6月 14

これまでは高校生を主な対象として親子関係を考えることが多かった。
高校生にとって、進学、進路の選択は重要だ。それは高校生が自分の人生を自分で選択すること。
つまり親の影響力から自立するための大きな1歩になる。
同時にそれは、親(特に母親)にとっては子離れという大きな課題であり、それは親の自立の問題なのである。

しかし、私の父が亡くなり、母が一人で暮らすことになった。その母をどう支えるかが一人息子である私の責務になっている。

また、中井ゼミで師弟契約をするメンバーの年齢も20代から50代までと幅広くなっており、
親の立場から成人後の子どもへの関わり方が問題になったり、高齢の親の介護や遺産相続の問題に直面したりするメンバーも出てくる。こうしたことを考えながら、親子関係のそれぞれの年代での課題、つまりその全体像がはっきりと見えてきた。

それをここでまとめておきたい。
本稿は2016年にまとめてこのメルマガで発表した。その後も、中井ゼミの参加者から親子関係の問題が繰り返し出され、
その都度その問題を考えてきた。基本の考えは変わらないが、その個々の意味が深められてきたように感じている。
そこで現時点での増補改訂版を出しておく。今後も、増補改訂を続けていくつもりである。
                             2018年6月11日

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親子関係はいかにあるべきか   ? 親子関係の3段階の原理・原則 ? 
                                中井浩一

■ 目次 

0.はじめに
(1)親子関係の特殊性
(2)親子関係の原理・原則を立てるには
(3)子どもの本質、親(大人)の本質

1.第1段階  親>子どもの段階
(1)親子関係が親>子どもの段階
(2)子どもの尊厳を守る
(3)親(大人)が子どもにできる最大の教育
(4)子どもの自立と親の自立(子離れ)の問題
(5)子どもの進路、進学の選択
(6)緊急避難
※ここまでを本日に掲載。以下は明日

2.第2段階  親=子どもの段階
(1)親子関係が親=子どもの段階
(2)社会人としての関係、結婚後の関係
(3)子どもの自立が真に問われる
(4)親不孝と恩返し
(5)親子のつきあい方は両者の合意に基づく

