11月 05

2019年の夏の学習会では
 前半の2日間はヘーゲルの原書購読。小論理学の本質論の112節から122節の本文と注釈(付録部分は適宜選択)
を読みました。
 
 この目的は、本質論における存在の運動とは何か、そこで明らかになる本質とは何か、
どうすれば認識は深まるのかについて、ヘーゲルの考えを確認することでした。
 本質論の最初に置かれる、同一、区別、根拠の展開の意味、本質論の前に置かれた存在論は何なのか、
そこで示される根拠とは本質一般のことだが、その後、現象論と現実性論で展開される本質とどう関係し、
概念とどう関係するのか。本質論が、関係の論理とされることはどういう意味か。
 これらを確認することが目的でした。それは達成できたと思います。

 その成果を掲載します。

■ 目次 

ヘーゲルの論理学における本質論  中井浩一

1.論理学の中で一番難しい本質論
2.本質論における反省論
3.根拠の立場の不十分さ
4.同一と区別の反省規定
5.根拠とは何か 
※ここまでを本号に掲載。以下は次号へ。

6.根拠を深めるには、区別を深めればよい
7.矛盾の立場と思考の諸段階
8.根拠の立場
9.全世界は自己同一であり、自己区別の世界である
10.本質論における現象論と現実性論

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ヘーゲルの論理学における本質論

1.論理学の中で一番難しい本質論

ヘーゲルの時代にあって、その当時の哲学や諸科学に対するヘーゲルの激しい不満は、その真理認識の不十分さにあった。その認識が偶然的なレベルにとどまり、必然的な真理を示せないでいることに対する不満である。
1つの現象に対する根拠(理由、原因)が複数挙げられ、そのうちのどれがなぜ重要なのかが示されない。しかも、対立する2つ以上の根拠がともに挙げられたりもする。それらの全体がどう関係するのかは不明なままで、そのどれがどのように正しく、どれがどのように間違いなのかは示されない。
 ヘーゲルがこの問題と闘ったのは、何よりも彼の論理学においてである。
 それは諸科学の問題の根底に、思考能力の低さ、そのカテゴリーの運用能力の低さ、つまり思考における悟性レベルの低さを見ているからであり、それを克服した理性レベルの思考を示すためである。
それは論理学のどこでどのように問題にされているのか。
論理学の全体は、存在論と本質論、概念論からなっている。その本質論こそが、この問題の主戦場である。世間や諸科学でなされていることはこの本質論が問題とする領域にほぼ重なるからである。
「本質論は論理学の一番難しい部分であるが、そこには、とりわけ形而上学と諸科学一般のカテゴリーが含まれている」(『小論理学』114節注釈)。
ここにヘーゲルが何と闘っていたのかが明示されている。敵とは形而上学と諸科学一般の考え方だったのである。
そしてそれは、ヘーゲルの論理学では、本質論に集約されているのである。それだけに、ヘーゲルはここでこそ闘った。それが「一番難しい」という言葉によく出ている。

2.本質論における反省論

ヘーゲルは本質論を3段階に分ける。「それ自身における反省としての本質」(今後「反省論」と呼ぶ)、「現象」論、「現実性」論である。
この現象論、現実性論は、哲学と諸科学の実際の認識が問われている。その前の反省論は、全体の序論として置かれ、問題のありかとヘーゲルの立場を明確に示している。
哲学と諸科学の認識に問題がある以上、問題がどのように生まれてきたのか、その過程の中に、その問題の克服の方法も示されている。
それは冒頭の反省論に端的に示されている。反省論の内部は、仮象論、同一と区別の反省規定、根拠となっている。ヘーゲルは仮象と根拠の関係から、同一性、区別の反省規定を導出し、その同一と区別の統一として根拠を示す。そして仮象と根拠の統一(根拠から仮象をとらえ直す)から次の現象を出す。
哲学と諸科学の問題とは一般的に言えばこの根拠の不十分さである。そして、根拠の立場に問題がある以上、その問題がどのように生まれてきたのか。その過程の中に、その問題の克服の方法も示されているはずである。これがヘーゲルの基本的な方法であり、これが発展の立場なのである。これらは序論として置かれた反省論で示されるはずだ。

そもそも、私たちに本質が問われるようになるのはどういう時だろうか。
 それは感覚の世界への疑いが始まった時だろう。感覚でとらえたものが、実際とはズレていることを知ったり、感覚でとらえる世界が確かなものではないことを自覚した時。
存在するものの世界は無常であり、ただ変化していく。生まれ、変化し、消滅する(これは変化する多様性の世界、区別の世界である)。その中に変わらないものがあるのではないか、感覚を超える世界(これは変わることのない同一性の世界である)があるのではないか、それが本当に確かなものなのではないか、ととらえた時に、私たちは本質論の入り口に立つのだろう。
 その時、感覚の無常な世界と、感覚を超える世界、変わらない世界との関係が問われる。
 それが無関係ではなく、変化しゆく、移ろう世界は、変わらない世界の何らかの現れではないか、ととらえた時に、本質論のただ中に、私たちは立つのである。
こうした関係において、一般に前者が外的な現れ、「仮象」と呼ばれ、後者が内的本質、「根拠」と呼ばれており、ヘーゲルもそれを踏襲する。この根拠とは、普通には理由であり、原因結果の因果関係としてとらえられる考え方である。

3.根拠の立場の不十分さ

ではこうした根拠の不十分さとは何か。
根拠の立場は、対象を内化させ、その内的根拠を探せばよい。対象を二重化させ、その根拠に媒介されていればよい。それがこの根拠の立場であり、それ以上のことは根拠では問われない。ここにその限界、根拠の不十分さがある。
ヘーゲルは次のように批判する。
「事物の根拠を問う時には事物をいわば二重に、まずはその直接態において、次にはその直接的なあり方ではない根拠において〔根拠から媒介された姿において〕、見ようとしているのです。事物は本来媒介されたものとして考察しなければならないということにすぎません」。
「論理学の仕事とは、たんに表象されただけであるが故に概念で捉えられておらず証明されてもいない観念を、自己規定しゆく思考の諸段階として示すことでして、それによってそれらの観念が概念で捉えられ証明されるのです」。 
「根拠というものはいまだ絶対的に規定された内容をもっておらず、したがって、ある物をその根拠から理解しただけでは。その物の無媒介の姿と媒介された姿との形式上の区別を知ったにすぎないということです。ですから、例えば、ある電気現象を見てその根拠を問い、その根拠が電気だと知らされても、それは、目の前に無媒介に与えられた同一の内容が内的なものへと翻訳されたにすぎないのです」。
「根拠は単に単純に自己同一なものであるだけではなく、〔自己内で〕区別されたものでもあります。ですから同一の内容について複数の根拠を挙げることができます」。「同一の内容に対してそれを肯定する根拠と否定する根拠とが挙げられるということになります」。
(以上『小論理学』121節付録から)

