8月 09
「暴力的平和学習」への代案
私たちの表現指導の研究会は、毎夏全国大会を行っている。自力で行う力はないので、日本作文の会の全国大会に便乗し、その分科会として行っている。
今年は日本作文の会の全国大会【第59回 全国作文教育研究大会(2010年滋賀大会)】が8月5日(木)から7日(土)。その分科会6日、7日に、我々は以下のような報告と討議を行った。会場は近江兄弟社学園。
■発表1 夜間定時制に学ぶ生徒達の詩
―寄りそって十四年― 遠藤 芳男(埼玉)
貧困や格差、いじめや不登校そして外国籍の子ら。夜間定時制には今日の教育が直面する諸課題がごった煮のように集中している。定時制教師にできる事、それは生徒の成長を願い、生徒一人一人に寄りそう事。「ほんとうの思い」を詩に書いてもらってきたどこにでもいた国語教師の報告。
■発表2 社会参加と書く行為 草野十四朗(長崎)
高校生が学校の枠を越えた社会参加に取り組み、社会につながる回路を持ったとき、彼らにとっての表現という行為はどのような意味を持つのか。
本報告では、平和活動に取り組む高校生たちの文章や口頭表現を取り上げながら、彼らがその活動を通じて、現実認識・他者とのコミュニケーションの取り方・考え方などを、どう形成し、表現したかについて、考察したい。
■発表3 三年後、再びの学習旅行作文指導 宮尾美徳(東京)
三年前におこなった学習旅行の作文指導に関しては、いろいろな方々から数々の指摘、助言を受けた。今年、再び同じ旅行を引率するに臨んで、それらを活かした作文指導を試みた。はたして三年前よりどれだけ前進したか、生徒作品を紹介し、再びご批判を仰ぎたい。
私は草野氏(長崎・活水高校)の報告の司会をした。長崎は平和学習の盛んなところだし、活水高校はその中核となっている学校である。しかし、氏は、従来の平和学習への「暴力的平和学習」との批判があることを述べ、それを真摯に受け止めて、その代案を模索している。「暴力的平和学習」とは、その解決策を示すことなく悲惨な事実ばかりを突きつけることで、子どもたちを追いつめ、かえって「戦争賛美」者を生みだしてしまうような学習を言うとの説明だった。
それへの代案の具体的内容とは、生徒の学校外での自主的な社会活動の奨励と、学内での新たな平和学習のカリキュラムの作成だった。高校生が、そうした活動を踏まえて書いた、「不戦の誓い」や志望理由書などが紹介され、その内容や表現、その背景の平和学習の意義について話し合った。
パターン化されたアピール文を打破したものが生まれていた。自分たちの実感にそくした言葉、主体的な取り組みから生まれた言葉が、力強さを感じさせた。
志望理由書は、イスラエルとパレスチナの高校生たちとの交流会で「核が必要だ」と主張され、「核廃絶」「戦争反対」の疑うことのない大前提を、初めて大きく揺さぶられる。また難民キャンプを訪れて、今緊急に必要なのは「平和」への活動ではなく、難民救済のための活動ではないか、と疑う。こうして自分の立ち位置を大きく揺さぶられ、そこから、彼女の新たな問いが生まれていく。
こうした文章を見ていると、ここに平和学習の前進が確かに感じられた。
「暴力的平和学習」とは、その解決策を示すことなく悲惨な事実ばかりを突きつけることで、子どもたちを追いつめ、かえって「戦争賛美」者を生みだしてしまうような学習を言うとの説明だった。
「暴力的平和学習」については、これをより一般的にとらえ返せば、教育一般に言えることではないかと、私は思った。つまり、生徒の主体性や内発性を無視し、教師の側の答えを押しつけるような教育である。その危険性は教育活動に常に、ついてまわる。私たちにできることは、そのことを自覚しながら、生徒の主体性を尊重するための具体的な手だてを作ることだ。自分自身の考えや信念は、それを隠すのではなく、積極的に自説、私見として、その根拠と共に、明示するべきだと思う。しかし、私見を「真理」として「正義」として押しつけてはならないと思う。
なお、草野氏は今、活水高校で新たな図書館の理念を実現する活動に取り組んでいる。その新構想の理念の一つで、具体的な設計を担当するのが平湯文夫氏だが、彼がその理念を実現した一つが会場になった近江兄弟社学園だった。それは偶然だが、この機会だから、草野氏とその様子を見学に行った。丁度、できあがった図書館の引っ越し作業中で、平湯文夫氏が立ち会われていて、お話を伺うことができた。