3.第3段階  親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階 (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある (4)死に方、看取り方 (5)どのような社会を目指すのか 4.ことわり(男女の役割分担について) ============================== 0.はじめに (1)親子関係の特殊性  最初に確認しておきたいことは、親子関係は特殊な関係であり、もっと一般的な他者や世間とのつきあい方が、 ここではより厳しく、より深く問われるということだ。   親子の「つきあい」方は、親子関係以前に、その人の他者一般、世間との関わり方の原則とその能力の現れである。 他者一般ときちんとした関係を築けない人は、親子関係では一層、難しくなる。  なぜなら親子関係は血縁関係であり、その特殊性は、相手を選択できないことだからだ。 他者一般では、付き合う相手も、つき合い方も選択できる。それゆえに自分の価値観や原則を貫徹しやすい。 ところが、親子関係となるとその選択ができないのだ。  つまり、親子関係をきちんとした原則で律するには、そもそも他者一般と対等な大人同士の関係を築けるかどうかが 問われるのだ。そこでは意見の違いをどう解決してきたか。どう解決しているか。相互の関係の問題をどうとらえ、 どう解決してきたのか。  他者一般と対等な大人同士の関係を築ける人が初めて、親子関係でもきちんとした関係を築ける。 (2)親子関係の原理・原則を立てるには  親子関係の原理・原則は、親としての子育ての悩みなどから自覚されるのが普通である。 しかし、それらは緊急的な問題で応急処置が求められることが多く、本質を深くとらえたものにはなりにくい。  親子関係の原理・原則を立てるためには、子どもの本質の理解、さらには家族と社会の関係の本質、 結婚つまり夫婦関係の本質などが前提となる。  結婚する二人は、「その結婚の目的が何なのか、なぜこの相手でないとだめなのか。2人で何を実現しようとするのか」、 こうした点を話し合い、その一致を踏まえて結婚できると良い。しかし、実際はそうではないことが多いだろう。 すべてがあいまいで、相互理解が不十分なままに結婚生活が始まり、その後にさまざまな問題が起こる中で、 改めて自分と相手を見つめなおしていくことになるのが普通だ。  子育ても同じだろう。夫婦間での十分な理解や話し合いなどはないままに、子どもが誕生し、子育てが始まってしまう。 その後、様々な問題が起こる中で、本質理解や原理・原則の必要性が自覚されていく。  そこから、何度でも、原理・原則の見直しをし、本質理解を深めていくしかないだろう。 (3)子どもの本質、親(大人)の本質  子どもの本質とは、未来の社会の働き手、その変革の主体である。  親(大人)の本質とは、現在の社会の働き手、その変革の主体である。  これはそもそもの人間の本質が、社会の働き手、その変革の主体だということから出てくる。それを現在実行しているのが 親の世代であり、それを過去において行ったのが祖父母や先祖たちであり、それを未来に行うのが子どもや孫の世代なのである。  なお、ここにはいくつかの前提がある。  まず、個人も社会も成長・発展していくという前提である。ここから「変革」という規定が生まれる。 そしてこの発展という考え方から、近代以前と近代以降の社会の違いが考えられなければならない。  人類において、家庭・家族が社会の維持発展に欠かせない基底である点は変わらない。家庭・家族の役割は、 大人という現時点の働き手を、日々精神的に肉体的にケアして社会に送り出すと共に、未来の働き手である子どもを 育てることである。したがって、社会は自らの存立を支える家庭・家族を守り育てる責務を持つ。  以上を前提とした上でだが、近代以前と近代以降には大きな違いがある。  人間の社会全体を考える時、そこには社会と家族と個人との3項があるが、近代以前は家族(血縁・地縁)を基礎として 社会が成立していた。つまり「社会>家族>個人」の関係であった。
 近代以降は家族(血縁・地縁)ではなく、個人こそが社会の構成単位となっている。
つまり「社会> 個人>家族」の関係である。
 近代以前では家制度があり、個人はあくまでも家を代表する存在でしかなかった。その社会は身分制社会であり、
家族は身分制度の中に位置付けられており、その枠を個人が超えることは不可能だった。
 しかし近代以降は、家制度も身分制度も崩壊し、個人はあくまでも個人として働き、個人として評価される。それが人格の平等の社会、現代の資本主義社会、自由競争の社会である。
 こうした社会を前提としたのが上記の定義であり、「社会の働き手」という規定である。
以上のようなあり方が近代社会であり、私たちはこの原理原則を前提として、今、生きているのである。
そして、そこでの家族の問題とは、「家族>個人」から「個人>家族」への移行・発展における対立、矛盾が制度面でも
意識の上でもあることであり、それが親子関係の問題を難しくしている。例えば、結婚は以前は家と家との関係の問題だった。
今では個人と個人の関係の問題なはずである。ところが今も「○○家と△△家との結婚披露宴」になっていないか。

 さて、では以下で、親子関係のあるべき姿を3段階で考えていく。
「第1段階 親>子どもの段階」と「第2段階 親=子どもの段階」と「第3段階 親<子どもの段階」である。 この3段階は子どもの成長に沿ったものだが、同時に親の肉体的な衰えの過程でもある。 親子関係がこの3段階の過程で進行することは、人間の自然的で肉体的な過程を踏まえたものであり、 いつの時代でもかわらない。しかし、それぞれの段階の具体的な内実や課題はその時代と社会で異なる。 私たちが問題にするのは、現代の日本社会におけるあり方である。 1.第1段階  親>子どもの段階

(1)親子関係が親>子どもの段階
 親は子どもを育て、教育する権利と義務を持つ。子どもは両親の保護下にあり、それがなければ死ぬ。
法律でも親の教育権、子どもの法的権利の代行を求めている。
 親>子どもの関係
 子どもは親の支配下にある。衣食住だけではなく、生き方、物の見方、価値観においてもそう。

