から隅までを”空理“で割り切ることはどうせ不可能かもしれない。いわんや一個人が限りある時間を以て無限の言語現象に画するに於てをやである。けれども,たとえどんなジャングルであるにしても,主な方向にむかってせめて数本の大道を拓き,問題を提起し,研究慾を刺戟し,メトーデとしての意味形態論のために将来を開くことはできないものか?
 次章以下の温存定冠詞各論は,そうした意味から企てられた二三の試みであると思って頂きたい。(中略)此の温存定冠詞というものに限って,全部を意味形態論で割り切ろうなどとは夢にも考えていないことを謙遜に附記しておく。いわんや筆者一人の研究を以てするにおいてをやである。筆者は温存定冠詞という現象が存在することを指摘しただけであって,その充分な研究は将来に俟つべきものと思っている次第である」(784ページ)。

 関口は、ただ一人で人跡未踏の最高峰へといどんだ。自分が倒れた後を、後世の人々に託して。託されたのは、私たちである。(2013年4月25日)

5月 14

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している →本日5月14日
10.関口の生き方

                                            
9.名詞こそが運動している

以上説明したように、定冠詞論は名詞論であり、その問題の本質的な解明は一応、第1篇、第2篇で終わった。では「第3篇 形式的定冠詞」では何をしているのか。ここでは、名詞の「特殊な場合」(名詞が傍局にある場合)を取り上げて、その特殊現象をも名詞の本質から解明しようとしているのだ。むしろ、名詞の解明のために、未踏の領域に踏み込んでいく。
1章と2章の「示格定冠詞」では名詞の格の意味、名詞が直接他の品詞に移行する場合、固有名詞、名詞の凍結などが取り上げられ、3章以下の「温存定冠詞」では前置詞+名詞で、さまざまな品詞になる場合の名詞を取り上げる。ここは前置詞論であり、名詞は名詞でなくなろうとしている。「名詞的意局が止揚される」。

すべてで名詞の本質が問題にされているが、1章と2章の「示格定冠詞」では、以下が特に目を引いた。事型名詞の本質、固有名詞、「凍結現象・掲称的語局」(名詞の凍結化)だ。

事型名詞とは、「?する(される)ということ」というdaßの副文章であり、「文章の短縮形」である。それは極端に言えば、「動詞」である。(593?5ページ)。
私は、ここで名詞から文や動詞が生まれていることに注目したい。
また、固有名詞の特殊性を説明しているのも面白い。固有名詞は特殊(個別)と普遍への分裂が前提となったもので、両者の統合で生まれるのだ。(682ページ?)
関口が「凍結現象・掲称的語局」(名詞の凍結化)の問題を取り上げていることは、とりわけおもしろいと思う。(709ページ?)
名詞化とは、そもそも凍結することに他ならない。それをさらに凍結すると言うのはどういうことなのか。
名詞は、確かに静止しているように見えるが、実際の内実は、内部で激しく運動し、分裂を引き起こそうとして待ち構えている。そうした名詞の運動を、本当に殺してしまった形態が、ここにあるのだ。逆に言えば、それまでの名詞は決して凍結していなかった。ぴちぴち跳ね回っている。
ちなみに、「凍結現象・掲称的語局」とは無冠詞の形態である。名詞の発展段階で言えば、「凍結現象・掲称的語局」とは第3段階の名詞が凍結されたものである。したがって、無冠詞は、一番最後に生まれた冠詞だということになる。
この凍結の形態は、すでに「6.附置規定の主述関係」で紹介した
das Tier Mensch(人間という動物 )、der Begriff Staat (国家という概念 77ページ)の例でもある。下線部がそれ。
こうした形態は、Der Mensch ist ein Tier. Der Staat ist ein Begriff.という主語・述語関係(判断)、命名文を繰り返した後に生まれると思う。
関口はさらにこのMenschやStaat を「人間ということ」「国家ということ」という掲称(概念を概念として際立たせる)としてとらえ、これを名詞だが、「省略された文章としての語局」ととらえる。しかし、もともと文章だったのだから、これは当然なのだ。

 3章以下の「温存定冠詞」では前置詞+名詞で、さまざまな品詞になる場合の名詞を取り上げる。ここでは名詞が名詞でなくなるまで、「名詞的意局が止揚される」過程が説明される。
前置詞+名詞から、動詞、副詞、形容詞、前置詞、接続詞的な観念が生まれる際に、「名詞的意局は,外廓を成す動詞的意局,副詞的意局等へと発展的解消を遂げる。これを名詞的語局の棄揚と謂う」(764ページ)。

特に面白かったのは「第七章 副詞概念の迂言的表現」だ。
 ここで、見地の意局の例として「バターは値が上がる」が挙げられる。
Die Butter steigt im Preis.
バターは「値が」あがるの「値が」は主語ではなく、形式的には副詞(952ページ)。
見地の意局はとかく動詞と一体になってまとまった観念を成す(953ページの備考)。
事物を比較して評価する場合は最も、見地の意局が必要(955ページの備考(1))。比較とは、「他と関係させ」その関係に現れる本質(運動)を示すことだろう。

