私の初めての哲学本が4月10日刊行予定です。
タイトルは
『ヘーゲル哲学の読み方』
サブタイトルは
「発展の立場から、自然と人間と労働を考える」
出版は社会評論社
250ページほど
定価は2200円(+消費税)の予定です。
私の初めての哲学本が4月10日刊行予定です。
タイトルは
『ヘーゲル哲学の読み方』
サブタイトルは
「発展の立場から、自然と人間と労働を考える」
出版は社会評論社
250ページほど
定価は2200円(+消費税)の予定です。
大学入試センター試験が2020年から大きく変わります。
この点について、取材を受け、意見を求められることが増えてきました。
この1ブログでもはっきりと見解を出しておきます。
以下は『こら、慶応』(2018年12月29日刊行 宝島社)というタイトルの慶応大学の「裏ガイド」の取材を受けた内容のラスト部分です。
以下は、私が書き足したものです。
————————————————–
大学入試センター試験の改悪
2020年から現行の大学入試センター試験に代わって大学入学共通テストが始まる。
記述式問題が一部で導入され、英語の4技能のための民間試験が使用されることなどが話題になっている。
しかし、私はこの改革には賛成できない。現実の深刻な問題を無視した、きれいごとでしかないからだ。
現下の日本の教育の最大の問題とは、経済格差の拡大、それによる学力格差の拡大である。
特に低学力層の学力低下が止まらないでいる。それへの対策こそが急務なのである。
したがって、入試改革の議論も、当初は高校生の学力を基礎レベルと発展レベルに分けて、それぞれの「達成度テスト」の導入が検討された。
従来のセンター試験は発展レベルであり、基礎レベルのテストの導入こそが真剣に検討されていたのである。
ところがいつのまにか、基礎レベルの方は消えていまい、「発展レベル」だけが、記述式問題や英語の4技能などできらびやかな装いをもたせられ脚光を浴びることになった。
これは本末転倒である。「発展レベル」は従来のままで問題はなかった。
本当は、大学全体が入試における3段階に区分され、ほとんどの大学から入試がなくなる方向に進むべきだったのだ。
それが、今回の改革(改悪)のように、現実の問題解決に役立たない、摩訶不思議なことが起こっている。
「学力低下」が問題になっているが、激しく低下しているのは、こうした改革を行おうとしている中央教育審議会の委員たちと霞が関の役人たち、政治家たちである。
今の日本の大人たちは、自らが問題を直視できず、問題解決の能力がないことを示している。
彼らは、戦後の入試改革の失敗の歴史、SFCの失敗から何も学ぼうとしていないのである。
大学通信の広報誌『ユニヴプレス』の2018年11月刊行の号で、中井の「文章力」についての取材記事が掲載されました。
全国の高校の進路・進学指導の先生方に読まれる雑誌です。
大学入試が2020年から大きく変わりますが、高校生に、自分の問題意識とそれを表現する能力が問われます。
それについての取材を受けて、中井が語ったことがまとめられています。
文章とは、最終的には「自分とは何か」に答えることです。
問題解決や、社会問題への取り組みは重要ですが、それもすべては自己理解から始まり、最後はそこに戻るのです。
このことを、指導者自身がどれだけ深く理解できるかに、その教育や指導の成否はかかっていると思います。
関心のある方は、以下をお読みください。
▽File_02 大学入試改革に向けて「文章力」を考える
この記事を通して、全国の高校の先生方に、表現指導の意味と、それに関わることに求められる責任を伝えたいと思います。
そして、これに反応して、表現指導のために、自己学習、学習と修行が必要だと理解し、私が関わっている「高校作文教育研究会」に参加する人がたくさん出てくることを期待しています。
朝日新聞出版の週刊誌「AERA 」に国語専門塾・鶏鳴学園が取り上げられました。
2018年9月24日号(15日発売)の特集「塾と予備校を選ぶ」の中の「『一人じゃない』と思える居場所」の中(23ページ)です。
「置き勉」を認めるようにと文科省が通知を出した件で
ニュースサイトBusiness Journalに取材を受け、それが昨日9月15日より掲載されています。
https://biz-journal.jp/2018/09/post_24775.html
教育現場には文科省→教育委員会→学校といった指示系列があり、本来は、教育委員会や学校は独立して自律的に判断をすればよいのに、上の指示がないと動けないでいることを指摘しました。
また、教科書や副教材が重くなってことについては、この20年間の教育についての議論の総括が必要なことを述べました。学力低下論争が起こり、「ゆとり教育」が否定され、その結果、教材は重くなりました。そして、重くなったらなったで、今度は「置き勉」を認めましょうというわけです。つまり、文科省にも、教育現場にも、さらにはマスコミや国民にも、方針や考え方の一貫性がないのです。結局、「ゆとり教育は是か非か」の総括をするべきなのに、小手先のところでお茶を濁しているだけなのです。