(2)子どもの尊厳を守る
 子どもの尊厳性の根源は、未来の社会の働き手ということから生まれる。
 子どもは両親の所有物ではない。子どもは神からのさずかりもの、社会からの預かりものであり、
次の社会の働き手、その変革の主体として育て、教育し、社会へと返すものである。(この考えは堺利彦が明示している)
 子どもと親とは別人格であり、ともにその尊厳性(社会の働き手、その変革の主体)を認め合うことで、
その関係は確かなもの、豊かなものとなる。

(3)親(大人)が子どもにできる最大の教育
 大人(親)の尊厳性も、子どもと同じく、社会の働き手、その変革の主体であることから生まれる。
それが、時間的に現在と未来の違いがあるだけである。
 親は、第1に現在の社会の働き手、その変革の主体として、立派に生きなければならない。そしてこのことが、
親として、子どもに対してできる最大、最高の教育である。
 子どもは親の背中を見て育つ。親の生き方を見ながら、自分の将来の準備をしていく。子どもの教育を真剣に考えるならば、
まずは親自身が立派に生きて、1つのモデルを示すことである。それ以外のことはすべて、副次的ことだ。

(4)子どもの自立と親の自立(子離れ)の問題
 子どもの自立とは、未来の社会の立派な働き手、その変革の主体になることだが、
そのためには、子どもが自分自身の夢とテーマを持ち、それを生きる覚悟と能力を持つことが必要である。
 そのためには、子どもが親から自立する過程が必要で、それを保障しなければならない。
それが難しい。

 子どもの側では、親から承認されたいという強い欲求があるからだ。この承認欲求がどれほど強いものかを、
深く理解する必要がある。兄弟姉妹で、親からの承認欲求をめぐる争いと、その後遺症の大きさを理解しなければならない。
 この両親や世間からの承認欲求は、成長への動機にもなるが、阻害の動機にもなる。この真の克服は、
両親や世間の価値観とは独立した自分のテーマと思想を確立することになる。

 また、子どもの自立が難しいのには、親の側にも大きな問題がある。
親もまた自立(子離れ)できないでいることが多いからだ。
 親は子どもへ過干渉、過保護になりやすい。
 しかし、一見、その逆の放任や放置が正しいわけではない。親自身の考えをきちんと説明し、
子どもの言動で批判するべきは批判する。問題提起をするべきだ。おしつけと、適切な意見や批判提言の違いを理解し、
適切な距離の取り方を考えるべきだ。
 母親が子育て、教育を自分の仕事、役割としている場合、子離れは難しい。失業になるから。
 母親は子どもと一体の関係になりやすい。親子の間の共依存関係になりやすい。母親と息子の関係よりも、
母親と娘の関係の方が難しい。同性ゆえに、距離が取りにくい。
 父親は社会での仕事があり、仕事の目標やテーマを持つことが普通であり、子育てを仕事としていないので、
子離れはしやすい。
 両親の子離れの過程での父親の役割は、母子の一体関係を壊し、母親と子供の両者が自立していくことを支えること

(5)子どもの進路、進学の選択
 子どもが自立する過程では、経済的援助を含めて、親からのさまざまな支援が必要になる。
そこでは親が、子どもの進路、進学で、親の意向による方向付けをしようとしがちだ。
 しかし、自立とは、親の価値観や思想からの自立をも含む。
それなしで、子どもが未来の社会の立派な働き手になることはできない。
未来には未来のための新たな価値観、新たな目的、新たな思想が必要なのだ。
 親が子どもを支援するのは、親の価値観に従わせるためではない。子どもが未来の社会の立派な働き手になるためである。それによって人類と社会に貢献するためである。
 子どもは、そのことを忘れてはならない。