「バターは値が上がる」にも、実は名詞の分裂がある。「バター」と(バターの)「値」への分裂だ。名詞こそが、実は運動している。その動きがなくなった(止揚された)時、副詞や動詞になる。名詞の運動を封じ込めているのが冠詞であり、前置詞ではないか。
運動の中で、他との関係が生まれるが、その関係性を示すのが「副詞」「動詞」ではないか。「関係性」として固定すると、名詞性の止揚(副詞か動詞)になる。「動詞」は運動していない。運動しているのは名詞だ。
ドイツ語で、定形が重要なのは、動詞が重要なのではなく、その主語が他との関係の中でその本質を示す際には、その関係が重要で、その関係を示すのが定形だからではないか。

5月 13

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階  →本日5月13日
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方
                                      
                                       
8.名詞の発展の3段階

関口は、「第1篇 指示力なき指示詞としての定冠詞」では、直接、間接に、名詞が何かで規定される場合を検討してきた。それに対して、「第2篇 通念の定冠詞」では、規定されることなく、名詞が単独で現れる姿を検討し、分類する。
この第1篇と第2編がどう関係し、第2編での名詞の分類、特に関口が強調する「通念」と「概念」の区別が何を意味しているのかがわかりにくかった。

私の結論を先に出す。関口は、「第1篇 指示力なき指示詞としての定冠詞」で名詞が何かで規定される場合に、そこに主述関係を見ようとした。それは結局は名詞が個別(特殊)〔主語〕と普遍〔述語〕へと分裂する運動であることを示し、その分裂と止揚の運動が、ヘーゲル論理学でいうところの「普遍→特殊→個別」へと発展することをとらえようとしているのだと思う。名詞の発展、そこには3つの発展段階がある。そして、第3段階自体にもまた「普遍→特殊→個別」への発展の段階がある。この第3段階を展望しようとするのが「第2篇 通念の定冠詞」なのではないか。

関口の定冠詞論だけではなく、不定冠詞論の主張も含めて、私は名詞の大きな3段階の発展過程を次のように考える。もちろん、ヘーゲルの論理学を下敷きにしている。

(1)最初は未分化 分裂以前
 言葉は、「あれ」「これ」「それ」といった、ある対象の指示から始まる。
 この指示機能は、実際に「指さす」かわりに言葉を発したもので、言語のもっとも原始的機能である。
 そして、次の段階で、その対象を「あの○○」「この○○」として意識することが始まる。世界の一部を凍結させて○○としてつかまえることであり、この○○が、最も原始的な名詞である。
 関口のいう「素朴通念」または広義の通念とは、この段階とも考えられるのではないか。
この段階は定冠詞(というよりもただの指示語)をつける。
指示語から冠詞が生まれたのは歴史的にも事実らしい。
この段階は、対象に分裂がなく、認識主体と対象世界との分裂もまだない。すべてが一体になったままの段階である。

(2)分裂の世界
  ここでは世界が分裂し、名詞が分裂する。判断文がそれをわかりやすく示している。

1.Die Blume ist rot.
2.Die Blume ist klein.
3.Die Blume ist schön.
4.Die Blume ist eine Rose.

1.この花は赤い。
2.この花はきれいだ。
3.この花は小さい。
4.この花はバラだ。

判断とは、「この花」自身が、自らをなんであるかを示し、個別〔主語〕と普遍〔述語〕に分裂したものだ。「花」に内在化していた諸性質が、外に現れたものが述語部の「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」等なのである。
この段階では名詞(この花)は、主語と述語に分裂し、個別と普遍へ分裂する。(ヘーゲルの論理学の判断論から)

関口はこの段階を「不定冠詞の世界」ととらえる。述語のeine Roseに現れるのが不定冠詞であることが、それを代表する。(判断における主語の定冠詞については第3段階で説明される)
ここで、対象はただの「存在」(主語)と「質」(述語)に分裂し、「質」の含みがきいてくる。
この世界は分裂の段階だから「特殊」の世界である。また、対象が分裂するだけではなく、対象と認識主体の分裂もあり、認識主体内部にも自己内2分がおこる。
これが動物から切れた人間の独自の世界の始まりであり、それは現実から遊離した「空想」の世界や、仮構の世界を作り出す力を持った。

(3)分裂を止揚した世界
前の(2)の段階を止揚した段階である。
名詞は主述関係の分裂を止揚して、分裂を内部に含み持って統合された名詞として現れる。特殊と普遍の分裂を内部に止揚し、含み持っている。これが、私たちの前に存在しているほとんどすべての名詞の姿である。だからそれは自由に分裂し、統合を繰り返すことができる。(それを証明して見せたのが、「第1篇 指示力なき指示詞としての定冠詞」ではないか。「規定する」ことは、判断の形式で分裂と結合を意識された2つがあって成立するのだ)
 この段階が、名詞の発展の最終段階で、ヘーゲル的に言えば「個別」の段階と言える。これが、関口の言う「一致確認」の世界であり、定冠詞がつく。
これは(2)で生まれた「質」の含みを、止揚した形で内に持つ。(2)が空想の世界だったのに対して、論理的、合理的世界とされる。