4.同一と区別の反省規定

根拠の立場に不十分さがあるのならば、それは仮象と根拠との関係に不十分さの原因がなければならない。またそこにその克服の道も示されるはずである。
したがって、仮象と根拠との両者を結ぶ、同一性と区別の反省規定が核心になる。

根拠とは、何らかの存在の内的本質(変わることのない同一性)であり、仮象とは根拠の外的現われ(多様な区別)のことである。しかし、この同一性と区別の2つの側面は切り離せないし、2つで1つなのである。1つの対象が2つに分裂、区別され、しかし、その2つは、1つの対象の2つの側面であるから、同一なのである。だからヘーゲルはここに自己同一性と自己区別を見ていく。
 この区別は自己から自己を突き放すこと、つまり1つの自己が分裂した状態がここにおける区別、つまり自己区別であり、だからこそ両者はそもそも同一、つまり自己同一(自己と自己との同一性)なのである。
 だからこそ、根拠の同一性とは、単なる抽象的な同一性ではなく、同一と区別という対立・矛盾を自己内に2つの契機として含み持った、より具体的になった同一性なのである。

ヘーゲルがここで導出した同一と区別とは、一般にはAとBを比較して、AとBは同じだとか、異なっているとかという際の、同一性(同等性)や区別(不等性)としてとらえられる。それがさらに抽象化され、同一律(A=A、AはAである)、排中律(ある物はAか非Aであり、第3者は存在しない)、矛盾律(Aは同時にAかつ非Aであることはできない)として意識されている。これらは思考の3大法則と呼ばれ、すべての人が従っているものであり、これゆえに比較が可能になっているとされている。
しかし、それは原因ではなく、結果でしかない。ヘーゲルは、それらの思考法則が成立するように見える根拠として、自己同一と自己区別をここで提示しているのである。つまり、比較の際の同一や区別を言うことが可能なのは、そこに最初から自己同一の関係があり、同時に自己区別でもあるからなのである。
このことは、世間でもある程度理解されており、比較が可能なのは、根底には同一性があり、その上での違いがとらえられるからだと言われているのである。(『小論理学』118節付録)
ライプニッツが問題にした「不可識別者同一の原理」(すべてのものは異なっている、完全に等しい2つのものは存在しない)をヘーゲルは取り上げて、その真意を「ある物はそれ自身で異なっている、それ自身の規定によって異なっている」という意味だと説明し、それを「自己区別」の主張だと言う(以上『小論理学』117節の注釈と付録)。それは「自己同一」の主張だと言っても同じことなのである。

こうしたライプニッツやヘーゲルのとらえ方は、もちろん、同一律・排中律・矛盾律への批判として出されているのである。
いわゆる同一律・排中律・矛盾律と、自己同一と自己区別とは、根底において全く対立し、矛盾する。ヘーゲルはここで、こうした思考法則を悟性的な低さとしてとらえ、それが哲学や諸科学の根底にあるがゆえに、その根拠の立場の不十分さを生むととらえている。
◆哲学や諸科学は、根拠を複数挙げることに躊躇ない。中には相互に対立するものを挙げても平気である。
「形而上学と諸科学一般のカテゴリーは反省的悟性の産物であり、反省的悟性というものは、区別された諸項を自立的なものとしながら、同時に又それらの区別項の相対性〔関係〕も認めるのだが、その時その諸項の自立性と相対性を並列的ないし前後的共存関係として、「もまた」というようなことで結びつけて終りとするだけで、これらの観念をまとめ〔内在的に関係づけ〕て、それを概念にまで統合することをしない〔から〕である」(『小論理学』114節注釈)。
この「もまた」ということをやめることから、哲学は、真の思考は始まるのだ。
では、その「概念にまで統合すること」、つまり、必然的な根拠、その全体を明らかにするにはどうしたらよいのか。

5.根拠とは何か

回答は、複数の根拠がただ並べられるだけの関係を、より必然的な関係へと深めていけばよい、となる。
その方法は、区別の関係を深めることによって示されている。
ヘーゲルは、反省論の反省規定で同一性と区別を取り上げ、区別の内部では、差異→対立→矛盾の順番に取り上げていく。この区別の進展に、ヘーゲルは関係の運動の深まり、発展を見ていく。
差異とは、ただの違いであり、直接的区別である。しかし違いが深まると「対立」関係が現われる。ここで対立しあう両者が反照しあう。「他者がある限りでのみ存在する」。「自己に固有の他者」を持ち(相互依存)、相互に排除しあう。「一方は他方との関係の内にのみ自己の根拠を持ち、他方に反省している限りにおいてのみ自己に反省する。他方もそうである」(『小論理学』119節)。ここに矛盾が始まるが、矛盾はさらに激化し、その中から矛盾を克服する運動が起こり、止揚される。

ここにヘーゲルが示す区別内部の深まりは、そのままに根拠同士の関係が対立し、その矛盾が深まっていく過程である。
そもそも、根拠とは同一性と区別という矛盾を止揚し、両者を自己の契機として含み持ったものであった。それは「総体性として定立された本質」であり、「矛盾として定立された対立の最初の結果が根拠である」(『小論理学』119節付録)。
根拠は自己内に同一と区別を含み持っている。だからこそ、1つの内容に対して複数の根拠を挙げることができるのである。
根拠は、実は仮象と根拠に分裂する以前の最初の同一性に戻ることであるが、最初の抽象的な同一性に対して、1つ上のレベルの具体的な同一性である。最初の同一性の中にあった、同一と区別を自らの両契機として止揚している同一性だからである。
根拠は、実は最初の同一性の中にあり、そこから区別として外化し多様な世界として現れるが、それらは対立から矛盾へと深まる中で運動をおこし、その対立や矛盾はその運動の中で止揚され、それらの根拠が現れてくるのである。
この対立から矛盾の深まりによって、根拠に戻るというとらえ方が、ヘーゲルの矛盾観であり、これが実は発展そのものの論理である。