 たとえ、親の意向や希望と違っていても、子どもは自分自身で進路、進学先を選択しなければならない。
自分自身の夢と目標を作り上げ、それを未来に生きるためである。
 進路、進学の最終意志決定は、その責任をとることが可能な本人がするべきである。
親は先に死ぬのが普通であり、その責任を取ることはできない。

(6)緊急避難
 児童虐待などの暴力や養育のネグレクトなど親の側の問題が大きい場合、社会が子どもを親から引き離し、
守らなければならない。
 ※注釈
 家庭・家族は社会から独立した存在であり、公的権力から守られなければならない。
しかし、家庭内で犯罪が行われている時は、子どもを守ることが優先されなければならない。

 子どもには何ができるだろうか。残念だが、子どもは親を変えることはできない。
子どもは自分自身を守るために、児童相談所などの公的施設に助けを求めることができる。
場合によっては、緊急避難的には家出をし、一方的に親子関係を切り捨てることもできる。
一般的には社会人となり、経済的に自立すれば、親から独立できる。

※明日につづく。

4月 03

三種の神器 ペース、タイミング、バランス (これが本当の日本語辞典シリーズ)

ペース、タイミング、バランス。

世間では、何かに悩み、考え、実行する際に、この3点セットが良く使われる。まるで三種の神器のように崇め奉られているようだ。
この3点セットで物事を考えている人が多いわけだが、これは基本的には偶然性の立場に立っていることを意味する。それに対しては、必然性の立場があることを言っておきたい。
ペース、タイミング、バランスといった言葉は、それぞれの置かれた多様な条件下での議論で使われる。しかしそうした偶然的な条件を超える、根本的な原理・原則があり、それを押さえた段階があり、それこそがペース、タイミング、バランスを本来のありかたで位置づけることができるのではないか。

先日、山本崇雄著『なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか』を読み、この本もまた、偶然性の立場の典型例だと思った。このテキストではポイントの提示で、必ずペース、タイミング、バランスといった用語が出てくるからだ。
この本は、実際の学校現場で、周囲の無理解と戦いながら、アクティブラーニングに6年間専念してきた教員の汗と涙と大いなる成果の物語である。
その目標は生徒の自立であり、そのために常に「問い」を前面に出し、生徒の自主的活動を中心に据えた授業運営をするなど、本書には正しい原則やすぐれた方法や実践が紹介されていて、学ぶことが多い。
しかし、その根本的な立場はどうかと言えば、それは偶然性の立場である。それは、本来的な自立とは矛盾するものだと思う。
                      2017年3月16日

3月 20

人間の平等の根拠は何だろうか。

西洋では、キリスト教の「神の前での平等」が根拠となっていると聞いたことがある。
本当だろうか。

加藤周一の「近代日本の文明史的位置」ではそうして前提での議論が行われた。
こうした議論がずっと気になっていた。
読者のみなさんはどうお考えだろうか。

私も、この問いを抱えて、考えてきた。
やっと自分なりの考えがまとまってきた。それを公表しておきたい。

■ 目次 ■

人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等
2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」? 
3 失楽園の物語
4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある
5 加藤周一とは何者か

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人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等

 人間は相互に平等であるということは、今では当たり前になっている。
これに正面から反対することは難しいだろう。それは差別主義者として批判される。
しかし、多くの人が本音では、その反対のことを意識している。「女はしょせん?」とか
「田舎者は?」とか「家柄や育ちが大切」とかは普通の意識であり、したがってそうした見解は
しばしば表現され、外化される。出自や階層、地域や民族間の差別意識なども一般的だろう。
ヘイトスピーチはそれが露骨に外化したものだが、もともと内にあるから外に出てくるだけだろう。
普段は抑圧しているだけなのだ。
歴史的には、人間が対等であったことはなかった。常に奴隷が存在したし、今でも人身売買が
公然と行われている。人間の普遍的な権利として政治上の平等が主張されたのは、フランス革命、
アメリカの独立宣言が始めである。その後、それがどこの国の憲法でも保障されるに至っているが、
それは建前であることが多い。政治上の平等だけではなく、経済上の平等も求めるのが社会主義運動
だったが、それは破綻し、資本主義内で格差が広がらないようにという程度に、その欲求は押さえられている。
さて、人間の平等、政治上の平等、経済上の平等を基本的な人権とする考えは、
一体どこに根拠を持つのだろうか。ただの理想で、実現は無理なのだろうか。
しかし、それが理想とされるには、それなりの根拠がなければならないはずだ。それは何か。

2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」?
 