8月 09
「自分作り」のための小論文
8月2日、東京で、小論文指導の講演をした。
第一学習社の小論文事業部主催で、東京を中心に関東圏の高校の先生方、約160人ほどが参加された。
タイトルは「「自分作り」のための小論文」。マニュアル化した、ナカミのないものではなく、少しでも、彼らの力になるような指導をしようという趣旨だ。
1時間の講演後、20人ほどの方々と座談会があり、そこではそれぞれの置かれた学校の現状や、悩みなどが率直に出され、意見交換することができた。
講演会で配ったレジュメを以下に掲載しておく。私見の概要はお分かりいただけるだろう。
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☆ 根本問題 「生きる力」を育てるための小論文指導とは何か
テキスト テキスト テキスト
マニュアル
問題意識 意見 意見
(問題意識への答え) 意見
? 新学習指導要領
(1)大きな前進
1.全教科での言語活動、2.その中心が国語科、3.体験、現場の重視
(2)現在の教育の課題、国語科の課題
1.文学と道徳教育
2.知識が現実と無関係
3.論理=思考(対立)ではなく、感性・感情(共同体の空気を読む=集団と一体)
(3)学校全体の教育の構築
1.学校の課題(生徒一人一人が、本当に必要としている力は何か)
2.全教科の連携、3年間のスケジュール、
? 今の高校生の課題は何か。
(1)根本の問題
1.将来像がなく、親からの自立が進んでいないこと
2.「自分」に自信がなく、他人に評価されないと不安
(2)その理由
1.「豊かな社会」が実現し、社会自体が目標を見失っている
2.体験の貧弱さ、現実社会の問題の見えにくさ、親子の一体化。
3.自己決定=自己責任が求められる厳しい社会になったが、
それに相応しい教育が行われていない
(3)対策
1.教育目標は「自分作り」 「自分探し」ではなく「自分作り」
「自分」が弱い、または「自分」がないのだから、それを作るしかない
「自分」とは、自分の問題関心、「問い」、テーマのことである。
2.方法 どう教育するのか
個人的な体験を掘り起こす一方で、現実社会(自然も)の問題にぶつからせる
個人的な体験の意味、現実社会(自然も)の問題の意味を考えさせる
その問題と、自分の生き方を関係させて、考えさせる
「自己理解」と「対象理解」の相互関係 対象理解は自己理解のため
? 国語科と他の全教科の関係
内容=知識 → 国語科以外の全教科
形式=思考・論理のトレーニング=能力 → 国語科
? 読解指導がすべての前提
(1)読解=論理トレーニング
(2)「文を書くとはどういうことか」を学ぶ
1.テーマと結論、2.それにもとづく構成、3.文体の選択的使用
? 表現指導
(1)目的
目的は、高校生が自分のテーマ、問いを作ること
「答え」を出すことよりも、「問い」を立てることが重要
「仮説」は最初は不要。「問い」が立てられればOK
(2)表現指導の3要素
1.自分史、経験の作文 描写。小説のような表現
5W1H、気持ちや感情、思いや考えも書く
自己相対化、客観的な表現を学ぶ
2.調査し、取材する文 説明文、意見文 → 「レポート」
客観的な事実(事件)、統計、図表も
文献の要約
フィールドワークと取材 →「聞き書き」
3.総合する レポート、意見文 → 論文や小説
※???のすべてで、最初は事実レベルの把握、表現から始まる。
次第に、事実の「意味」の叙述を加えていく。
(3)表現指導の系統案
1年 自分(生活経験)→ 仕事、家族史(戦争体験) → レポート
2年 自分史 → 関心のある社会問題、自然科学 → 論文
3年 自分(進路、進学) → 進路、進学に関係する社会問題、自然科学
→ 志望理由書、小論文など
(4)文体の教育
1.描写 ※この発展形が物語や小説
2.説明文 →意見文 ※この発展形が小論文・論文
? 教師の課題
(1)課題
1.表現のどこに課題を見いだし、次の指導につなげるか