明日へつづく

10月 29

マルクス・ゼミの案内

マルクス・ゼミをウェブで行っています。

マルクスの基本テキストを原書で読んでいます。
『経済学批判』の序言を読み終えるところです。
これから『経済学批判』の序説から「3 経済学の方法」、『資本論』から「労働過程論」を読む予定です。

原則として毎週月曜日午前9時から開始。2時間から3時間ほどです。

参加希望者は早めに申し込みをしてください。
ウェブでの参加方法も、事前に指導します。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

6月 18

「個人の問題と組織(ルール)の問題」の続きです。  

■ 目次 

個人の問題と組織(ルール)の問題  中井浩一 
※前号からのつづき
5.近代社会の原理原則とヘーゲルの『法の哲学』
6.マルクスの問題
7.犯罪と刑罰

付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)

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5.近代社会の原理原則

 鶏鳴学園では以上のように考え、2章「組織運営上のルールの問題」、
3章「個人の問題はどのように取り扱われるべきか」に述べたように指導することにしたのだが、
実は、ここで問われているのは、現代社会の原理原則の問題そのものであり、近代以降の社会の原理原則なのだ。
 ここにおいては、ルールが確立されていることが、個人を束縛するだけではなく、
同時に個人を守る側面があることに注意したい。ルールに従っている限り、互いの善悪を問題にしたり、
その内面に踏み込まなくて済むからだ。

 これはヘーゲルが『法の哲学』で明らかにしようとしたことなのではないか。
その第2部道徳が、第3部Sittlichkeit(人倫と訳されることが多いがわかりにくい。法律や制度として
実現しているありかた)で止揚されることの意味は、ここにあるのではないか。
 個人の言動の良しあしが問われるのは、道徳の段階と言える。それに対して、組織のルール(Sittlichkeit)
の作成や確認を、人間の自由の実現の過程と見るのがヘーゲルである。
 カントの道徳律は、個人の内なる絶対的法則を示し、高く強い基準を打ち出した。
それに比較して、現実社会の諸制度や法律群は、はるかにぬるい、ゆるいものでしかない。
 では、そのどこが、道徳を止揚した側面なのか。
それは、明文化され、外化、客観化されていて、みなが簡単に確認できるところだ。
そして、それを守る限り、どんな他者も国家も、個人に踏み込むことはできない点だ。
ここに自由の実現の一歩があり、これが民主主義社会の基本的な枠組みなのではないか。
 そして、その時代と民族の発展段階が、その法制度にそのまま反映される。
その実体を超えたルールを作ることはできず、もしそうしたルールを作っても、
その運用面で時代と民族の現状を反映したものとなる。
そして古い民族の諸制度を超える民族や社会が現れて、古い民族とその諸制度は滅びてゆく。
 これらが、そのまま、私が考えたルール設定の意味と重なる。

 しかし、ヘーゲルの『法の哲学』をこのように理解した時には、ヘーゲルの考察の不十分さや限界も明らかである。
 個人の道徳レベルには大きな幅があり、そこにはカントの道徳律やイエスが求めたような高い基準もある。
実際に社会に実現しているルールは、それに比較すればはるかに低いものに止まっている。
それをどう考えたら良いのだろうか。ヘーゲルの叙述と展開ではカントの道徳律のような、
個人の内的な高い生き方が実現していく契機や過程がわからなくなるのではないか。
 ヘーゲルの『法の哲学』には、ルールや諸制度の確立と、個人の内面の問題の相互関係の段階が
きちんと設定されていない。本来は、第2部道徳、第3部Sittlichkeitと続いた後に、Sittlichkeitから
道徳がとらえ返される段階、両者の相互関係を問う段階が必要なのではないか。
そして、その相互関係から、時代と民族、その法制度の発展、つまり「世界史」を導出すればよかったのだ。
 その段階が欠落した『法の哲学』では、個人を組織の暴力から守る観点が弱く、
「個人がない」という批判を受けることになった。
 ただし、その批判は妥当ではない。または表面的なのである。
なぜならヘーゲルには「英雄論」があるからだ。
英雄=指導者と民衆の関係と、その民族の実体との関係をヘーゲルは次のように説明する。
 「英雄」は、その民族精神の実体を自覚し、それに向けて民衆を指導しようとする。
 英雄は民衆の中から現れ、役割が終われば、民衆の中に消える。
英雄が現れて、民衆の中の実体、真理を自覚し、民衆にその真理に目覚めることを促し、
その真理を実現するように指導していく。社会は民衆と指導者に分裂し、それを統合する過程で、社会は発展していく。
 ヘーゲルはこのように考えていたようだ。したがって、民族の発展は、英雄個人の意識に媒介される。
これは、外的な必然性は個人の内的意識(自発性)で媒介されなければならないということである。
ヘーゲルは、個人(英雄)の役割を認め、個人の意識の民衆などからの独立性、自立性を、
はっきりと認めていたことになる。つまり、ヘーゲル哲学にあっても「個人」は大きな役割を果たしている。
 しかし、ヘーゲルには時代の限界があり、現在の私たちから見れば、大きな問題があると思う。
それは大きくは2つある。
 (1)英雄と民衆の分裂と統合は、対立のない予定調和的なものではなく、
たえざる対立や闘争を媒介として進んでいく。(2)英雄と民衆の対立・闘争は、個人の意識内での分裂と
闘争を引き起こす。ヘーゲルは、これを英雄個人だけにしか認めていないように見えるが、
意識内の分裂はすべての民衆の意識内に起こり、その克服はすべての民衆の課題となっている。
 この2点を考える時、ヘーゲルの『法の哲学』では、ルールや諸制度と個人の内面との相互関係の段階が
きちんと設定されていなかった理由がわかるだろう。ヘーゲルには、個人を組織から守るという観点が弱い。
個人と社会の対立抗争によって、社会が発展するという理解が弱い。
 そして、この意味では、ヘーゲルには「個人」がないとの批判は当てはまるのだ。
 ヘーゲルの時代には、それは大きな問題にならなかった。民衆の意識がまだまだ未成熟だったからだ。
しかし、私たちの現代社会は民主主義の段階にまで進んでいる。
そこでは民衆の個々の意識内部の分裂と統合こそが問われるだろう。