人間の平等の根拠としてキリスト教を挙げる人たちがいる。神の前の平等、神との関係における平等は
キリスト教で確かに謳われてきたことであり、それが社会的に一般化した権利として平等を考えるのだ。
たとえば、加藤周一の「近代日本の文明史的位置」である。加藤は人間の平等の根拠を問題にし、
それを日本と西洋との比較から考えている。
加藤によれば、西洋での民主主義(人間が平等であるという意識)は、個人主義を前提とし、
「その個人主義の歴史的背景は、人格的で同時に超越的な一神教である」。「人間が平等であるという
考え方は、自明の事実に基づくものではない。社会的経験は、むしろその反対を暗示している」。
そして「神との関係において、人間は平等であるという以外に、平等の根拠がない」と言う。
つまりキリスト教の「神のもとでの平等」、「神と個々人の関係の絶対性」に、平等の根拠を見ているらしい。
その上で、日本人の意識を問題にする。「日本の大衆の意識の構造を決定した歴史的な要因は、
明らかに超越的一神教とはまったく違うものであった。西洋での神の役割を、日本の二千年の歴史の中で
演じてきたのは、感覚的な『自然』である。その結果、形而上学ではなく独特の芸術が栄え、
思想的な文化ではなく、感覚的な文化が洗練された」。
平等の根拠が、日常生活の直接の経験のレベルには存在しない以上、それを超える価値を生み出せなかった
日本人に、平等の意識は生まれないのではないか。それが加藤が問う問題である。
加藤はその困難さを受け止めつつも、「われわれの側に主体的な要求のあること自体が、半ば、その可能性を
証明しているのだ」としてこの文章は終わっている。平等を求めるのは人間の根源的な欲求だとしているのだろう。
しかし、その根拠は示されない。
このテキストは60年以上も前の1954年の文章である。しかし、こうした議論は、今も続いているのではないか。

3 失楽園の物語

加藤周一は、キリスト教が人間の平等の考えを生んだと推測する。しかし本当は逆なのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等の根拠が事実として存在していたのではないか。
そして、それを自覚していく過程の中から、ユダヤ教が生まれ、キリスト教も生まれてきたのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という根拠が存在していたとは、どういうことか。
人間が人間として現れた時、つまり他の動物の1つ上のレベルの存在として新たな種として人類が生まれた時に、
すでに人間は潜在的に平等であり、それ以外にありえなかったのである。それは人間を他と区別する
人間の本質とは意識の内的二分にあったからだ。
意識の内的二分とは、意識が分裂し、自己意識と他者(対象)意識が生まれたことを意味する。
それは外の自己と他者(対象)とを区別することであり、同時に内的に意識内が分裂し、
意識内に自己と他者(対象)への分裂が起こることである。
もちろんこの分裂は分裂に止まるものではなく、その統合への活動を引き起こし、それが人間社会を
発展させてきたのである。これが思考、善と悪との始まりであり、目的意識と労働、社会意識の始まりである。