対象への認識、自己への認識の深まりをどう理解するか
それには、論理的な理解と指導が不可欠
2.「きれいごと」をどう排除し、「問い」を立てるか
(2)教師の自己研修が不可欠
実際の生徒作品をたくさん読み合いながら、先行者から学ぶしかない
※学校内部、国語科内部での学習会や外部の研修(鶏鳴学園や作文研究会)
【参考文献 中井浩一著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)、『脱マニュアル小論文』(大修館書店) 】
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7月 15
新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。
8月号の 第5回 言語教育を育成する教育
木下是雄氏と「学習院言語技術の会」から学ぶ
1.温故知新 過去から学べ
新しい学習指導要領では、全教科での「言語活動」の充実がうたわれた。これによって、「言語活動」が教育の中心に取り上げられ、あわせて国語科の意味が正面から問われることになった。これは画期的なことである。
「言語活動」に関しては、さまざまな実践が行われてきたが、従来の国語科への批判から生まれたものとしては、木下是雄氏の『理科系の作文技術』と彼を中心とする「学習院言語技術の会」の活動が挙げられよう。
教育の歴史をながめると、過去の歴史が生かされていないことを痛感する。詰め込み教育から「ゆとり教育」への転換と「総合的な学習の時間」の導入、学力低下論争以降の揺れ戻し。一体この騒ぎは何だったのだろうか。同じような事は戦後すぐに導入された「新教育」をめぐる対応でも起こり、その後も何回か同じ事が繰り返されてきた。しかし、いっこうにそうしたことから学習していないように思われる。
今回も、「言語活動」の充実を言うのなら、まずは、木下是雄氏と「学習院言語技術の会」(「言語技術の会」の表記する)が残した仕事を学ぶことから始めたい。
2.木下是雄氏と「学習院言語技術の会」
物理学者で学習院大学教授だった木下是雄氏が当時の学習院大学院長に言語技術教育の必要性を答申したのが一九七七年。彼は学会での研究発表や論文の作成で、諸外国の研究者に比べて、日本の若手の能力不足を痛感していた。「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、小学校からしっかりした論理教育を行うべきだ。しかし日本ではそうした教育が放置されている。国語科は文学偏重でその任を果たしていない。したがって、理科系の研究者である彼が、自ら言語教育に乗り出したのである。
木下は、その問題意識を共有する学習院の小学校から大学までの先生方(国語科・国文学、文系だけではなく教科横断)と「学習院言語技術の会」を組織し、小学校から高校までの一貫した言語教育の教科書を作った。学習院内の各学校のすべての教科でそのテキストが使用され、一貫した言語技術教育が行われることを希望したのだ。
このテキストは小学校用が二冊、中学、高校用に各一冊。この計四冊が一九八〇年から八八年までに刊行されている。この間に、木下氏は八一年には『理科系の作文技術』(中公新書)を、九〇年には『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー)を刊行している。
3.言語技術の教科書
この教科書の目次を見てみよう。木下氏が強調している「事実と意見の区別」「パラグラフ理論」「レポートの書き方」などはすべてに含まれている。中学用ではさらに「人前で話す(スピーチ)」「話を聞き取る」「説得をする」「討論をする」「図書館で調べる」「速読に慣れる」などの項目が並ぶ。高校用では「新聞を読む」「ノートをとる」「資料の使い方」「ディベート」「会議運営の原則」などが並ぶ。
これらを通読して、私は強い感動を覚えた。ここには、中学生、高校生に必要なあらゆる言語活動が網羅されているのではないか。これにネット社会に必要な技術を追加すれば、現代でも十分に通用する。否、今もこれを越えるレベルの教科書は生まれていないのではないか。