6.マルクスの問題
 
 以上のように、今の私たちの問題からヘーゲルの『法の哲学』にもどって、近代社会の枠組みの総体を考えてくると、
どうしてもマルクスが思い出される。

 マルクスの疎外論や貨幣の物神化論、国家や私有財産の廃止論だ。それらには大きな問題があると思う。
そこでは疎外や物神化や国家や私有財産そのものを悪いとしているように見える点だ。
マルクスは、道徳から法制度へと発展したものを、また元の道徳のレベルに引き戻そうとしているように見える。

 本来、疎外や物神化、国家や私有財産そのものは何も悪くない。
それは見えにくい現代社会の問題が外化、客観化されたものでしかない。
私たちは、その内実を自覚することで、初めてその問題に取り組むことができる。
したがって外化とは自由への一歩だろう。
 また、その内実、問題とは、ただ善悪といった基準でとらえることはできない。
それはその社会の実情、その社会の能力の反映そのものだからだ。
そしてそう考えることが唯物史観なのだと思う。
 もちろん、疎外や物神化、国家や私有財産そのものが正義や自由なのではない。そこに何が外化され、疎外されているのかを問わなければならず、その問題に取り組むから自由が実現できるのだ。それが意識されず、自覚されないでいることをマルクスは問題にしている。
 しかし、それは疎外や物神化、国家や私有財産そのものが悪であり、不正義であり、
それを滅ぼさなければならないということではない。

 金もうけのために、すべてを手段とし、人間までを手段とする人がいる。「金で買えないものはない」。
 しかし、そうした人や考え方が生まれたのは、金のせいではないし、資本主義のせいでもない。
もとからその人は、自分のために、他人を手段としていただけのことだ。
貨幣や資本主義は、それを見えやすく外化させただけではないか。
それは問題が見えるようになっている分、自由への一歩である。

 以上のように、マルクスの疎外論や貨幣の物神化論、国家や私有財産の廃止論には、
道徳から法制度へと発展したものを、また元の道徳のレベルに引き戻そうとしている側面がある。
 しかし、実はそれにはヘーゲルへの批判として正しい側面も確かにあったのだ。
それは、ヘーゲルが道徳という個人の内面、個人レベルを軽視し、道徳とルールの相互関係の段階を
きちんと設定しなかったことへの批判である。
 しかし、マルクスは問題をきちんととらえることができず、
法制度の道徳への引きずり下ろしとなったのではないか。
本来は、法制度のレベルから再度、法制度と個人の内面性との相互関係を問うべきだったのだ。
 ここで、マルクスはヘーゲルの英雄論を検討するべきだったろう。
その意義と限界を示し、その限界の克服を目指すべきだったろう。ところがそれはできなかった。

 もちろん、マルクスはその唯物史観によって、『法の哲学』第3部Sittlichkeitの市民社会と国家の理解を深めた。
ヘーゲルの理解が英雄と民衆という単純化された2項対立にとどまっているのに対して、
リアルな現実把握をした。指導者も民衆も単一ではなく、指導者群の中での闘争もあるし、民衆内部での闘争もある。
指導者個々人の背後には、民衆内部の利害対立がある。それが社会関係(社会矛盾)であり、それが意識を規定する。
 指導者と民衆の対立・闘争は、英雄個人の意識内での分裂と闘争を引き起こす。
ヘーゲルも、これはわかっていたと思う。しかし、その英雄の意識内部の分裂が英雄だけではなく、
すべての民衆一人一人の意識内部にも起こること、それはわかっていなかったようだ。
少なくともそこに大きな問題があるとは思っていなかった。
 マルクスでは指導者群内部の闘争、民衆内部での闘争を、唯物史観で解明した。
民衆内部での闘争を社会関係(社会矛盾)としてとらえ、それが意識を規定することはとらえた。
そして、社会関係の矛盾をさらにリアルにとらえるには、
そうした闘争が個々人の意識内部の分裂と闘争を引き起こすこと、その分裂の理解が重要になる。
 しかし、マルクスも、個々人の意識内部の分裂の意味にまで深めることはできなかった。
したがって、マルクスの思想にも「個人」がないとの批判は該当する。
 それでは19世紀の革命運動は指導できても、20世紀の革命を指導するには、不十分だった。マルクスの後継者たちは、自分たちの組織を絶対視し、個人の価値をおとしめ、指導者の内紛、粛清、自己批判の嵐、内ゲバ、こうした問題を解決できず、全体主義へ転落していくことになったのである。

 現在の学校のクラブ活動の問題から始めた本稿は、夫婦関係や親子関係などにまで問題を広げ、
それをヘーゲルやマルクスの近代社会の原理的把握にまで立ち戻って考えてきた。
小情況の問題の中に大状況の問題が潜んでいる。
それを見据えながら、小情況の中でしっかりと問題を解決していく練習が必要だと思う。

7.犯罪と刑罰

 最後に、犯罪と刑罰について考えてみた。
 私は、仕事などで疲れた時の気分転換として、ミステリードラマをよく見る。
アメリカのものよりも、イギリスや北欧の番組が好きだ。そこに刑事、警部、警察官や私立探偵が登場する。
 彼らは犯罪者を見つけ、つかまえることに全力を注ぐ。
そこには、人間の悪の問題があり、彼らは犯人を追い詰めていくのだが、
その過程で逆に精神的に追い詰められていく場合もある。
 正義漢で、怒りの感情をほとばしらせる登場人物を見ながら、不思議な思いに駆られる。
被害者の犯罪者への怒りや憎しみは、彼らに引き継がれるのだが、その感情に翻弄されているように見える。
 犯罪者やその犯罪の背景には社会の問題や人間の心の闇がある。
そうした悪の問題を追及すると、それは自分の内部や自分の前提を掘り崩していくことになりかねない。
事実、多くの主人公たちは精神的に破たんしていく。
 これをどう考えたらよいのか。

 昔は犯罪への処罰は、目には目をの原則で、私的報復が正義だった。
現在は、個人の報復の権利を国家が奪い、国家のみが刑罰を与えることができる。
 個人と個人が直接的に憎み合い、罵りあい、殴り合い、殺し合う。
そうした私人レベルの報復の悪無限を止揚するために、警察や検察、裁判所といった公的権力・国家が介入するのだ。
それは、自由への大きな一歩である。
 しかし被害者側の加害者への怒りと報復感情の発露の場がない。
そこで、被害者側の思いもまた外化される保障が求められている。
しかし、そうしたことがあっても、国家による処罰の一元化は、自由への大きな前進なのである。

