1月 16

昨年12月29日には、ゼミ生と1年の振り返りをしましたが、
 そこで話したことをまとめました。

「謙虚」と「傲慢」 

 すぐにあやまる人がいる。すぐに反省を口にする人がいる。
しかし、こうした人をよく観察すると、本当に反省しているわけではなく、
問題点の改善はされていないことがわかる。謝りながら、実は問題を
スルーしてごまかし、ただ流しているだけなのだ。

 私は、こうした人たちの反省や謝罪に、とても軽薄な印象を受ける。
そこに「間」がないからだ。人は、気付かなかった事実や批判を
受け止めるには、少しばかりの時間が必要だろう。その批判が
核心を突いている時は、しばし沈黙するのが普通なのではないか。
そうした間もなく、すぐに謝り、すぐに反省の言葉を出すのは、
問題をきちんと受け止めようとしていないからだろう。
その結果、同じ過ちを繰り返し、同じ反省をし続ける。

 こうした人は実に多い。こうした人は、一見「謙虚」そうだが、
実際はとても「傲慢」なのだと思う。

 他方で、いつも自己卑下をする人がいる。
いつも自信無げでおどおどしている人がいる。

 こうした人たちも、普通は「謙虚な人」と言われる。
しかし、こういう人もまた、実はとても「傲慢」なのだと思うようになった。

 こんなことがあった。ある人はいつも自信がなく、
自分はきちんとしていない、普通の人ができることができない、
ダメな人間だなどと言っていた。しかし、ある日、見かねて
カウンセラーに行くことを薦めると、「自分が行くのは大げさなのでは
ないかという気がする。私の状態はそんなに深刻ではない」と言うのだ。
この時に、初めて、この人の傲慢さが見えた。

 こうした人は、いつも自信がなく、他人と比べて自分を責めて、
おどおどしているように見えるが、他方では、すごく傲慢で、
他人と比べて、自分はそれほどひどくはないと、安心してもいるのだ。
「きちんとした社会人」ではないが、「きちんとした病人」ではない。

 この「きちんとした」が問題だ。
その判断の基準は、他者や世間や親の基準でしかないからだ。
こういう人は、世間の基準を鵜呑みにし、疑うこともなく、
それに従って生きている。それが自分の実感に合わなかったり、
変だと感じることもあるはずだが、自分独自の基準を作るまでには至らなかった。
世間の基準に従っている方が楽だからであり、それに対立しながら、
自分自身の基準を作ることははるかに厳しく難しいことだからだ。

 その結果、すべてをこうした世間の基準、枠組みから、見ることになる。
しかし、それは自分自身の実感や、心の動きを抑圧することにもなる。
その結果は、ノイローゼであり、心の病に至るだろう。
いつも自信がなく、おどおどするのは当たり前なのだ。

 こういう人は、自分の実感、自分のハートの声に耳傾けることがなくなっていく。
しかし、それを生きていると言えるだろうか。生きる実感とは、
自分の五感に責任を持つことから始まるだろう。
それを放棄してしまえば、あとは自動人形になるのではないか。

 それは人生に対して、自分に対して、他者に対して、生命に対して、
限りなく傲慢で、不遜で、不誠実なことではないだろうか。

1月 13

1月10日発売の雑誌『中央公論』の2月号に

東北大、福島大、岩手大の、震災後の復興支援活動と、法人化の関係を書いた。

久しぶりの原稿だったことと、震災、津波や原発事故という大きな課題に向き合ったこととで、取材中も書きあげるまでも大変だった。

取材中は、震災への対応や原発について考え、普段見えなかった私たちの社会の課題を考え続けた。

拙稿では、紙数の関係で、詳しくは述べられなかったが、
6月に、新書の形で、詳しく私見を発表するつもりだ。

12月 24

12月21日が、原稿の校了だった。

来年1月の発売予定の雑誌『中央公論』の2月号の原稿で、東北大、福島大、岩手大の、震災後の復興支援活動と、法人化の関係を書いた。

久しぶりの原稿だったことと、震災、津波や原発事故という大きな課題に向き合ったこととで、取材中も書きあげるまでも大変だった。

取材中は、震災への対応や原発について考え、普段見えなかった私たちの社会の課題を考え続けた。

拙稿では、紙数の関係で、詳しくは述べられなかった。

新書の形で、詳しく私見を書くつもりだ。

10月 16

10月11日から14日まで、福島県の、被災時の状況、復興への取り組みを取材しました。

高校現場、県教育委員会、福島大学を取材しました。

成果は、雑誌や本で発表する予定です。

4月 16

『サンデー毎日』の今週号(4月24日号)で、大学入試問題のミスに関する記事が出ている。
私も取材を受けて、1時間近く話したが、話した100の内、1しか使われず、それもどうでも良い部分だった。

私は大学入試が、日本社会の高度経済成長期、建前の「平等」と現実の「格差」の矛盾を隠す安全弁の役割を果たしてきたこと。
それが、今も、惰性的に続いていること。
それを述べたのだが、
それは
この記事が問題にしていることを、根本問題の矮小化だということになる。

関心のある方は、拙著『大学入試の戦後史』(中公新書ラクレ)をお読みください。

を根底から記じの