以上の(1)から(3)の3つの発展段階は、ヘーゲルの普遍、特殊、個別に対応する。注意したいのは、この大きな3つの発展過程は(1)→(2)→(3)の順に限定されないということだ。(2)と(3)の世界は相互転化し、それによって言葉の世界は無限に豊かになってきたのだろう。(2)で質の含みが豊かに生まれ、それを止揚して概念化された言葉が生まれるが、その概念化した言葉から、この段階をさらに止揚して質の強調、感情評価が生まれてくる場合もある。これは(2)の不定冠詞の世界に戻っているだろう。

そして、この第3段階である(3)で、新たに生まれてきた名詞にも、やはり「普遍→特殊→個別」への3つの発展段階があるのではないか。
分裂を止揚しただけの第1の状態(普遍)が、関口の言う「素朴通念」(広義の通念)で、それが概念化された第2の段階(特殊)が「素朴全称」「全称概念」「純粋概念」「類型概念」「偏在概念」、それがさらに止揚されたのが最後の「個別」の段階で、それを関口は「通念」(狭義の通念で「通り言葉」や「俚俗通念」「特殊通念」)と呼んでいるのではないか。
この第2の概念化された段階で、西洋語特有の、その名詞が全称か否か、冠詞が定冠詞か不定冠詞か無冠詞か、といった名詞の分類や、アリストテレスの判断論の分類の問題が出てくる。「固有名詞」もここに現れるのだろう。

以上が、私が理解した名詞の発展過程だが、関口自身の説明とは直接は何の関係もないほどに違って見えるだろう。しかし、関口の「第2篇 通念の定冠詞」の叙述の中に、ヒントになる個所はたくさん散りばめられているのである。

関口はDer Doktor hat es mir verboten.(医者がそれを禁じた)を例に挙げ、次のように説明する。「定冠詞は,歴史的に云って,すべて『指示詞』であって,その指示力が衰えて形式的になったのが最初の出立点である」。「『医者』という通念は,実は,『此の医者』(der Arzt)という形式が,『此の医者なるもの』或いは『いったい比の医者というやつ』(全称概念の定冠詞)という意味に転化したのち,その次に『此の』とか『なるもの』に相当するderの指示力と概念性が衰えて,遂には元のArztだけの場合と全然同じに考えられはじめたものにちがいない。換言するならば,der Arzt(此の医者)という指示冠詞がder Arzt(医者というもの)という普遍概念化冠詞となり,次いでder Arzt(医者)という通念の定冠詞に変ったのである」(406ページ)。
以上から、関口も、指示冠詞(此の医者)→元のArzt→普遍概念化された名詞(『此の医者なるもの』或いは『いったい比の医者というやつ』)→通念(『医者』)という過程を考えていることがわかるだろう。

一方で、関口は通念を、狭義の通念と広義の通念に分けている。
「狭義の通念というのは,本篇の後半で問題になる『通りことば』『俚俗通念』『特殊通念』その他で,云わば『如何にも通念ということばに相応しい通念』である。広義の通念というは,通念という名称には一見大して相応しく思われないにかかわらず,よく考えて見るというと,けっきょく言葉の意味というものはすべて其の出立点は通念であって,いわゆる概念といったようなものの出来上る一歩手前に『通念』というものがなければならない筈だということが首肯されるに至った場合に浮かび上って来る,非常に根本的な意味の通念である」(404ページ)。
「たとえ何語においても,一つの語の意味するところは,結局のところは,すべて,まず通念であって,その次にやっと概念となるにすぎない」(405ページ)。これが広義の通念であり、関口の言う「素朴通念」のことだろう。つまり「元のArzt」である。
「素朴通念は最も通念一般の本質に近い形態である。うっかりすると『通念一般』と同一視されてしまうおそれがある」(570ページ)
「達意限目の主局に立つ通念は,主局という語局そのものの重要性のために,単なる素朴通念であることは不可能で,必ず全称概念か,類型単数か,遍在通念か,通り言葉か,俚俗通念か,或いはその他の特殊通念性を帯びるのが自然であるが,傍局に立った通念は,語局が軽いため通念としての素朴性の上に何等かの特殊な概念的色彩が附け加わることは事実上不可能である」(571ページ)。
「既に何度も引合いに出したDer Doktor hat es mir verboten.のDer Doktorは素朴通念である。特殊通念,俚俗通念であるかも知ないが,まず第一には素朴通念と考えるのが妥当である」(570ページ)。
この素朴通念の「医者」と、特殊通念,俚俗通念となった「医者」の違いについては、関口から十分な説明はないようだ。しかし、事態に即して考えれば、素朴通念の「医者」(元のArzt)が発展して特殊通念,俚俗通念になったのだと思う。

この狭義と広義の通念の区別を考慮して、名詞の発展の全体像を示せば以下になる。指示冠詞(此の医者)→広義の通念(素朴通念、元のArzt、つまりただアレとしての『医者』)→普遍概念化された名詞(『此の医者なるもの』或いは『いったい比の医者というやつ』)→狭義の通念(通り言葉か俚俗通念としての『医者』)。