私が一番感心するのは、これらのテキストが、多様な言語活動を一つの原則で貫いていることだ。それは木下氏の根本原則である、「事実と意見の区別」「パラグラフ理論」であり、「レポートの書き方」で強調される文章作成法である。他にも言語活動に打ち込んでいるところはあっても、個々の活動がバラバラに指導されているのが普通ではないか。「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、一貫した教育が行われることの意味は大きいはずだ。
本誌の読者の方々が、これから言語活動を導入するにあたって、または従来の活動を反省する際に、これらのテキストは大いに役立つだろう。実は、私自身がこのテキストで自己反省を行ったのだ。私の塾では「生きる力」の習得を看板に掲げ、そのために必要なあらゆる言語活動を学習することを組織してきた。その方法を、これらテキストから、もう一度再点検をすることになった。
学ぶことは多かった。一部不十分な点があると考えて、この連載でもそれを指摘し代案を提示したが、それは木下氏の方法をさらに発展させるためであることに、留意していただきたい。
しかし、学ぶのは、直接的なことだけではない。木下氏たちが取り組もうとした課題の大きさ、その困難さをも、しっかりと受け止めたいものだ。これだけの教科書を用意した学習院で、このテキストは実際にはどう扱われてきたのか。経過を省き、現状だけを述べれば、それは全教科での一貫した言語教育にはほど遠い。テキストは小学校、中学、高校で全生徒に配布されてはいるものの、高校ではその授業は行われておらず、中学でも一部の生成方が使用するだけだ。これだけの努力を傾注した学習院ですらそうなのだ。そこにそびえる壁の大きさが推測できよう。しかし、それに取り組めなければ、今回の学習指導要領も、ただのかけ声だけに終わるだろう。
教科書編纂に関わったある先生は、「このテキストを使用した教育は、学習院よりも、他で行われ、そこで深化されているのかも知れません」という。
4.学ぶこと
さて、私が『理科系の作文技術』や「言語技術の会」の教科書から学んだこと、改めて再確認したことを以下にまとめておく。またいくつかの点については小さな問題提起をしておいた。少しでも参考にしていただければ幸いだ。
(1)文章のまとめかた
木下氏は、最初にイイタイコト(結論)を「目標規定文」にまとめ、「その目標に収束するように文章全体の構想を練ること」を求める。これは、文章の基本中の基本であり、すぐれた書き手の多くが同じ事を述べている。例えば、哲学者の牧野紀之氏は「結論がすべてを支配する文」と定式化しているが、全く同じ事を言っていると思う。ただし、この基本の正しさだけではない。「言語技術の会」のすばらしさは、この方法をあらゆる言語活動で貫こうとした点にある。弊塾でも、この原則を文章、口頭発表、スピーチ、取材などのすべてで求めている。
ここで、一つ注をつけたい。この方法は基本中の基本だが、前提があることに注意すべきだ。それは対象を十分に捉えきっており、結論が出せる段階になっていることだ。そうでなければ、こうした方法で生まれる文章の多くは表面的なものになりやすい。対象と深く切り結んでいない場合には、まずは実際に対象にぶつかるように求めるしかない。つまり現場に行き、取材させることである。
「『主観的感想』を入れるな」という指示についても同じで、自分の考えがまだ漠然としているような段階では、「主観的感想」こそが、意見を作り出すためのヒントになる。
なお、木下氏はこの「目標規定文」を「主題(文)」と名付けるが、「結論(イイタイコト)」の方がわかりやすいと思う。
(2)テーマ設定、テーマの絞り込み
レポート作成で、木下氏が力を入れているのは、作業の一番最初の段階であるテーマ設定である。これは本連載で取り上げた海城学園の社会科でも、川北氏の総合学習「環境学」でも同じだ。高校生は大きなテーマを選びたがるが、小さく具体的で、できれば身近な経験から検証可能なテーマに絞りたい。すでに述べたように、対象にどのテーマを選択するかと同時に、なぜそのテーマを選ぶのかの、自己理解が重要である。テーマ設定に成功した場合は、半ばは終わったようなものだ。教師の力量は、ここで試される。