 ミステリードラマの愛すべき主人公たちは、公的権力の正義の抽象性を、もう一度、個人レベルに引き戻し、
そこで現実の個々の悪、社会矛盾と具体的に戦っていく。
抽象的で間接的な正義ではなく、具体的で直接的に正義を追求していく。
それがドラマとしての面白さである。
 しかしそこにはまた大きな危険性がある。
それは、公的権力の代行者としてのレベルから、個人の道徳レベルへと落ち込んでしまい、
公的レベルへと浮上できなくなってしまうことである。
 公的レベルと個人レベルの両者の関係の矛盾、対立が、ここに大きく問題提起されているように思う。 

2018年6月11日

付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)

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部活、サークル、クラスの行事などの問題
組織運営上の問題と、個人の問題を区別する

1.組織を理解する
 組織には、目的があり、その目的を実現するために存在する。
 そしてその目的実現のための意思決定と問題解決のルールがある。 

 したがって目的が何なのかは、常にそのメンバーで確認しなければならない。
 目的が変われば、ルールも当然変わる。

2.組織運営 目的達成のためにルールがある
(1)組織の意志決定のルール
  顧問、コーチ、最高学年、権限と責任はどうなっているのか
  執行部(部長、副部長)はどう決まるのか
(2)問題解決のためのミーティングはどのように行われているか
  誰が開催できるのか
  意志決定はどうなるのか
  連絡事項はどう伝わるのか
(3)問題がある時に、その不平・不満・疑問を出す窓口があるか

3.ルールが明示されていなくても、暗黙のルールがある。
 だからルールを問題にし、みなで確認し、必要なら新たなルールを作っていけばよい。

4. ただし、問題が多すぎて、または大きすぎて何もできない場合は、両親に学校側と交渉してもらう。
 学校側と契約しているのは本人だが、学校側と対等に交渉できるのは、本人ではなく保護者だからである。
 なぜなら未成年者の法的権利は保護者が代行することが法律で定められているからである。

 問題が多すぎて、または大きすぎて何もできない場合とは、例えば、
(1)組織の意志決定のルールがあいまいで特定の個人の横暴がとおっている
(2)ミーティングがない、または学期に1回などと少なすぎる
(3)不平・不満・疑問を出す窓口がない
 さらに、学年での相談も、先輩との相談も、顧問やコーチとの相談もできない。
 そうした場合である。 

5.ルールを作る上の注意

(1)100点満点や「正義」を求めない。
(2)現状よりもよりマシなもの、現実にすぐに変えられるもの、
  具体的なものになっており、それが守られているかどうかを誰でもチェックできるようにする。
(3)ルールの改正のためのルールを決めておく。

説明
 ルールは、その組織の現状、そのメンバーたちの能力などの諸条件を反映し、それに依存する。
その大枠の中で、可能な範囲で、ルールを作るしかない。
 ルールは、その組織の発展段階を反映するもので、現状や発展段階に合わせて変えていかなければならない。
 ルールは不変のものではない。
むしろその逆で、その組織とメンバーたちの現状、直面した問題などに合わせて、たえず見直し、改訂、改正していくべきものだ。
 したがって、ルールの改正のためのルールが必ず必要になるから、最初からそこまでを含めて設定しておかなければならない。

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6月 17

個人と組織の関係は大きな問題です。
それは結局は、組織のルールの内容と運用にかかっていると考えるようになりました。

中学生や高校生を指導していて、学校という生徒たちの生活の場にはルールがない、
またはルールが明文化されていないことに驚きました。
これは深刻な問題だと思います。
なぜそうなってしまうのでしょうか。

改めて、この大きな問題をヘーゲルにまでさかのぼって考えてみたのが本稿です。

 学校現場の関係者には、ぜひお読みいただき、感想やご意見をいただきたく思います。
また、この問題は、単に学校だけではなく、私たちの社会全体の問題だと私は考えています。
その意味で、読者のみなさまにはぜひ一緒にこの問題に取り組んでいただきたいと願っています。

■ 目次 

個人の問題と組織(ルール)の問題  中井浩一

1.鶏鳴学園の中高生の作文
2.組織運営上のルールの問題
3.個人の問題はどのように取り扱うべきか
4.私たち大人の低さ
※以上が本日、以下は明日掲載します

5.近代社会の原理原則とヘーゲルの『法の哲学』
6.マルクスの問題
7.犯罪と刑罰

付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)

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1.鶏鳴学園の中高生の作文

 鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。
部長や顧問や、先輩、後輩、同学年のメンバー、その個々の言動の問題点がぎっしりと書かれてくる。
 また、文化祭や体育祭などの行事へのクラス参加の際の問題もよく書かれる。
クラスや行事担当の教員、クラスのリーダーや責任者とその他のクラスメンバーの葛藤。そこでも個々人の言動が問題にされる。
 これらは、彼らにとっての身近で切実な問題なのであろう。

 しかし読んでいるとおかしいと感ずることが多い。
 組織の運営上の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織の問題がほとんど意識されていないことだ。
これはどうしたことだろう。
 一般に組織にはその運営上のルールがあり、そのルールに基づいて運営される限り、
個人の問題だけがこれほど大きな比重を占めることにはならないはずだ。

 調べていくと、現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
そもそもルールがない。または暗黙のルールがあるだけで、明文化されていない。
役職や責任者の権限と責任があいまいだ。そのために、その時々の力関係でいろいろなことが決まっていく。
 そこでその不満は個々人へと向かうことになる。その人間の善し悪しが断罪され、その言動が細部に至るまで吟味される。

2.組織運営上のルールの問題

 以上のように考えるにいたったので、鶏鳴学園では、中高生たちには、組織運営上の問題にあっては
個々人の問題の前に、組織の問題があることを説明し、自分たちの組織のルールがどうなっているのかを
意識させることにした。実際に高校生に配布しているプリント「部活、サークル、クラスの行事などの問題」
は付録して収録する。
 そこでは以下のように説明している。

