6月 07
花は生殖器である
花は美しい、強い香りや甘い香りを放つものも多い。しかし、ではなぜそのように美しいのだろうか。また、なぜ強い香りで人を引き付けたりするのか。それを考えたことがおありだろうか。
端的に言えば、花は生殖器であり、生殖活動のために存在しているからである。花が美しいのはその生殖活動のためなのである。虫や鳥に受粉してもらうために目を引き、その五感に訴えるのである。
人々が愛でる花々は生殖器そのものであり、それを美しいなどと言っているのは少々滑稽なのである。花はただ、生殖器としての使命、生殖活動をひたすら行っており、自らの種の保持をそこで果たそうとしているだけなのである。無心にそれを行っている。
ただ人間がそれを美しいとか、高貴だとか、可憐だとか、勝手なことを言っているのだ。それだけではない。人間が登場すると、本来の意味が失われ、大きく変質していく。
人間にとって美しいという観点から、観賞用の園芸種が沢山生まれていく。あざやかさ、華麗さ、清楚さ、色や形に趣向を凝らし、まさに百花繚乱である。しかし本来の生殖器としてのあり方からはかなり逸脱しても行く。
その典型がソメイヨシノである。ソメイヨシノは本来の生殖機能を全く失ってしまった花である。
「花は生殖器である」。それを知ると興ざめと思う人も多いだろうが、私は花を生殖器として意識してこそ、花の美しさを一層意味深く、観照できると思う。花は果実を生むことで、植物の生涯の「終わり」であり、また次の世代の「始まり」である。植物の一生は、花を咲かせ、果実を作ることで完成する。そこには美しさも儚さもあるが、自らの種を維持するために懸命に生きる強さがあり、そこにいじらしさも感じる。
生殖器として花を意識して観賞するようになると、人には気づかれることなくひっそりと目立たないように咲く花々の姿が見えてくる。
どんぐりになるような樹木郡は皆そうである。多数の地味で小さな花をざわざわと毛虫のようにつけていてまるで美しくない。強い香りを放つが、それは生臭く、まさに生殖のにおいである。そしてそのざわざわとした花々からたくさんのどんぐりが実っていく。
2022年5月31日
5月 11
原理・原則を持って生きる
人が生きていく上では、原理・原則を立て、それで自分を律していくことが必要だと思う。それは自分の基準を持つことであり、自分の生き方を自覚しながら生きることになる。
それがない場合はどうなるか。ただ、状況に流される、その自覚もないままに流されるのではないか。それは偶然性の立場である。私はそれに対して必然性の立場に立ちたい。必然性を理解し、その上で生きていきたいと思う。
原理・原則と来ると、すぐに「例外」が問題なる。
どんな原理・原則にもたくさんの例外を挙げられるだろう。それをどう考えたらよいのだろうか。
例外があるなら、その原理・原則は無効だとする意見がある。いや、そう簡単に破産宣告ができるわけではない。
例外があることが意味するのは、大きくは2種類である。
1つはその例外が、原理・原則の根本的な間違いを示す場合と、もう一つは根本の間違いではなく、その部分的な限界を示す場合である。
後者の場合には、その原則は一部の場合にしか有効ではないのだが、そこから次の問いが生まれる。では全体とは何か、それに対して原則の有効である部分はどこに位置づけられるのか。それを調査、観察し、より有効な原則を作ることができるだろう。
しかし、前者の場合では、原理・原則を打ち立てた立場には、根本的な欠陥があり、それを解決するしかない。しかし、例外は原理・原則の欠陥とは何かを考えるヒントになる。
こうして理解は深まっていく。そしてこうしたことができるには、そもそもの原理・原則を立てていくしかないのである。例外は、ただ原則の無効性を示すのではなく、その原則を発展させるものなのである。
原理・原則を待たない生き方には、発展がなく、それは先がない生き方ではないだろうか。
こう考えてくると、原理・原則とは、一般的には「方法」のことになるのではないか。原理・原則を持って生きるとは、「方法」を持って生きることに他ならない。
人は大きな問題に対しては、自分の方法を意識して臨むべきなのだ。問題の解決のためはもちろんだが、その方法を繰り返し反省するためにもそれが必要なのだ。
そしてこの「方法」が反省によって深まった時には、それは自分の「哲学」であり、それが自分の人生を作り、人生を決めていく。
2022年4月30日
5月 10
人の呼び方
中井ゼミでは、メンバーの互いの名前の呼び方が問題になる。さん付け、君付け、などの違いが問題になる。
思想を問題にする組織である以上は、平等、公平を考えるべきであり、呼び方が問題になるからだ。
一般には姓名を呼び合うだろう。大人同士であればさん付けが普通であろう。