なお、このテーマ設定で、木下氏は「課題」からのテーマの絞り込みを「話題」と表現するが、「テーマ(問題)」の方が良いと思う。
(3)事実と意見の区別
木下氏たちは、事実と意見の区別の学習をすべての基礎としている。これは正しいと思う。なぜなら、私たちが目にするすべての記述には、事実と意見の両面があり、その多くでは両者が渾然一体となっているからだ。
だから、まずはこの二つを切り離すことが必要になる。事実だけのように見えて、秘かに主張が忍び込まされている場合もある。反対に、根拠のある意見のように見えても、実際は根拠が弱い場合もある。テキストには、誰のどのような意見があるのか、その意見はどのような事実にどれだけの必然性で支えられているか。
与えられたテキストで、事実と意見を区別するのは、書き手が事実のどの面を取り上げ、それをどの立場から考えているかを分析するためだ。その作業をする中で、事実の他の面は何か、他の立場とは何かを意識的に考えていく。これが「批判的に読む」ことになる。
事実と意見を切り離すのは、両者を再度、自分自身の視点から結び合わせるためなのだ。それが自分の「思想」になっていくから。
「言語技術の会」の教科書では、新聞記事を取り上げ、「新聞を批判的に読む」ことを実践させている。
ここで、注意したいのは、事実と意見を区別する作業は、実際は果てのない作業になると言うことだ。どんな事実も、それを取り上げた書き手の視点から切り取られたものだ。事実を追いつめようとすると、事実は限りなく消えて行く。そうしたことまでをわきまえながらも、やはり事実と意見の区別の練習をすることが重要だ。これはテレビやネットでの報道などにまで広げて練習させたい。
なお、この事実と意見の「意見」とは「主観的感想」を入れないのだろうか。これは当然含まれているだろう。事実を書き手がどう意識したか、それが「事実」と切り離した側に残されるものになる。
(4)パラグラフ理論
これは有名だし、私もこうした考え方を以前から使って読解の授業をしている。注としては、文系の評論では、段落内部に傍流や逆説があることも多いという事実をあげておきたい。また、木下氏も段落相互の関係を問題にするが、その「立体的」関係を意識していないことを挙げておく。私は各段落の冒頭の一文、冒頭の言葉(特に接続詞)、ラストの一文を意識すれば、各段落のトピックセンテンスだけではなく、全体の立体的構成がわかる、と指導している。この点については拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)の第八章を参照していただきたい。
7月 01
新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。
7月号の第4回 社会科のレポート
インタビューを生かす構成と文体
1 理科と社会科の違い
前回までは、『理科系の作文技術』で有名な木下是雄氏の方法論を紹介し、理科のレポートを検討した。木下氏の方法の基本的枠組みには賛成した上で、そこでは切り捨てられた「主観的な感想」の意味と、それを生かしたレポートの書き方を論じた。今回は社会科のレポートを取り上げる。
私は、レポートでは、対象理解だけではなく、自己理解(なぜその対象を取り上げるのか、それが書き手自身にどんな意味があるのか)も必要だと考える。それが高校生の進路・進学の動機づけになるからだ。そこで「主観的な感想」が重要になるのは、それが対象理解を深める上で基礎となるだけではなく、自己理解の第一歩でもあるからだ。
この点では理科も社会も同じである。しかし、理科と比較して、社会科では、「主観的な感想」は一層重要になるだろう。それはそもそもの対象が違うからである。理科系では自然が対象だが、社会科では人間やその社会が対象である。自然が相手であれば、対象と自分を一応切り離すことができる。しかし社会科では対象も書き手も、同じ人間なのである。対象と自己との相互関係はいっそう緊密になり、自己理解と対象理解は切り離せない。