 組織には目的があり、その目的達成のために作られたのが組織なのである。
したがって組織にはその目的達成のために適切な組織の構成とルールが必要である。
 そしてこれらのルールがあり、そのルールに基づいて運営されている場合、個人に求められることは
そのルールを守って、組織の中での自分の役割を果たすことだけである。
 したがって、個々人の問題の前に、組織のルールの問題があるのだ。
 個人を批判したり断罪できる観点とは、本来はそのルールを守っているかどうかだけなはずである。
それ以外に、それ以上に、その良しあしは、問われてはならないのではないか。
 要するに、組織の運営上のことで個人の言動を問題にできるのは、組織のルールが明示されており、
それがみなで確認できるようになった後でのことだ。

 ところが、実際は、その肝心なルールが明示されておらず、あいまいなことが多い。
その場合は推測や忖度がはびこり、疑心暗鬼になり、運営する個々人の言動が問題にされるようになる。
しかもそうした疑問や不満がオープンになることはなく、陰でこそこそと愚痴りあうのが関の山だろう。
 だから、何よりもまず、自分たちの組織のルールを明らかにしなければならない。
そもそもルールがあるのかどうか。どのようなルールが明示されているのか。
場合によっては、「暗黙のルール」がたくさんあり、それらが明文化されていない場合も多いだろう。
それらを含めて、すべてをオープンにし、みなで確認し合うことだ。
そのためには、そもそも組織のルールとは何かを知らねばならない。

 では組織のルールとはどのようなものなのか。
 組織には目的があり、その目的達成のために組織とルールがある。
 したがって、何よりも、その目的をメンバー全員でつねに確認し合う機会が必要だ。
 そしてそれが確認されたならば、その目的達成のために組織内の分業、分担、それぞれの役割・役職などが設定され、
その権限と責任が決まる。
 その上で、組織の意志決定と問題解決のルールが必要になる。
 組織を運営する場合、常に何らかの意思決定をしなければならないが、その意思決定をめぐって
対立が起こるのは当然で必然的である。したがって、その意思決定のルールや手続きを決めなければならない。
その意思決定のプロセスと、最終決定に誰がどのように関わるのか。その権限と責任が明示されるべきだ。
そしてその意志決定後には、その決定がどこまで適切だったかを振り返り、その責任を含めて話し合うことが必要だ。
 また、組織には常に問題が発生し続けるから、それを解決していくプロセスも決めておかなければならない。
ルール違反への対応や罰則もその中に入れておかなければならない。

 さて、ではルールを作ろうとなった段階で、さらに指針を与えている。
彼らはそうした経験がほとんどなく、それゆえに、しばしば善か悪か、正しいか否かの二元論に落ち込むからだ。
 そこで、以下を注意している。
  ・100点満点や「正義」を求めない。
  ・現状よりもよりマシなもの、現実にすぐに変えられるもの、具体的なものになっており、
   それが守られているかどうかを誰でもチェックできるようにする。
  ・ルールの改正のためのルールを決めておく

 説明しよう。
 ルールは、その組織の現状、そのメンバーたちの能力などの諸条件を反映し、それに依存する。
その大枠の中で、可能な範囲で、ルールを作るしかない。
 しかし、ルールがあること、それを意識して問題やメンバーと向き合うことは、自他が利害対立する問題を自覚し、
その解決のための話し合いを促し、その理解を深めるだろう。こうしてルールはメンバーを成長させる。
そして、メンバーが成長していく過程では、ルールも成長していく。
 つまり、ルールは、その組織の発展段階を反映するものなのであり、現状や発展段階に合わせて変えていかなければならない。
 ルールは不変のものではない。むしろその逆で、その組織とメンバーたちの現状、直面した問題などに合わせて、
たえず見直し、改訂、改正していくべきものだ。そうでなければ、すぐに形がい化し、神棚に飾られる置物になり下がる。
 したがって、ルールの改正のためのルールが必ず必要になるから、最初からそこまでを含めて設定しておかなければならない。

3.個人の問題はどのように取り扱われるべきか

 さて、ではこうして組織運営上のルールが策定され、メンバー間で確認されたとする。
そこで初めて個人の問題を正面から問うことができるのだ。
 すでに述べたように、個人の言動の善し悪し、正邪を、それだけで論じることはできない。
それではただの抽象論に止まり、十分な根拠が出せないであろう。
個人の善し悪しは、当人が所属する組織の具体的なルールとの関係において初めて、
具体的かつ客観的に問うことができるのである。
 では個人の問題はこの段階でどのように問うことができるのだろうか。
 まず組織の側から見れば、それは簡単である。ルール違反があれば、その違反への対応もすでにルールの中に
書かれているから、それに従えばよい。ルール違反が確認されれば、ルールを守ってもらうための処置がなされる。
責任の大きさに応じた処分がなされ、罰則が適応されるだろう。役職の降格から除名までがありうる。
 しかし、普通はそれだけでは済まないであろう。違反が繰り返される場合は、
そうした違反が起こった過程や原因が問題になり、その個人の生き方や姿勢、考え方などが問われるだろう。
しかし、それはルールの範囲からは逸脱している。
そもそも組織は、どこまで個人の内面に踏み込むことができるのか。
他者や組織が、ある個人の生き方や考え方を批判することは、どのように許され、可能なのか。

 本人がそれをどう考えるかは、当人の責任で自由に行えばよい。
 問題は他者や組織による批判や弾劾である。とりあえず、この原則だけは示しておきたい。

 まずは、組織による批判には限界があり、その自覚が必要である。
この限界への自覚の有無は大きい。それがないと、組織による個人のつるしあげが起こる。
そこでは道徳的な批判もエスカレートする。そこでは、個人の人格の全否定にまで進む可能性がある。
(旧社会主義国、共産党による個人の「査問」、「自己批判」の強要、「粛清」などを想起されたし)