しかし、男性に対しては年齢によって、若者たちには君付けで、ある年齢以上になるとさん付けになったりする。
女性には一般に姓名のさん付けであるが、結婚や離婚によって姓が変わるため、それがわずらわしい。そこからも夫婦別姓の問題が見えてくる。
学校などでは、一般に女性にはさん付け、男性には君付けが行われてきたが、それは不公平なので、すべてにさん付けにしているところも多い
芸名やペンネームでは、結婚や離婚に関係なく、同一の名前を使用するのが普通だ。
本来は個人の時代であれば、ファーストネーム、名前を呼ぶことが解決になると思う。西欧ではそのように行われている。しかし日本では一般的にはファーストネームを呼び合うことはなく、姓名を呼び合うのが普通なので、この慣習とのギャップをどう考えるかが問題である。
読者のみなさんはどう解決しているだろうか。
2022年4月30日
5月 09
感受性訓練
中井ゼミのメンバーに、感受性訓練にはまった人がいる。その人は、一時、感受性訓練に夢中になり、人への勧誘にも精を出したようだが、大きな疑問も感じて苦しんでいた。
私自身も20代ではカール・ロジャースの開発した「エンカウンター・グループ」に何回か参加し、人間理解、自己や他者理解において、多くを学んだ。しかし、そうした方法の限界にもぶつかり、それを超えるために、ヘーゲルやマルクスを学んできた。
感受性訓練の意義と限界について考えておく。
その意義は、今の社会には自分の心を閉ざしている人間が多く、その対策になっているということである。しかもかなり有効な対策だと思う。
多くの人が、今、他者に対する疑心暗鬼の中で生きている。傷つくのが怖いので、人に心を開くことができない。体を鎧で固めて生きているようなあり方である。
それは他者への対応だけではない。実は、自分自身の感情や情動にどう向き合うか、どう対応したら良いかがわからないでいるのだ。
これは単に心の問題、心の在り方の問題だけではない。人との実際のコミュニケーションのあり方の問題になっている。それは家庭での子育てや夫婦、親子関係から始まり、広く社会的なコミュニケーション、さらに社会的な教育の場や、政治や経済の場での議論の中でも大きな問題になっている。
感受性訓練は、こうした問題に対しての対策としてはかなり有効である。このレベルで苦しんでいる人が多数いるのだから、その人たちには救いであり、それによって他者に心を開き、自分の感情や情動と向き合えるようになるだけで、解決する問題も多数あるのだ。
人は本当に生きようとするのなら、他者や自己の感情に心を開き、人と深く関わるような生き方を始めるしかない。たくさんの失敗も起こり、その都度傷つくだろうが、その中で貴重な出会いも経験できるはずだ。
しかし感受性訓練は、こうしたレベルにおいての有効性しか持たないことも言っておかなければならない。現代社会の大きな枠組みの問題、経済の問題、その経済の上に存在する国家や社会制度、法律や憲法の問題それ自体については無効である。それらについては知識と認識と思考の能力が必要になってくる。
社会とは何か、経済とは何か、国家とは何か、法律や正義とは何か、人権とは何か、そもそも人間とは何か、そして私とは何か、私はこの現実世界の中でどう生きたらよいのか。
これらの答えは感受性訓練からは学ぶことはできない。
2022年4月30日
4月 10
私の初めての哲学本が4月25日刊行です。
タイトルは
『ヘーゲル哲学の読み方』
サブタイトルは
「発展の立場から、自然と人間と労働を考える」
出版は社会評論社
270ページほど
定価は2300円(+消費税)です。
参考にしていただくために
目次と前書きにあたる文章(「読者に」)を以下に掲載します。
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目次
第1部 発展の立場
第一章 ヘーゲルの時代とその課題
第二章 発展とは何か
第2部 ヘーゲル論理学の本質論と存在論
第一章 ヘーゲルの論理学における本質論
第二章 存在論における「変化」 存在とは何か 変化とは何か
第三章 本質論の現実性論
第四章 ヘーゲルの三つの真理観 本質と概念の違い
第3部 物質から生物、生物から人間が生まれるまで
第一章 物質から生物への進化
第二章 生物から人間が生まれるまで
第4部 ヘーゲル論理学と概念論
第一章 ヘーゲルの論理学と労働論(目的論)
第二章 普遍性・特殊性・個別性と、概念・判断・推理
第5部 人間とは何か
第一章 人間と労働
第二章 自然の変革 ?自然への働きかけから自己意識が生まれ、「自己との無限の闘争」が始まる
第三章 社会の変革
第四章 個人としてどう生きるか 私たちの人生の作り方
第五章 人間の概念、人間の使命
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読者に