これは文献や統計だけからの調査でもそうなのだが、フィールドワークやインタビューや取材ではさらに重要だ。現場そのものが強烈なインパクトを持つのだが、それ以上にインタビューの持つ教育力は大きいからだ。
2 海城学園社会科の総合学習
今回取り上げるのは、私が高く評価している海城学園の社会科の実践だ。海城学園は東京都にある私学で併設型中高一貫の「進学校」。海城の社会科では約二〇年前から問題解決型の総合学習科目を導入した。それが、中学全学年における「社会?・?・?」と高校1年次の「総合社会」(いすれも週2時間)だ。
個々の生徒が関心のある社会的な問題でテーマ設定し、文献・取材調査やフィールドワークを通じて、問題解決策の提言を含めたレポートを作成する。文献だけではなく、必ず現場でインタビューをしている点がすばらしい。それも毎学期1本ずつのレポート作成だ。二〇年近くにわたり、大学生顔負けのすぐれた作品が多数生まれている。
高校1年「総合社会」の学期毎のテーマは「自分探し」「世界探し」「地域探し」。「自分探し」では、将来像を模索・構築するために、仕事の聞き書きをする。例えば、ある年度では弁護士志望の者はインターネットで企業批判・告発を行う「見えない相手」と戦う弁護士を取材した。また、職業選択とは別に、中古パソコンの学校などへの寄贈活動を行っているNPO代表を取材した生徒もいた。
三学期の「地域探し」では、自分たちの生活圏の調査が中心。海城のある東京都新宿区大久保地域は外国人の多い街だが、そこを生徒たちが巡検する。足立区に暮らすある生徒は、巡検で見聞したことから、自分の地元にも在日韓国人・朝鮮人が多いことに気づき、その聞き書きに挑戦した。
調査結果はいずれも、最終的にはレポート(400字の原稿用紙15枚程度)にまとめるが、構成は取材の目的(テーマ)、取材先の人物紹介と活動報告、自分が取材で得たものの総括(答え)からなっている。
3 インタビューの持つ力
こうしたレポートを読んでみて、何よりも驚かされるのは、インタビューが持つ教育力の巨大さである。高校生たちは、相手の回答に驚いたり、逆に問い返されることから、自分の考えや生き方を見つめ直していく。「主観的な感想」が激しく揺れ動く心を伝える。
弁護士志望の高校生が行った弁護士への取材では、当初の「弁護士=正義の味方」というイメージが壊される。「自分(弁護士)と検察官の主張は必ずしも正義とは限らず、いわゆる綺麗事のようなものよりも、ドロドロとしている」。この弁護士からの回答は、「僕にとってとても驚くべきものであった」。
また、「弁護士は、もっと真面目そうで、堅い人だというイメージを持っていた僕にとっては、優しそうな弁護士は少々意外だと思った」。「でも、弁護士という仕事は、人の話を親身になって聞くことも大切であるから、人が話しやすい雰囲気を持っている事は、もしかしたら弁護士をしている人が持つ独特の雰囲気なのかも知れないと思った」。
その弁護士は、弁護士としての悩みとして「(裁判での)自分の判断が本当に適切なものかどうか不安になること」を挙げる。そこで高校生は「確かに僕も日常生活で自分の判断が正しいものなのか、ふと考える事もあった」と考え始める。
また、パソコンの寄贈活動をしているNPOへの取材では、その代表は用意した質問にはほとんど「即答」する。しかしそうした中で、「なぜNPOを続けてきたのか」という問いには「今までの即答とは違って、『何でだろう』と自分でもはっきりとはわからないようだった。お金の問題について答える時のように笑いを交えながら即答しなかったのも、それだけ深刻に悩んだからではないかと思う」と、高校生はレポートする。
また、インタビューに応じてくれた代表以下三人が「自分の存在意義」を熱弁する姿に
「おそらくは、三人とも過去に、一般の会社と呼ばれる枠組みの中で自分の価値を見いだせずに苦しんでいたのではないだろうか」と自問する。
そして、最後にNPOの代表に逆に質問される。「将来何になりたいの」。しかし、彼は答えられない。「自分には今、趣味はあっても、『絶対にやりたい』ということが見あたらない。そのことに気づきはずかしくなった」。インタビューの間、高校生が自分の内面でずっと問答をしていることがよくわかる。