 次に、個人の問題と組織の問題とは相互関係であるという点だ。
個人を問うことは、その組織を問うことであり、その逆も同じである。
 一般には、組織のルールで個人が裁かれるのだが、実際には個人の生き方の方が、
組織のルールよりもはるかに高いレベルであることはまれではない。
その場合は、その個人を裁こうとすることは、逆に、その組織の内実が問われる。
組織の質やルールが厳しく問われることになるはずだ。(例としては企業や役所への内部告発など)
 組織の側に目を向ければ、家庭、学校、会社、地域や国家にいたるまで、組織には実に様々な
レベルと種類があり、その組織の目的や、その組織への入会と退会が自由であるかなどの条件がことなる。
その目的や条件によって、そのルールの是非や個人に対する権限が改めて問われねばならない。
また、個人は複数の組織に属し、その組織間は横並びの場合(各クラブのルールや各クラスのルールなど)も
上下関係(学校のルールとクラスのルール、憲法と諸制度など)の場合もある、
ルールとルールの間の対立、矛盾もある。それも問題になる。
 個人を問うことは組織を問うことであり、組織を問うとは、個人を取り巻く種々の組織の全体の関係を見ていくことである。
個人と組織との相互関係における対立や矛盾や葛藤によって、この社会は発展し、個人も発展していくのである。
 なぜなら、個人の生き方(思想)も組織のルールも、その根拠を深めれば最後は「人間とは何か」という
問いに行きつくからであり、その答えとして様々なレベルが対立し、それによって深められていくのだからだ。

 だから最後は発展観が問われる。
 個人の成長過程、組織の成長過程の発展的理解、人間の本質、組織の本質、個々の組織の相互関係の理解、
それらを全体的に理解していくことが必要である。
 組織にあっては、その実質的トップの、この観点における理解力にすべてがかかっている。

4.私たち大人の低さ
 
 さて、では、これほどに重要なルールが確立されていない学校が多いのはなぜか。
 なぜ、ルールの根本的な意味が、きちんと指導されていないのだろうか。
 学校で問題が起こると、先生たちは「話し合え」などと簡単にいうが、話し合って何をすれば良いのか。
何がどうなると解決なのか。それが示されていないのではないか。
 反省文を書いたり、加害者が皆の前で謝ったり、加害者と被害者を握手させることが解決ではない。
本来は、話し合って、解決に向けたルールを作ることが解決への一歩なのではないか。
 学校で生徒たちにルールが意識されるのは、多くの場合校則によってだろう。
しかしそれは、制服、制帽、服装のこまごまとした規定、携帯やスマホの所持使用の禁止などの
日々の生活への規制としてのものであり、その校則改正への動きが一部にあっても、
それは規制から自由になりたいというものに留まる。
自分たちの日々の問題を自分たちで解決していく手がかりになるルールは考えられていないのではないか。
 もちろん、問題は学校にだけあるのではないだろう。
日本社会のどの組織でも、同じ問題を抱えていて、それが教育の場故に学校において集約的に現れるだけだろう。

 さて、このようにこの問題は、一般的に放置されているのだが、その理由は、私たち大人たちが、
教師たちが、両親たちが、こうしたルールの意味や役割をほとんど理解していないからではないか。
 校則や法律などのルールのナカミを議論することはあっても、そもそものルールのあることの意味は、
ほとんど考えられたことがないのではないか。
 こうしたことが理解されないのは、ルールというものを、国家、地方自治などの大きな政治上の法律や
条例など(せいぜいが学校の校則まで)しか、意識されておらず、
それが日常的な生活の場から切り離されているからではないか。
 そして、日々起こっている個人間の問題は解決できないままに、その力関係で決まったり、
その場その場の状況に流されて決まるだけ。そして、それが国会の場で、狭義の政治の場でも行われているだけ、
つまり、それが大きく言えば、今の私たちの社会の能力の現状だとも言える。
 ではどうするか。
 狭義の政治のことは別にして、今すぐにできることから始めたい。夫婦関係、親子関係、
小グループの問題への対応である。
 人間が2人いたら、そこには必ず意志決定の問題が起こる。その際、ほとんどは力関係で決まったり、
その場その場の状況で決まったりしているだけ。本来は、とりあえず、ルールを設定し、
それを守りあうことで解決していくしかなのではないか。
 夫婦関係も、親子関係も、そこに現状をよく反映した具体的なルールを設定しない限り、
問題は抽象的な一般論に留まり、「世間では?」「普通は?」「本来正しいのは?」といった
水かけ論や罵りあいになるだろう。
 ルールを作り、その内容を確認し合いながら、そのルールはそれに関わる人間たちの現時点のレベルの
反映であることを自覚する。個人と組織のルールとは相互関係であり、
その対立・葛藤に、私たちのどのような本質や問題が現れているかを考え続け、それを深めていく。
そこから次のルールが生まれるだろう。こうした過程を歩んでいく以外に解決に向けた方法はない。

 こうした小さな組織でのルール設定は、最小単位ではあるが、まさに政治なのである。
政治の学校とは、そこにある。
そうした小さなところから、ルールの意味を学習していき、学校やクラブなどでもそれを学んでいくことが、
民主主義や政治を学ぶことになる。それが狭義の政治をも根本的に変えていく力になるだろう。

明日掲載分につづく

6月 15

親子関係はいかにあるべきか    親子関係の3段階の原理・原則  
                                中井浩一

■ 目次 

※前日からのつづき
2.第2段階  親=子どもの段階
(1)親子関係が親=子どもの段階
(2)社会人としての関係、結婚後の関係
(3)子どもの自立が真に問われる
(4)親不孝と恩返し
(5)親子のつきあい方は両者の合意に基づく