旧約聖書の創世記の失楽園の物語を思い出していただきたい。神は土くれで人(アダムとイブ)をつくり、
エデンの園においた。アダムとイブは裸だったが、恥ずかしいとは思わなかった。神はエデンの園に
あらゆる木を、園の中央には生命の木と善悪を知る木を生えさせた。神はアダムに命ずる。
「園にある木の実は何を食べても良いが、善悪を知る木の実は食べてはならぬ。それを食べたら死んでしまうから」。
 ところが、ヘビに誘惑されたイブは善悪を知る木(の実)を食べてしまい、
ともにいたアダムにも与えたので、アダムも食べた。すると2人の目があき、自分たちが裸であることを知った。
2人は恥じらいを知り、いちじくの葉を腰に巻いた。
神は、2人が善悪の木の実を食べたことを知る。神はイブに呪いをかけ、出産と生活に苦しむようになると言い、
神はアダムに呪いをかけ、土地を耕すことに苦しむようになると言った上に、「おまえは土くれだから土に帰る」
と言う。そして神は「人がわれらのようになった。今にも人は生命の木の実も食べて永遠に生きるかもしれないと言い、
人をエデンの園から追放した。
これが人間が善悪を知り、呪いを受けるとともに、神のようになったという物語である。
これがユダヤ教の人間観なのだ。
この神話では、善悪の知識によって、人間がまず最初に恥を知ったことが強調される。
この恥こそが、人間の意識の内的二分によって生まれたものなのだ。
恥とは自己意識の分裂が生みだしたものだ。それは他者の視線を意識し、他者から見られる自分を意識する。
それは外界に自分と他者の区別が生じたことであり、それは同時に自己内に見る自分(他者)と見られる自分
との分裂が起きていることである。ここに人間の平等の根拠があると、私は考える。

4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある

意識が自己意識と他者(対象)意識に分裂し、意識内に自己と他者の両者が意識される時、
この両者は意識内では対等に並ぶことになる。これが「特殊」であり、特殊は特殊に対して、同格であり、
対等である。これは同時に、外の他者と自己とが対等に並ぶことでもある。
その分裂は、もちろん分裂のままにはとどまらない。見る自分(他者)と見られる自分との分裂が正しく
統合されると、自己相対化が起こり、自己理解が深まっていく。
特殊が特殊として同格でただ並ぶだけの段階から、この特殊性を超えて、全体をとらえた時に、
普遍、類がとらえられ、それが人類である。
そこには特殊と普遍の分裂があるのだが、この分裂から、人間の本質と、自分の特殊性とをともに意識して、
自分は人としてどう生きるかが問われ、その答えを出した時に、それが個別である。
これがヘーゲルが普遍、特殊、個別、の発展として考えていることだろう。

こうした全体の過程の中で、特殊の段階としては自己と他者のそれぞれが、特殊として相互に同格であり、
対等である。ここに、人格の平等の根拠があるのではないか。
そしてここから対等な関係である「契約」という意識が生まれ、人間と神との関係すらも、
この「契約」としてとらえるユダヤ教が生まれ、神と人との契約関係から、すべての人間同士の平等の自覚が
明確になっていったのではないか。こうした前提の上に、キリスト教は成立している。
以上を考えてくると、人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という論理が存在していたと、
私には思われるのである。それはキリスト教から生まれたのではなく、逆にキリスト教の基本の原理を生みだした。
そして人間の平等は、西欧とか、キリスト教とかに関係なく、すべての人類に共通する普遍的な関係性
なのではないだろうか。どのような歴史的背景や精神的背景があったかには関係なく、
人がある自覚の段階に達すれば、必ず意識され、自覚されていく原則なのだ。
それは人間の本質である自己内二分から必然的に生まれてくるからだ。