本書の読者として想定しているのは、哲学の専門家ではありません。
日々の生活の中で直面した問題を本気で考え、困難な現実と真剣に戦っている方々こそ、私の読者だと思っています。
その人たちに届く言葉で、届くように語ろうとしました。
それでもヘーゲル哲学は難しく、私の理解がまだまだ及ばないところがあり、それゆえに難しい用語が並び、
読むのが困難だとしか感じられないところがたくさんあると思います。
そこで、全体の構成と私の意図を最初に説明します。これを念頭において読んでいただければ、
闘うための武器としてのヘーゲルゼミ哲学の項目リストができるはずです。
まず、第1部を読んでください。これが本書を読んでいただくための前提となります。
第2部はヘーゲルの論理学の内の本質論と存在論の説明です。ここはヘーゲル哲学を読む上で、
どうしてもクリアーしておかなければならない部分なのですが、前提となる哲学用語の知識がないと、最も難しいところです。
全体を飛ばすか、流し読みをするとして、第4章だけはしっかり読んでください。
これがヘーゲル哲学が現代を生きる人にとっての最大の武器になるところだからです。
本質と概念の違いは大切です。
さらに可能なら、第1章の(9)の根拠の限界と、その克服の方法(7)、
第3章の(4)の偶然性と必然性の区別には目を通してほしいです。
読者のみなさん自身で、日々の経験を例にして考えていただけば、
諸問題の本質や解決策を考える上でヒントになることがたくさんあると思います。
第3部では具体的に、物質から生物、生物から人間が生まれるまでの過程を追いました。
生物に関心がない人は飛ばしても大丈夫です。
第4部は第2部を受けて、ヘーゲル論理学の全体とその概念論の説明です。難しければ飛ばしてください。
第5部が本書の本丸です。人間とは何か、私たちはどう生きるべきかを考えています。
その際、自然と人間、その両者をつなぐ労働という3者の関係で考えています。
人間が自然に働きかける際には、人間社会自体を変革することを媒介としています。ですから、
第2章に自然の変革が、第3章に社会の変革が置かれています。最後に、個人の人生と、人間の使命を示して終わっています。
難しいところは飛ばしながら、骨子を考えてみてください。
ヘーゲル哲学の概説書、解説書は、多数あります。本書もそうした形式をとっていますが、
概説書や解説書を書いたつもりはありません。私がヘーゲル哲学を紹介したいのは、
それが現代社会の中で生きて戦っていくうえで、それを根底から支える武器として、最大、最高のものだと思うからです。
ヘーゲル哲学とは、一言でいえば、発展の立場であると思います。
自然も人間も、私たちの社会も、すべてが発展によって生まれ、運動し、
対立と矛盾による消滅を繰り返してきたものなのであり、
それを理解するためには発展として理解しなければならない。
そうでないと、諸問題の理解ができず、問題と本当に闘っていくことができなくなる。
だから、ヘーゲルは発展とはどのような事態であり、発展として物事を理解するとはどういうことなのか、
それを明らかにしようとしました。
また闘う際には、できる限り、本質に即して、有効に闘い抜きたい。
そのためには、自分自身と、他者や社会とどう関わっていくかが大きな問題です。
ヘーゲルは人間の本質を「自己との無限の闘争」をする存在としてとらえました。
本書ではそれをできるだけ簡潔にわかりやすく描こうとしました。
本書が解説書ではないというもう1つの理由は、ヘーゲル哲学をありのままに説明するのではなく、
そこに潜在的(an sich)にあるにとどまっているものをも、
現代の中に発展させた形で示すことをめざしたからです(これが本当の批判です)。
それができなければ、ヘーゲル哲学の概説や解説をしたことにはならないでしょう。
発展について語りながら、発展させる能力を持たない人間を、読者は信用できないでしょうから。
本書で示したことは、ヘーゲルの中にそのままあるか否かに関わりなく、
本来の発展という考え方から当然出てくるものを、私に可能な限り明確に、簡潔に表そうとしたものです。
当然その中には、ヘーゲルへの批判も含まれています。
それは、私には、本来の発展の本来の考え方からの逸脱に思える部分であり、
ヘーゲルの世間への妥協、彼の弱さの現われに見える箇所です。
そうした個人の事情はあったにしても、大きくは時代の限界としてとらえるべきでしょう。
私たちは、現代の立場から、ヘーゲルの先に進まなければならないはずです。
他に、マルクス、エンゲルスについても言及しましたが、ヘーゲル哲学に対しての態度と同じスタンスで臨んだつもりです。
読者もまた、本書に対して、同じスタンスで読んでいただけるようにお願いします。