3.第3段階  親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階 (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある (4)死に方、看取り方 (5)どのような社会を目指すのか 4.ことわり(男女の役割分担について) ============================== 2.第2段階  親=子どもの段階 (1)親子関係が親=子どもの段階  子どもが就職し、社会人になれば、経済的に自立し、それは対等な大人同士の関係になることを意味する。 (2)社会人としての関係、結婚後の関係  対等な大人同士の関係にも2つの段階がある。 1.独立した社会人としての対等とは、親子の個人としての面であり、法的人格の平等と経済的自立による対等関係である。 2.その上で、子どもが結婚をすることで、夫婦としても、両親夫妻と対等な関係になる。 男女の夫婦関係は、根底に性関係があり、それは閉じた関係であり、他者がそこには踏み込めない領域を持つ。  親といえども、子どもの夫婦間のプライバシーには踏み込めない。 子どもも、両親の夫婦間のプライバシーには立ち入れない。  親子がそうした領域をともに持ち、それが自覚されることは、真に対等の関係をうながす。  結婚式は、親子の親子としての最終局面、それ以降は対等な大人同士の関係になるということだ。  本来は個人(社会人としての子ども)としての関係でも、性的な領域、信仰や信念、思想などで、 踏み込んではいけない領域、距離を置くべき領域はあるのだが、無視されやすい。 それが、結婚によって自覚されるという側面がある。 ※注釈  師弟関係は特別。弟子の夫婦関係にも踏み込むことができる (3)子どもの自立が真に問われる  親子が対等になった時点で、子どもの「自立」が真に問題になる。  なぜなら、子どもは、その生き方、物の見方、価値観において、無自覚ではあるが、両親の圧倒的な影響を 受けているからだ。  自立するためには、親の価値観や思想を相対化し、それに対置する形で、子どもは子ども自身の生き方、 物の見方、価値観(つまり自分の思想)を、自覚的に作っていく必要がある。 ※ここで、テーマと先生がどうしても必要になる。 (4)親不孝と恩返し  子どもは直接的には親に育てられ、教育され、一人前の社会人となる。その恩返しをどう考えたら良いのか。  子どもの本質は「未来の社会の働き手」である。親にとって、子どもは社会からの預かりものであり、 次の社会の働き手、その変革の主体として育て、教育し、社会へと返すものである。(以上は1.の(2))  子どもは確かに、直接的には親に育てられ、教育されたのだが、より本質的には、その教育の主体は社会なのである。  したがって、その恩返しも、まずは社会に対してのものでなければならない。親へのそれは副次的なものなのだ。  子どもは第1には、未来の社会の立派な働き手となり、人類や社会に貢献しなければならない。 そして、いつかは自らの子どもたちを生み育てる。それが次の未来への働き手となるように。それが社会への恩返しである。  親に対する「恩返し」は副次的である。もちろん、親への感謝や敬意は必要である。 しかし問題は、社会への貢献と親への恩返しの間に対立・矛盾が起こる場合があることだ。 その時は、親に反対されても、自分の信念を貫かなければならない。親の立場は過去と現在のものであるが、 子どもの立場は未来のものであり、現在の社会を発展させ、それを止揚した未来を作ることがその使命であるからだ。  親との対立や否定は、表面的、外面的には「親不孝」であろう。 しかし、親たちの世界や価値観を真に超えることが、真の「恩返し」である。 (5)親子のつきあい方は両者の合意に基づく  親子は、人生の節目節目で意見交換ができればよい  大学進学、就職、結婚、離婚、定年、遺言  その結果、親子の価値観の違いがはっきりと現れる場合もある。  政治的なこと以外に、生活上の礼儀や習慣でも、違うことが起こる。結婚観、人間観、社会観、つまり思想一般においても。  価値観が違っても、それを認め合ってつきあうことは可能。 しかし、そのためには、その違いを表明し、それを受け入れ合うための話し合いの過程が必要。  それが不可能なら、親子関係を終わりにする(絶縁、絶交)ことも可能。親子は対等なのだから。  つきあうなら、どうつきあうかは、対等な関係として決まる。一方の要求だけではだめで、 両者の合意があった範囲のつきあいかたになる。  場合によってはルールを提示し、その合意を確認し合うことも必要。  「どうつきあうか」といっても、「つきあう」限りは、そこから生ずる義務・責務がある。 どういうつきあいかたをするかは、「つきあう」ということから生ずる最低限の責務の上にある。 「つきあう」こと自体が無理ならば、絶交するしかない。 3.第3段階  親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階  親の体力や知力が衰え、経済力がなくなるなど、自立が不可能になり、経済的な援助や介助や介護が必要になる段階。  力関係が逆転する。  親<子ども (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか  老人の尊厳性の根源とは、彼らがこれまでの社会の担い手であり、働き手であったことである。  したがって、老後の介護は、その子どもたち家族だけではなく、第1には社会全体が担う責任がある。 (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある  多くの人は、定年によって人生の目標を失う。経済的な問題や、老後の資金の問題もあるが、 生きる上で何よりも大きいのは、人生の目的やテーマを失うことであろう。定年後には、新たな目標やテーマが必要なのだ。  前半生での目標(仕事、社会的な目標、子育て、子どもの自立)は達成した。それが失敗だったとしても、 すでに終わったことである。  ではどうするのか。本当は、定年前から定年後のための目標やテーマを準備しておくことが必要なのだ。  この問題は、父親の場合も深刻だが、母親の場合はもっと深刻になりやすい。  これは本来は、親の自己責任である。  子どものできることは少ないが、アドバイスは可能。 (4)死に方、看取り方  親は、自分の生涯の最後の段階の過ごし方、最終段階では何のために生きるのか、 死の迎え方、それを静かに深く考えていく必要がある。  子どもは、介護が必要な親とどう関係するか、どう支えるか、死までの見送り方、それを静かに深く考えていく必要がある。  親の死の局面とは、親子関係の最終的な段階であり、それによって、その親子関係が何であったかが最終的に確認される。  親子関係は、第1段階から第2段階、そして第3段階と進んできて、その間に様々な問題が起こる。 その問題解決のために、何度も話し合い、原理原則を繰り返し反省してきたはずだ。  そして親の死の局面は、それらすべての意味、すべての是非や成否が確認され、確定される段階である。  互いの関係と互いの本質がそこで最終的に確認される。そのことを肝に銘じて、最後の局面で、どういう関わり、 どういう関係を持つかを決める必要がある。  それは「仕事を止めて自宅で介護する」から「施設に入ってもらう」、さらには「一切関わらない」までの 幅広い選択肢があり、そのどれが正しいということはない。現実に可能な範囲の中で、これまでの関係の終わり方として 適切なものを選択するだけのことだ。  この最終局面では、遺言や遺産相続などで、隠されていた家族間の関係や本質が明らかになることも多い。 そのすべてが、それに関わった関係者の本質の現れである。それから逃げることなく、しっかりと受け止めて、 自分の人生をしっかりと振り返るべきだろう。次の自分自身の終わり方の準備のためでもある。  (6)どのような社会を目指すのか  大家族制度は崩壊し、2世代家族(核家族)が中心になったが、3世代家族の見直しもありうる。  大家族制度や家制度が復活することはない。墓に関する制度は事実上崩壊している。  血縁関係にこだわらない集団生活もアリだ。  新たな社会の構想力、思想こそが必要だ。 4.ことわり(男女の役割分担について)  夫婦間の役割分担については議論がある。  専業主婦の在り方、男女の役割分担、そこでの子育ての役割分担。  それらについては、今回は触れていない。              2016年10月4日初稿、2018年6月11日増補改訂