面白いのは、こうした自分の思いや相手の語りや表情をたくさん書き込むのは、高校からの入学者に多いことだ。中学の三年間で鍛えられた生徒は、客観的に対象を捉えることに慣れていて、自分を語ることには慎重だ。これは、海城の指導が大学でのレポート(つまり木下氏の方式だ)を模範とし、全体としては「客観的な対象理解」に大きく傾斜している結果ではないだろうか。
4 インタビューの「要約」
「総合社会」で配布される「レポート執筆要項」中の「引用箇所の扱い」では「参考文献から引用する箇所、取材先の意見を載せる箇所では、できるだけ自分の言葉で要約して、最小限度の分量に限る」とある。文献の要約は当然だが、インタビューもそれで良いだろうか。
社会科の林敬教諭は「放っておくと一問一答形式になってしまうし、インタビューはラストに書く自説に持っていくための根拠として使うのだから、ある程度まとめなければならない。だから『できるだけ自分の言葉で要約』するのだ」と説明した。もちろん、「最小限度の分量に限る」ことは、制限枚数におさめるためにはしかたがない面がある。インタビューが、例証・根拠なのも当然だ。しかし、中学・高校段階では、最終結論よりも、インタビューそれ自体の方に大きな意味がある場合も多いのではないか。ここは考えたいところだ。
例えば、地元の在日朝鮮人四世の方に取材したレポートでは、「外国籍を持った人の本当の気持ち」を三つほどに整理して挙げている。その一つは「民族的な差別」だが、その内実は「例えば、就職するとき朝鮮人の名前だと、ほとんど断られるし、アパートを借りるときも日本人の証人がいないと断られる事もあった。また、政治的な側面から見ても、発言権がなく、ただただ税金を取られているだけ」とあるだけだ。インタビューを要約すれば、こうなるのもしかたがないだろう。
しかし、ここは、是非、「差別」の詳しい中身を知りたいし、その語り口を生かしたり、その表情などを描写することで、高校生がその内容を追体験し、自分の問題として考えるようにしたいと思う。
5 インタビューを生かす構成と文体
ではインタビューにふさわしい構成や文体はどのようなものだろうか。
構成だが、海城のレポートは、ほとんどが冒頭に「テーマ設定の動機」が書かれ、最後に「結論」や「総括」がある。「テーマ設定」は丁寧に指導されているし、自己との関わりもよく書かれている。しかし、ラストが不十分なものが散見される。最後にも、その対象の調査を通しての「自己理解」について書かせたいと思う。それでこそ、インタビューや、そこでの「主観的な感想」が生かされるだろう。
また、文体としては、説明文だけではなく、描写文が必要に応じて使われなければならないだろう。文体は大きく言うと、描写文と説明文とに分かれる。意見文も論文も説明文の発展形である。一方、物語や小説が描写文の発展形だ。もちろん、説明文の中に、描写が入るし、描写文の中に説明も入る。
インタビュー前の、問題の背景や取材相手の経歴などは説明文になる。問題はインタビューそのものをどう書くかだ。海城のレポートを読むと、説明文の中に描写を挟むものが多く、その逆も見られる。例えば、先に挙げた弁護士への取材では、インタビューの様子がリアルに再現されるような描写が中心で、そこに説明風の文体がはさまる。
相手の語り口や表情などを再現する描写の文体は、相手の思いや自分の思いを書くためには不可欠だ。相手や自分の主張や意見をまとめるには説明の文体が必要で、それは要約が可能だ。長くなる場合は、描写は肝心な場面にしぼるべきで、それは「主観的な感想」が激しく呼び起された場面になるだろう。
こうした文体の使い分け、適宜、必要なところに必要な文体を入れる能力、それが今後は教育されねばならないだろう。
さて、私見の当否はともかく、こうした考察ができ、その指導ができることが、表現における国語科の役割だと思う。しかし無い物ねだりをしていてもしかたない。今後、各教科との連携によって進めていくしかないだろう(以前学習院の「言語技術の会」がそうしたように)。
しかし、これまでは、こうした検討はほとんど行われてこなかったのではないか。私が関わっている表現指導の研究会では、この問題に二年ほどかけて検討を重ねてきた。その成果は月刊『国語教育』誌に「聞き書きの魅力と指導法」のタイトルのもとで長期連載中だ。ぜひ参考にしてほしい。