5 加藤周一とは何者か

加藤周一を例として取り上げたので、最後に加藤の評価について触れておく。日本では加藤の評価は
大きく二つに分かれるようだ。一方には加藤を「知の巨人」として持ちあげる人々がいる。
他方で、ただのデイレッタントとして低く見る人々もいる。
 加藤にはその視野の広さと認識の深さがある。西洋と東洋の対立、そのキリスト教理解、宗教的理解の的確さ、
日本文化への見識。この幅と深さのレベルに達している日本人は少ないのではないか。したがって、
こうした意味で、加藤は評価されるべきなのだ。しかし、それ以上に持ち上げるのもおかしい。
 加藤周一の真価は、その問題提起、問題の把握の仕方にあると思う。どうでもよい問題ではなく、
根本的で根源的な問題をつかめたこと、そのつかみ方でも明確な対立・矛盾を示すことができたことが
その優れた点だ。今回取り上げた問題提起がまさにそれだと思う。
加藤の限界は、自分が提起した問題の本当の解決、本当の答えには到達できない点ではないか。
対立、矛盾を示すまでで、それを超えることができない。ヘーゲル的に言えば、彼は悟性のレベルにとどまり、
彼ができることは対立と矛盾の提示に止まる。その解決は彼の役割ではない。
加藤のこの両面をしっかりと理解していれば、加藤周一を有効に活用できる。その問題提起は大いに参考になる。
その答えは不十分だから、自分で代案を出せばよい。

(2016年7月11日)

10月 17

「ちょっと違う」

よく、「ちょっと違う」という言葉が使われる。それがとても気になる。

注意してみると、その人はどこでも何に対しても「ちょっと違う」と言っていて、その「ちょっと違う」ナカミに迫ろうとはしない。
その人はいつまでも、何に対しても「ちょっと違う」と言い続けるだけなのだ。

確かに「違う」のだけれども、それは「ちょっと」だけだ。たいしたことではない。

しかし、実際は、何がどう違うのだろうか。その「問い」が本気で問われることはない。
本当は、どんなに小さな違いでも、その意味を深めるならば、絶対的な対立にまで至る。

これについては、以前に「『自分の意見』の作り方」として書いた(鶏鳴会通信233号)ので、
それを以下に再度掲載する。

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◇◆ 「自分の意見」の作り方 中井浩一 ◆◇

 よくマスコミなどでは、有権者の意向調査などを行い、その動向を報道する。
それが政治を大きく動かすこともある。また、テレビなどで、何か事件があると
街の人々にインタビューをして「どう思いますか」「どうお考えですか」
「賛成ですか、反対ですか」などを問う。

 問われた方は、真剣に、または笑いながら、または怒りながら、
何かを発言する。それぞれ、もっともな意見に思えるし、ある立場を
代弁していると思う。しかし「言わされている」「番組で求められている答えに、
合わせている」とも感じる。

 そこで語られる「意見」とは何なのだろう。
意向調査で出される「意向」とは何なのだろうか。
それは本当に、その人の「意見」「意向」なのだろうか。
否。それらの多くは、テレビで誰かがしゃべっていたことを
オウム返しで言っているだけのことだ。社会全体としての気分、雰囲気、
世間の多くの考え方を代弁するだけのことだ。もちろん、それにも意味がある。
それを否定しているのではない。ただ、それは「意見」「考え」と言えるような
ものではない、と言いたいだけだ。

 もともと「自分の意見」などを持っている人はほとんどいない。
「他人の意見」「親の意見」「世間の意見」でしかない。なぜか。

 「自分の意見」とは次のようにして生まれる。

 【1】「自分の問い」が立つ。
 【2】その「問い」の「答え」を自分で出す。
 【3】その「答え」を実際に実行し、それを生きる
 【4】その中から、次の「問い」が立つ
 
 以下、繰り返し。

 この繰り返しの中で、自分独自の「問い」と「答え」が生まれ、
それが次第に領域を広げ、深さをましていく。そうして、
「自分の考え」が生まれ、それがあるレベルにまで到達した時、
その「自分の考え」を「思想」と言うのだ。
「思想」というとずいぶん偉そうだが、ただ、それだけのことなのだ。

 多くの人には、「自分の考え」がない。「他人の考え」「親の考え」
「世間の考え」を持っているだけのことだ。
それはこの【1】から【3】ができないからだ。

 まず、「自分の問い」が立たない。
何となく問題を感じる。何となく疑問を思う。
親や恋人に、上司や先生にいろいろ言われ、問い詰められる。
これはすべての人に起こる。