6月 02
ディベートと「聞き書き」を学び合う
高校作文教育研究会6月例会
シリーズ:「聞き書き」を学び合う 第11回
新しい学習指導要領では、「全教科での言語活動の充実」と「国語科がその中心で指導する」ことが謳われています。教科書にもインタビューやディベートが取り上げられ、そうした言語活動に取り組むことが求められています。こうしたことに取り組もうとされる方々を支援できるように、私たちの学習会も進めていきたいと思います。
今回は、ディベートの持つ教育力を丁寧に検討してみたいと思います。まだディベートを指導したことのない方も、すでに試みてきた方も、学び合える学習会を用意しました。
また、一昨年から取り組んできた「聞き書き」シリーズですが、今回はこれまでの例会報告の中で取り上げた生徒作品から2作品を選び、その生徒作品をじっくりと読み直してみたいと思います。表現指導では、事前指導でどのような生徒作品を使用するかが重要ですし、その指導から生まれた生徒作品をどう理解するかが、その実践の意義や成否を決めます。ですから、生徒作品を読みとる能力が一番重要なのですが、これが一番ムズカシイとも思います。そのためには、さまざまな観点から、その表現の意味を読み解いていく練習を積み重ねるしかありません。
どなたでも参加できる研究会です。どうぞお気軽にご参加ください。
参加予定の方には生徒作品を送りますので、連絡ください。
1 期 日 2010年6月27日(日)10:00?16:30
2 会 場 鶏鳴学園御茶ノ水校
東京都文京区湯島1?9?14 プチモンド御茶ノ水301号
? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください
3 報告の内容
(1)「聞き書き」の生徒作品の分析
連載「聞き書きの魅力と指導法」の中で、以下の生徒作品4編を紹介することになりました。戦争体験の聞き書き2編は5月例会で読み合いました。今回は仕事の聞き書き2編を取り上げ分析します。
1.戦争体験の聞き書き
?小野田さんの実践から「慟哭」(中学生、三人称、創作風 古語の危険)
?程塚さんの実践から「陸軍病院で死んだ伯父」(三人称、語り手と聞き手の思いが混乱。ルポ風の書き方。)
2.仕事の聞き書き
?藤本英二さんの実践から「OLとは言え、企業戦士」(一人語り、弾けた面白さ)。藤本さんは『聞かしてぇーな仕事の話』(大月書店)で有名ですね。どっしりとした内容がある面白い作品群から一篇選びました。OLが、普段着のことばで、自分の仕事と職場の様子を語ります。ロッカールームでのOLたちの生態は抱腹絶倒。
?中井の実践から「企業戦士『親父』」(高校生、インタビュー型、問いを立ててインタビューに臨んでいる。) 親父(銀行マン)への仕事の聞き書きで、問いと答えの形で書かれますが、親父の関西弁の語り口がそのまま生かされていて迫力があります。
?と?では、文体や構成も違い、内容も弾けた面白さやシリアスな側面もあります。こうした違いも考えながら、その作品を味わってみたいと思います。
(2)高校教育における「ディベート」を考える
報告者はもう20年近く、実践を積み重ねてきた杉浦正和さん(芝浦工業大学附属柏高校の社会科担当)と、杉浦さんとともに、県立小金高校などで実践されて、現在は大学の教職課程を指導されている和井田清司 さん(武蔵大学人文学部)です。
高校における言語活動でディベートを行う意味から、その指導法、その評価までを考えたいと思います。また、ディベートによって高校生の認識はどのように深まるのか、それを実際の文章から検討したいと思います。
世間では、ディベートへの批判や反対論もありますから、そうしたことも考えたいと思います。
和井田さんには大学生(教職課程)におけるディベートの意味をも語ってもらいます。
今回の報告者のお二人が編集した単行本には以下のものがあります。
◆生徒が変わるディベート術 国土社 1994
◆授業が変わるディベート術!―生徒が探究する授業をこうつくる 国土社 1998
4 参加費 1,500円(会員無料)