 しかし、そこから、真剣に自分の答えを出そうとしない。
なぜなら、親や世間一般の考えを自分の考えとしていても、
とりあえず困らないからだ。または疑問を感じても、
それに代わる意見を出すだけの気力も覚悟もないからだ。
つまり、自分自身の「問い」を立てようとしないのだ。

 よく、「ちょっと違う」という言葉が使われる。
しかし、その人はいつまでも、何に対しても「ちょっと違う」と
言い続けるだけで、その「ちょっと」のナカミに迫ろうとはしない。

 もし、本気で「問い」を出したとしよう。すべてはそこから
始まるのだが、世間一般の考えのレベルを超えて、「自分の答え」を
出すのは簡単ではない(だから「先生を選べ」が必要になるのだが、
多くの人にはその覚悟はない)。そこで、世間レベルにもどって
それに屈服するか、答えが出ないままに保留し続けて、結局は問いを流してしまう。
そして言うのだ。「ちょっと違う」。けれど、「ちょっと違う」だけだ。

 さて、頑張って「答え」らしきものを出せたとしよう。
しかし、「答え」らしきものを出しても、多くの人には、
それは「遊び」であり、その答えを生きようとはしない。
「答え」を出すのを、ゲームのように楽しんでいるだけなのだ。
頭の良い人に多いが、その「答え」は軽やかで「知」と戯れたり、
「奇矯」だったりする。

 その人は、深まることはなく、バラバラの知識が増えるだけのことで、
「自分の意見」にはならない。

 もし、「答え」を出したら、それを「実行」し、そのままを
「生き」なければならないなら、それはしんどいし、
他者との対立が予測されるので怖くなるだろう。

 それが何となくわかるので、答えを出さなかったり、
そもそもの問いを出さないようにする人も多い。それが普通なのだ。

 もし、「答え」を生きなければならないなら、答えを出すときは
真剣になるだろう。そこから、本当の思考が始まるのだ。
それはぶかっこうだったり、不細工だったりするが、
圧倒的な力を持って迫ってくる。

 「答え」を生きるなら、必ず問題が起きてくる。
最初の「答え」はまだまだ狭く、浅いものでしかないからだ。
「生きる」ことは全体的で、すべてが密接にからまっている。
「生き」る限り、次から次へと問題にぶつかる。その問題から
逃げることなく、真正面から次の「問い」を立てるなら、
そこから1つ上の段階に進む。そして、その段階で次の
「答え」を出していく。

 先に述べたように、このサイクルをどれだけ、先に進められるか。
それだけが問題なのだ。
どうだろうか。あなたの意見とは「ちょっと違う」だろうか。

(2011年12月24日)

10月 10

二股人間の二股語 「バランス」と「ペース」

「バランスを取りたい、バランスが重要」。
「自分のペースでやりたい、無理ないペースでやりたい」。
そう求める人が、中井ゼミにいる。

こうしたフレーズは、世間ではよく聞くものである。ごく普通の言葉だろう。
しかし中井ゼミの内部では、ほとんど聞かない。私がこうした言葉を使うことはない(と思う)。

「バランスをとりたい」
これは、中井の基準と、自分や世間の基準との間で揺れ、二股を許してほしいとの願望の表明なのだ。
どちらか1つを選択することを求めないでほしい。
2つの世界の両方がほしいから、否、実際は自分や世間の基準で生きているし、生きていきたいが、
中井との関係も切りたくはない。中井もスペアとして保持しておきたい。
それを何とか、可能な道を模索している。二股状態でいることを許してほしいと願っている。

「自分のペースでやりたい、無理ないペースでやりたい」
これも、事実上、二股を許してほしいとの表明だ。
1つだけを選択する時期の決定は、自分に任せて欲しい。
そしてその選択・決断の時期をずっとずっと先に延ばしていく。
つまり、選択する覚悟はない。これは、選択しないという生き方、二股の承認を求めることだ。

以上から、「バランス」と「ペース」という言葉は、
二股人間の二股性を表す言葉であることがわかる。

2016年9月13日